千寿の楽しい歴史
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2015直方に生まれた向野堅一物語(その7)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その7)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

7・堅一の晩年の行動

第一次大戦のとき世界中が好景気にあった。しかし、昭和初期に、今度は世界恐慌が起こった。世論は国権主義的傾向を強めていった。シェルと共同のガソリンスタンドを
つくろうとし、奉天からウランバトールまでの広大な土地を買い占めたところで排日運動が起こった。

自分が創立した銀行から借金もしていたし、多くの人の保証人になっていた。株価が下がり、堅一も破産状態になる。その苦悩は、有二・元生・啓助宛の書簡に書き表されている。苦労しながら福岡の因幡町の屋敷を処分したりして乗り切った。

堅一が常に息子たちに言っていた言葉「七転八起」「誠意を尽くせば人はわかってくれる」は、彼の人生を象徴している。

晩年は、次第に押し寄せてくる軍部の経済干渉を嫌い、唯一民間人として奉天会議所のメンバーに留まり続けた。しかし、商業意欲を失ってコレクター三昧だったという。

その堅一も、日本軍が満州事変を起こそうとしていることを事前に知り、再び東京へ金策に走らざるを得なかった。事変はくい止めたかった。なぜならば中国人相手に商売をしている茂林洋行を窮地に追い込むこと、再び株価が暴落して満州経済が破綻するのを恐れたからである。押し寄せる動乱の嵐が吹きはじめる昭和6(1931)年8月に向野堅一は上京する。

しかし、その過労は限界を超えた。昭和6(1931)年9月、脳卒中で倒れる。入院加療したが、親友や知人に見守れ、9月17日に永眠する。享年64歳であった。

近衛文麿家にあった『向野堅一従軍日記』初版本は、昭和7(1932)年9月17日の一周忌に際して出版されたものである。

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昭和15(1940)年10月30日、日清・日露戦争の特殊任務で殉職した9名に堅一の名を加えて、金州三崎山に新しく慰霊碑が建てられた。

おわりに

最近、多くの資料が直方市から発見されて向野家からも提供されるようになった。いずれも貴重なものばかりである。とりわけ晋がアルバムから剥ぎ取って奉天から持ち帰った写真は、最もたるものであろう。

それらの写真の中で見る晩年の堅一が着ている服は、袍(長袍)という中国服である。中国では、学校の開講式などの公の場所で、それ身に纏って出かけて行ったという。晩年になるほど、その傾向は強くなった。


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終わります。ありがとうございました。

向野堅一記念館

記念館について、向野堅一について、施設案内、利用案内、アクセス、リンクが見られます。






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梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2015-12-31 09:54 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2015直方に生まれた向野堅一物語(その6)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その6)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

6・堅一の改宗と社会奉仕活動

元来、直方の向野家は浄土真宗の真照痔の檀家であった。しかし、堅一は竹田黙雷に出会って臨済宗に改宗し、建仁寺で修行して得度した。彼の号「寒林」と『骨肉』には竹田黙雷の影響が見られる。浄土真宗から臨済宗に改宗した堅一は、奉天に妙心寺派の大義寺を建立する。

向野堅一(寒林士徳のち子徳)の漢詩集『拙逸庵妙』(自筆)3冊

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当時、臨済宗のなかでも妙心寺派は大陸布教に熱心であり、とりわけ円山太嶺(圓山太嶺)は大陸布教にその名を刻んだ人である。奉天では丸山老師に師事して参禅した。堅一は寄せ墓を嫌ったという。収子が死亡するまでは、向野堅一一族の墓は新入の向野家の墓地にあった。今は福岡県糟屋郡久山町の西日本霊園東部墓地(大字猪野849)にある。

日清・日露戦争および日露戦争義勇軍の友人の死は、堅一に大きな衝撃を与えたに違いない。恩義に厚かったことは、その後の彼の生き様で知ることができる。戦争で絶命した人々の冥福を祈りつつ,独り座禅する堅一の脳裏には、常に死と隣り合わせで戦場に赴く通訳官の苦悩と、死んでいった仲間たちへの慕情があったと思われる。

大義寺に祭られているのは日本人だけではない。日露戦争で戦死した満州や蒙古の人々も祭られている。

胡桃沢耕史の『黄塵に駆ける』上(講談社、平成元年)は、石川(石川伍一)とともに、木賃宿に泊まり並んで寝ていたが、巡視の兵士が石川を見つけて騒ぎたてたとき、とっさに小声で石川が『おれはもう顔が知られていて言い逃れはできないが、おまえは知らん顔でいろ』と言われ、わざと知らん顔でいた。そのため向野は九死に一生を得た。

