千寿の楽しい歴史
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2015直方に生まれた向野堅一物語(その4)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その4)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。

4・文化人としての向野堅一

向野堅一の名は日清・日露戦争史、満州経済史のみならず、『満州芸術壇の人々』(昭和4年発行)にも登場します。書画、謡曲、篆刻を好み、自らも制作する大変な美術品のコレクターであった。南画を吉藤松和泉に学び、漢詩と書に優れていた
「寒林子徳」と号した。福岡の家を閉め、一家で奉天に移住するときに宝物を妻の実家である廣瀬家に預けた。

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左:廣瀬淡窓の書  右:廣瀬旭荘の書

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向野堅一の死後、奉天で毎月オークションを開いて売りさばいたものもあるが、そのほとんどは戦後、中国に没収された。

日田の廣瀬淡窓生家に預けたものは、堅一が後妻・収子に送ったものであり、収子の心の支えとして、その役目を果たしてきた品々で、収子の死後、廣瀬家宗家(堅一妻たちの実家から向野家に返還された。これが「向野コレクション」と呼ばれるものである。日清戦争の折、向野堅一が用いた馬蹄銀、中央市場の決算書などもある。

美術品については、福岡市立博物館で保管されている。ちなみに遺品のなかには、三民主義を唱え、中国の父と言われている孫文が向野堅一に贈った揮毫がある。それには「向野先生」と記されており、双方の交流を物語っている。「向野堅一は日本に亡命してきた孫文を支援した一人である」と語り継がれてきた。

それが真実であることは、最近、「向野書簡」において明確になってきた。「向野書簡」と呼ばれた堅一や堅一宛ての書簡をすべて数えると、その数は現在1200通以上に藻も及ぶ。

それらの書簡の内容によって、孫文、柱太郎、小村寿太郎、矢野文雄、青木室龍、白岩龍平、末永節、宮川五郎三郎、乃木希典や大山巌をはじめとする多くの軍人・財界人・文化人と交流しているようすや、森鴎外とも親交を持っていたようすもうかがえる。

「向野文庫」には、『和名類聚妙抄』、『康煕字典』、『黒田家家譜』をはじめ、廣瀬淡窓、旭荘、月化、桃秋、頼山陽、福沢諭吉などの著書がある。圧倒的に廣瀬淡窓関係のものが多い。

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「向野文庫」は、向野堅一の甥・向野睦祐が昭和42(1967)年に直方市立図書館に寄託した蔵書がもとになっている。そのニュースは、西日本新聞等で詳しく放送された。

なぜ、廣瀬淡窓関係の書籍が多いか。それには様々な理由がある。堅一の文化人との交流は、咸宜園出身者で多く占められていた。平野五岳、藤瀬冠村、吉田嗣拝山、鼓山父子などがそうである。拝山は右腕を失い、その右腕の骨で自分の筆を作り、左手で水墨画を描き続けたという咸宜園の画人であった。堅一の長男・晋が誕生したとき、祝いの漢詩を贈るほどの
向野家と親交があった。拝山展のときの写真には堅一の兄、斉の姿が見出せる。とくに古森鼓涯(清)とは気が合ってその長女・マサと晋を結婚させるに至った。

とにかく向野堅一の成した財は莫大であった。堅一生存中は向野財閥とも言われた。明治期にすでにカメラを所持していた。ゆえに、向野家には数多くの写真が残っている。堅一自身が写した家族のスナップ写真が多い。このことは、『拙逸庵草稿』の漢詩から明らかになった。
さらに、飛行機に乗って富士山を見下した感想を語った漢詩もある。堅一は漢詩の会を主催し、自ら漢詩集を編集して大正13(1924)年に『誦雨寿言集』を編集している。

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また、奉天義士会に参加して、大正13(1924)年に、『赤穂義士伝略録』を執筆している。それらについては、前者は中国遼寧省図書館、後者は神戸市立図書館が所蔵している。


続きます。






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 「平成27年 みやまの十大ニュースを選びました(今年最後の定例学習会)」

「みやまの直近のニュースと出来事(H27年12月上旬)」 「第4回「感謝と絆」和キャンドルナイト ご案内」 

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梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

女山史跡森林公園は史跡と紅葉の穴場。

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2016-06-30 08:30 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016荒木製蝋工場見学と和ろうそく作り体験・千寿の楽しい歴史
荒木製蝋工場見学と和ろうそく作り体験

平成28年6月29日(水) 天気:雨

人数  生徒9人と先生

目的  学習で習う特産品をグループ毎に調べて発表するため。

和ろうそく作り体験

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生蝋製造工程を荒木社長が説明

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工場内見学

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どんぶりは前の生蝋を小分けして速く乾燥させるのに使います。