戦後40年、昭和に入り、日清の役の話が人々に忘れられるころも、終生、自分の目の前で引き立てられ銃殺された石川のことを語るときは、両眼が涙で溢れたというと付記されている。

堅一は、奉天や遼東半島に数多くの戦没者の慰霊碑・記念碑を建てた。平手泰岩の妙心寺別当建立に協力して、奉天市新高町、奉天第一中学校前に寺院を建立した。そこを日清日露戦争役における特別任務志士の菩提所とし、32名の殉国の士を弔った。これが、後の大義寺である。境内には供養塔も建立した。

このときの式典の様子は、満州映画ニュース「協和満映時事報 第七集 大義寺供養塔慶賛式典(奉天)としてDVD化されて現在販売されている。

また、奉天神社などの設立に関与し、学校創立にも力を入れていった。中国満州という異国の地で、異民族相手に商業を展開していくには、大いなる苦労があったと考えられる。

続きます。






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by kusennjyu | 2015-12-30 15:19 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2015直方に生まれた向野堅一物語(その5)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その5)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

5・家庭人としての堅一

堅一の先妻の名は隆子と言い、廣瀬淡窓の実家・廣瀬宗家当主・廣瀬七三郎の長女である。

晋は「結婚ノ動機ニツイテハ知ル由モナキコトナレドモ、リウ(隆子の戸籍名)ノ弟廣瀬貞治氏一族ノ廣瀬寅太郎氏トハ日清貿易研究所ノ同期生ナリシコトナレバ其縁故ニヨルモノナラン」と記している。

廣瀬寅太郎(廣瀬淡窓の弟・三右衛門の曾孫。姉の禎子は横田國臣男爵の妻)は堅一と同じく日清貿易研究所の卒業生でしかも同期生であった。

堅一とともに台湾仏教布教活動や日露戦争で活躍し、『台湾浄土』によれば、台湾では始終、堅一と行動をともにしている。

寅太郎は森鴎外と親交厚く、日田の廣瀬家に鴎外を案内している。日田での滞在状況は、鴎外による『小倉日記』に記述されている。

堅一と隆子との縁については、遊説に来た堅一に一目ぼれして、弟の貞治を通して、その思いを伝えたとも語り継がれている。隆子が堅一を見初めたわけである。

貞治からの「女の身から言えないから察せよ」という堅一宛の手紙や、堅一が隆子のために詠んだ漢詩も現存している。しかし、『宗方小太郎日記 明治二六~二九年』には、上海で堅一とともに活動する貞治の名が記されているので、寅太郎と貞治のどちらの縁によるものかはまだ明確ではない。ただし、隆子の墓碑を寅太郎の義弟・横田國臣(明治・大正の司法官。豊前宇佐郡横田村で島原藩士・横田宗雄の長男として出生。咸宜園に学ぶ。)が書いていることから、寅太郎の世話によるものと考える説が有力である。

先妻の隆子   

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隆子は、結婚10年後に4人の男児を遺して明治40(1907)年6月4日、37歳の若さで盲腸炎の手遅れが原因で亡くなってしまう。隆子との間には長男・晋、次男・有二、三男・元生、四男・啓介助という男児が授かった。隆子の妹・収子(廣瀬七三郎の三女)は、姉の遺した息子たちを居育するために堅一に嫁いできた。つまり、先妻の遺児を立派に育て上げることが彼女の使命であった。堅一はその感謝の気持ちを表したものを収子に直接言わずに貞治に書き送った。収子が死ぬまで大切にしていたものは、兄・貞治から渡された堅一からの手紙であった。

先妻・隆子を失った後、福岡市住吉町から因幡町31の二番地に留守宅を定め、家族を福岡に残して中国大陸・満州に赴いた。そして、大陸で経済活動を展開していたときも、堅一自身は満州、福岡、神戸、大阪、京都、東京を頻繁に単身で往来していた。

後妻の収子

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向野堅一の一家

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彼は非常に教育熱心な男であった。「親類中で福岡の子供が一番能く勉強すると言いいうる位になってもらいたい」と、遠い満州からわざわざ子供たちに課題を出し、作文を送らせて、それに対して自ら添削して返すような父親であった。

後妻・収子は、夫の方針に従い、隆子の遺児たちの作文を頻繁に送った。晋、有二、元生、啓助に宛てた手紙には、堅一の教育理念が詳しく述べられている。父親としての教育熱心さは、『骨肉』での文芸教育に現れており、堅一の教育方針がわかる。『骨肉』は上級学校に進学するために、向野家で同居していた従兄弟たちと彼の息子たちでつくった手作り雑誌である。

満州から時おり戻ってくる堅一へ、子供たちが見せるために、大正2(1913)年から毎月発行していたものである。この『骨肉』については斎藤太郎『骨肉』――大正期家庭教育をうかがわせる手作り雑誌――」が詳しい。そこでは研究対象としての可能性が示されている。また『骨肉』とは別に、教科書とノート、日記が残されている。

手作り雑誌 『骨肉』

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数え年20歳で母となった収子に、隆子の遺児4人もよく懐き、「世ニアル如キ風波ヲ見ズ」と言われた。『我が先亡の記』(向野晋、昭和42年)によれば、収子が独り老いていく様子を見、ていて、晋は、堅一の長兄・菊次郎の前で、両親に一家の奉天移住を勧めた。収子からは「自分一人辛抱すればよい、いらぬことを云うな」と叱られた。しかし」菊次郎の助言により、堅一もようやく了解して決心し元生が東大に進学すると同時に、一家は奉天琴平町五番地に住居を移した。

晋は、「長期にわたる父親との別居生活が解消され、ようやく一家団欒の楽しみを味わうことが出来るようになった。初めて春が来たような感じがした」と書き記している。

堅一の子供には、先妻・隆子を母とする晋、有二、元生、啓助と収子を母とする信子、克子、玄吉がいた。皆、20代、30代で亡くなり、平成まで生き抜いたのは、元生と末娘の克子であった。


続きます。





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by kusennjyu | 2015-12-29 12:44 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
直方に生まれた向野堅一物語(その3)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その3)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

3・財界人としての向野堅一

筑紫洋行を義和団事変で失って以後、裸一環からの出直しであった。
財界人としての向野堅一は、大阪では、白岩龍平らとともに日清汽船株式会社を創立する。

日露戦争では思いがけず日本が勝利し、日本が後の満鉄を獲得することとなった。しかし、社宅がなかったので、社宅を建てるように満鉄から依頼された。

明治38(1905)年5月に満州に赴き、石炭販売および陸軍用品払い下げ販売業に従事する。そのかたわらガラス工場を開き、明治41(1908)年より貸家を建築して満州鉄道員の社宅を建設していきながら瀋陽建物株式会社を設立する。

奉天春日町はすべて堅一の所有であった。同時に、満州市場株式会社を設けて中央市場をつくる。そして熊本県出身の深見十八と中国人と経営共同の最初の日支合弁正隆銀行を設立した。

堅一は化学工場や石炭・石油販売業にも手を染めた。最終的に総合商社茂林洋行の社主となる。茂林洋行は中国人相手に商業を展開する企業であり、保険会社の代理店も引き受けた。

奉天商業会議所副会頭を6年間つとめ、会頭は満鉄総裁、次席が向野堅一であった。実際は堅一が商工会議所の実権を握っていた。

八幡製鉄所から、日本で初めてのブリキを造りたいから出資してくれと依頼があったのを断り、「満州で儲けた金は満州でつかう」と言って正隆銀行の創立に使った。

創立した多くの会社では中国人や日本人たちがともに仕事をし、ときどき、皆で集まってパーティを開いていた。


従業員とその家族と一緒に撮る

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正隆銀行関係書類


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金弐千五百円券  

洛陽建物株式会社 専務取締役 向野堅一押印


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続きます。







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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2015-12-27 21:57 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
直方に生まれた向野堅一物語・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

はじめに

向野堅一については、故郷の人々もその一族もあまり知らない。

福岡県の人名辞典や直方市お市誌にも記載されていない。

しかし、彼の名前は全国版人名事典に見出せる。

向野という姓は直方地方に多く存在する苗字である。向野堅一はその直方に生まれた。

1・直方の向野家と堅一の進学

明治元(1868)年9月4日に福岡県鞍手郡新入村(現直方市上新入)に生まれた。

家業は農家で幼名は寅吉といえ、あさ・菊次郎・齊・久という兄弟姉妹がいた。

明治14(1881)年5月、鞍手郡新入明善義塾に入って漢学(経書や歴史)を修行した。

明治18(1885)年3月、明善義塾を退学し、福岡の勉焉(えい)学舎の普通科で修学した。

明治19(1886)年に中学修猷館に入学したが、卒業目前に病気のため明治23年に退学した。卒業目前に病気になり明治23(1890)年に退学した。

荒尾精には、日清貿易研究所を清国の上海に設立する計画があり、彼は各地を廻っていた。そして、福岡にやって来て、有志を集めて演説を行っていた。偶然、堅一はこの演説を聞いたのである。このとき堅一は、母国の基本は商業の発達にあると考えた。商人になることを目指し、難関の試験に合格して、上海へ海を渡った。

明治23(1890)年9月、上海に創立された日清貿易研究所(後の東亜同文書院大学)に入学して、清語や英語、地誌、商品研究を勉強し、明治26(1893)年6月に全科課程を一位で卒業する。

卒業後の明治26(1893)年7月より日清商品陳列所の活動に従事し、実施商業の研究をしていた。

明治27(1894)年8月、日清戦争開戦に上海にいたが、9月上旬、上海留まっていることが大変危険になったので日本へ帰国した。


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続きます。






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2015和キャンドルナイト ”感謝と絆”で筑前琵琶とギター演奏
和キャンドルナイト ”感謝と絆”

日時:12月22日(火)17時30分~20時

場所:みやま市下庄 ギャラリー喫茶「花の木」

参加費:入場無料 (飲食代実費)

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筑前琵琶 石橋旭姫さん演奏
   18時~18時30分

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ギター 檀遼さん演奏  18時30分~19時

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演奏が終わって

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「みやまいいまち会」では第4回目の企画になります。

昨年は筑前琵琶だけでしたが、今年はお2人にお願いしました。

来年は筑前琵琶とギターの共演が実現できそうな話もありました。

来客は20人位でしたが、みなさん、和ろうそくの中で聴き惚れていられたようです。

ありがとうございました。







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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2015-12-24 13:23 | みやまいいまち会 | Comments(0) |Topに戻る
「九州炭鉱業家」と向野堅一の動向・千寿の楽しい歴史
「九州炭鉱業家」と向野堅一の動向

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奉天商業会議所旧友会記念撮影 大正2年12月21日

前列中央が向野堅一、後列右端が廣瀬市郎。

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直方郷土研究会・会報39号掲載  

向野康江文を参考にした。 (一部分を使用・現代文に直して掲載しました。)

1・天津の商品陳列館設立計画

明治29年1月、台湾総督府通訳となり混成第七旅団に属し、不正を働く賊の討伐に従軍する。

同年10月、友人河北純三郎と共に北京に入り筑紫弁館を設け、公使館の用達商となり
和洋雑貨の販売店を営業する。

天津に日本商品陳列館を設明しようとし、治32年に帰国して官・民における「九州炭鉱業家」の貝島太助と安川敬一郎たちを説得し説得して廻る。

「九州炭鉱業家」の賛助や出資の承諾を得て、外務省の許可を受け政府寄りの保護金が確定した時、明治33年の義和団の変乱に際し経営に係る筑紫弁館が不正を働く賊のために焼失したうえに留守主任の中村秀次郎は義勇兵に加わり戦死、多くの債務を負い廃業する。
第五師団監督部の用達商となり、天津に入り有馬組北部の主任となる。

2・郡島(郡嶋)忠次郎の苦心談

明治3年10月19日、福岡県粕屋郡篠栗町の郡島甚次郎の次男として生まれた。

粕屋中学校を卒業後、明治19年に福岡の養鋭学校に入学した。このとき、鐘崎三郎や石橋禹三郎らと知り合う。

明治20年に金子堅太郎、明石元次郎らを輩出した正木昌陽塾に入塾して漢籍を修めた。その後、簿記学校で簿記を学び、長崎で簿記,漢学の教師をする。

明治22年、長崎市商業会議所で荒尾精の日清貿易研究所生徒募集の講演があった。長崎に来ていた鐘崎三郎とともに上海に渡った。

明治23年9月に学校に相当する日清貿易研究所が開設され、郡島は白岩龍平と同じ三組(三班)に入った。このとき向野堅一と郡島忠次郎は出会いう。

卒業後、二人とも上海の商品陳列館に入所した。この商品陳列所は深刻な経営不振となった。打開策を見つけようと東京で角田隆郎と奔走していたときに日清戦争が勃発した。

この戦役では第二軍司令部付、第二野戦隊付通訳官となった。日清戦争終了後は台湾に通訳官として赴いた。ここまでは向野堅一と行動が同じである。

3・筑紫弁館(筑紫洋行)の設立

明治29年12月、北京に向野堅一・河北純三郎・香月梅外の筑紫弁館の貿易会社が設立された。北方の首都を基盤にして大陸貿易の実権の握ろうと野心をもっていた。

実は、向野堅一記念館に筑紫洋行に関する「総則」が残っている。そこには河北純三郎・向野堅一・戸田義勇の3名の名前となっている。

戸田は筑後久留米の藩士・戸田乾吉の三男として、明治2年1月3日に久留米市で生まれた。
東京商船学校を退学して、明治24年秋に1年遅れで日清貿易研究所に入り、26年7月に卒業した。向野堅一らと日清戦争に通訳官として招集され、31年には台湾総督府法院の通訳官になっている。

向野堅一の自筆の履歴書によれば、
明治29年10月に北京日本公使館用達店として筑紫洋行を開設のため渡清し、明治33年に義勇団事件のため筑紫洋行を焼かれたので商店を中止した、とある。
「総則」は堅一の草案で、堅一は最初から筑紫洋行くと命名し、実直な戸田義勇を仲間に入れようとしたのではなかろうか。しかし、香月梅外が明治39年に向野堅一宛てに認めた書簡では筑紫弁館と記されている。いずれにせよ、明治31年には筑紫洋行と呼ばれていたことに相違ない。


ありがとうございました。






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 「平成27年 みやまの十大ニュースを選びました(今年最後の定例学習会)」

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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。


梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

女山史跡森林公園は史跡と紅葉の穴場。

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2015-12-22 13:29 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
第6回「古賀千雅さん作品展」里沙の店にて・千寿の楽しい歴史
第6回「古賀千雅さん作品展」  里沙の店にて


平成27年12月17日~19日


「みやまいいまち会」で定例会と食事をした2階の横の部屋でで、展示会をしておられました。

私たちの集回が終わってから、素敵でしたので写真を撮らせてもらいました。


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屏風の絵は柳川城で壇一雄さんのお父さんが描かれたものだそうです。

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ありがとうございました。次回も良い作品を見せて下さい。






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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2015-12-19 14:54 | 芸術と文学・童話 | Comments(0) |Topに戻る
「みやまいいまち会」平成27年みやま市十大ニュース決定
「みやまいいまち会」平成27年みやま市十大ニュース決定

定例会と食事会   平成27年1月18日   

場所  里沙の店   出席者   7名

「みやまいいまち会」平成27年みやま市十大ニュース決定

1・みやま市長選  西原親氏三選(2月)

2・みやま市議選  新人6人を含む17人の議員決まる(7月)

3・「みやま市人口ビジョン」と「まち・ひと・しごと総合戦略」まとまる(10月)


4・桜舞館小学校、来春開「飯江・竹海・山川東部・山川南部の4小学校統合」(6月)

5・電力の地産地消始まる、先ず市役所本所へ供給(11月)

6・みやま市スマートエネルギー株式会社開所(4月)

7・「みやまの人と歩み」刊行  「市編さん事業」(2月)

8・ふるさとみやま幸市場の開設「通販サイトで魅力発信」(10月)

9・みやまスマートコミニテーィづくり~2015グットデザイン金賞受賞(10月)

10・連続不審火相次ぎ発生

里沙の店二階

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食事会


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12月22日の和ろうそくを灯しての演奏会で今年は終わります。






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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

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梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2015-12-18 17:34 | みやまいいまち会 | Comments(0) |Topに戻る
荒尾史跡散歩(午後)平成27年12月10日・千寿の楽しい歴史
荒尾史跡散歩(午後)  参加者  5名

平成27年12月10日 天気:小雨

案内者(文章作成者)  

荒尾史学会の諸隈征碩氏です。文章を借用しています。

田次郎丸館跡

田次郎丸館跡は荒尾市と大牟田市の境付近(原万田浦田)に位置しており、袴嶽(標高114.7m)の北裾部にあたる。

海岸線からそれほど離れていないが、周囲からみれば標高6mの微高地である。現在、国道208号線の東沿にある「かずやコスメデイア」葬祭場の北側に空堀(外堀および内堀)と土塁が残っている。空堀の東側は国道工事のため埋め立てられたが、南東から北西へカーブしていたという。

館の一部(南側)の一隅に薬師堂がある。持仏堂は東光寺といい、藤原吉家が永正6(1509)年に両親の冥福のために建立し、薬師三尊仏も創ったといわれている。

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東光寺

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別当塚古墳群

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井手城跡

丘陵地の北端(通称:権現山)に築かれた平山城である。本井出地区の田倉集落の奥まった所が城地になっており、遺構は、東西38m×南北100mの範囲に残存している。

中央の本丸跡と思われる所は平地であり、権現宮境内となっている。

東~北~西がわには土塁が巡っている。南端からは、参道が集落側へ延びている。北側は標高47~49mで、これより先は絶壁となっている。

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梅尾城跡

梅尾城は筒ヶ嶽城から西へ派生した尾根の先端頂部、標高149mの山頂に築かれており、山頂から南西の曲輪群と北東尾根の曲輪で構成されている。

東にフロン谷(風呂谷)、北にカジヤ谷(鍛冶屋谷)があり、北東の曲輪を「馬かけ馬場」と呼び、周囲には「殿の屋敷」・「土居内」などの地名が残っている。

南西の曲輪群が主郭部とみられ、かなり広大な削平地が南北に拡がっている。

北東端が高く、南西下に堀切があり、その先に堀切に面した部分を土塁状に削り残した小段と二条の堀切が続き土橋が架かる。

先端の堀切は北側に竪堀となって伸びている。この南西側一帯はシダ類が茂っていて遺構の確認が難しいが、放射線状に竪堀があるようにも見える。南端付近の東側に一部石塁の混じったような土塁が残る。

北東尾根との間には箱堀の堀切で区画される。北東尾根の曲輪は南側はきれいに削平され、東側には石塁の混じった土塁があり虎口になっているが、北側に向かって高くなった斜面はほぼ自然地形で、その先に二重の堀切を設けて尾根を遮断している。

ただこの先は北の尾根側が高く、南の曲輪側には特にめぼしい防御施設もなく、あまり意味のない堀切に思える。

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筒ケ嶽城跡

筒ヶ嶽城は小袋山の最高峰標高501.4mの筒ヶ嶽山頂に築かれている。西の府本には出城と見られている梅尾城がある。

また浄業寺は小代氏の菩提寺で「浄業寺古塔群」があり小代氏累代の墓がある。筒ヶ嶽城は筒ヶ嶽山頂の主郭を中心として南の曲輪群、北の曲輪群、そしてその東の曲輪群に大別することができる。主郭部から南曲輪群にかけては戦国時代末期に改修されたと思われ、深く長い空堀と西側に巡らせた横堀により防御を固めている。

全体的に遺構の状態も良く規模もよい。山頂の主郭部は南北二段で北側の山頂の曲輪の西側面に城内で唯一の石積が残っている。南の段には財宝を収めた底なし井戸の蓋と伝えられる巨石が残る。南下には横堀が巡らされ直ぐ下に南曲輪と区画する堀切を設けて遮断している。

北下には南北に長い削平地があり、主郭の東下に帯曲輪となって伸びている。北端は小高くなり、北側の堀切に面して土塁を設けている。西の針の耳に通じる尾根の根元には二重堀切を設けて遮断している。

主郭部の北にある北曲輪群は主郭との間に大堀切を設け、それに面した南西側にやや土塁状の土盛りを残す。

北に向かって小段が続き、その先端は西側を竪堀、東側を垂直に削り落として土橋にしている。東曲輪群に向かう東側には北側に二条の竪堀、南側に一条の短い竪堀が残っている。おそらくは手前は堀切であったと思われるが不明瞭である。

金城跡

国道208号線と県道長洲・野原線の交差点から、長洲方面へ200m進んだ所にある。

「長田地区」内の低丘陵地で、「金城神社」一帯が城跡といわれている。

社地は周辺との比高1.5~2.5mで40m平方の平坦地である。

県道を挟んで「北屋敷」「南屋敷」の字名が残っている。

小代氏の家臣渡辺某が菰屋に城を構えたことが伝えられている。

ここには後で金城社が建ったので、宮前とも呼ばれ、城を宮前城とも呼んだ。

この城には地下道があり、出口と入り口は這わなければ入れないのだが、内部は立っても手が届かないくらいの高さである。通説では、城の抜け穴とも言われている。

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小野城跡

清里小学校の一帯の「北城の口」、「南城の口」という字名が残っており、地区名をとって小野城跡と思われる。

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喫茶店 音羽の森

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この喫茶店で1時間ほど反省会をしてから解散しました。









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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2015-12-16 20:35 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る