皆、熱心に質問をしてノートに書いていました。


皆有難う。頑張って発表してね。







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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2016-06-29 20:51 | みやま市の産業 | Comments(0) |Topに戻る
2016青輝園の御座敷ユリがテレビ放送される・千寿の楽しい歴史
青輝園の御座敷ユリがテレビ放送される

平成28年6月27日放送


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6月26日撮影

建物と古代蓮

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山ユリ

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カサブランカと説明

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笹ユリ

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スノーボード
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外のユリ


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7月10日頃まで見られます。

お待ちしています。







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by kusennjyu | 2016-06-28 16:25 | みやま市観光 | Comments(0) |Topに戻る
2013筑後柳川「沖の端」の寺社巡り(川北1)・千寿の楽しい歴史
筑後柳川「沖の端」の寺社巡り(川北1)   

筑紫町(正段・しょうだん) 講師 横山正司氏

平成25年9月17日(火)午前9時~12時45分  

参加者  約40人

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筑後柳川城下町沖端町絵図   

明治元(1868)年柳河名称図絵です。中央の運河の右側が川北で、左側が川南です。

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柳川の海岸線の変化と沖端川・塩塚川

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旧沖端川の川筋が点線図で蛇行している(地図の沖端川と書かれた右側の部分です)。

田中吉政公時代に西側(昭代浜武)に本流を迂回する。

西横町の西側が「土居の上」と地元では呼ぶから、元は堤防であったと伝える。

現在の筑紫町正段付近の地図

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江戸時代の筑紫町正段付近の絵図

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正段島は元は三潴郡浜武村の一部であった。田中吉政が掘り替えて西側に迂回した。それ以後、正段島は山門郡に入った。

正段島村には船方が住んでいた。柳河藩の水軍基地として、「御船方」(1680年)「南方」組員26名、「北方」22名で合計で241名の船乗りで構成されていた。

①九社宮神社

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九社宮神社は九柱の神を祀る。旧藩の頃の神官は浜武村から来ていた。

海の神様で、建立年月日は不詳であるが、江戸時代であろうか?

船製造小屋と沖端川

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嘉永6(1853)年、江戸幕府は大船製造の禁を解いた。柳河藩は6艘の大船を持っていた。

稲荷町の横山造船所は江戸初期、柳河藩主の要請で紀伊の国より招聘され沖の端に住み「軍船」を製造した。

現在、正段にある横山寛治製造所は先祖代々を継ぐ12代目の船大工棟梁である。(講師の横山正司宅の分家だと言われます。

昔の正段の土居は栴檀、松、楠、葦、すすき、竹やぶ等で茂っていて、夜はタヌキ、キツネが出ると云われ、「正段のガネの穴」は有名です。それほど堤防にはガネがいました。

②等應寺

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菊池氏没落の後、その族、納富(のうどみ)氏の兄弟3人が筑後柳河に入る。1人は正段に住み、1人は麹屋町に住み、1人は真勝寺の傍なる正応寺に入りて僧となる。

のち西派に帰依して正応寺を出て正段に一寺を創立する。寛永7(1630)年、京都御本山より本寺号を賜わる。

水門   江戸時代に沖端川を掘り変えるまでは正段島だった南端

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旧川筋の沖端地区(筑紫町)は一番の低地帯でで現今も浸水する。沖端川に送水するポンプ工事が最近、完成したようである。

次回に続きます。








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 「第2回朝倉・櫨フォーラムに参加しました」

 「体験・体感ツアー「 ゆつらーつ矢部川2013」 荒木製蝋訪れる」  

 「みやまの今週のニュース、出来事など」   

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梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

西日本新聞フォートサービスで梅野家庭園の写真(4月28日撮影分)を販売しています。

青輝園    御座敷梅   ユリ展    季節を楽しんで下さい。

私の目標   今一番大事なことは絆 を育てること。

by kusennjyu | 2016-06-28 07:19 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2016親子ふれあい音楽会・岩田小学校にて・千寿の楽しい歴史
第25回 親子ふれあい音楽会

大牟田高等学校吹奏楽部演奏会

平成28年6月25日(土)  岩田小学校体育館

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プログラム

1・マーチ・スカイブルー・ドリーム

2・SEKAI NO OWARI メドレー

3・NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」主題歌 花束を君に


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4・パートアンサンブル(楽器の紹介)

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5・美空ひばりメドレー

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6・ザ・歌謡ショー  本村先生と共に

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7・キッズ アニメ メドレー

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8・第九 Brass Rock

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先生が大牟田高校に赴任された時から25年間続いています。

最初は10人くらいの部員だったのが現在は部員70名だそうです。

長い間、指導されて全国大会では優秀な成績を修めています。

お礼の花束とお礼の言葉  生徒から

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楽しい音楽会に心が癒されました。

ありがとうございました。














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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2016-06-25 14:46 | みやま市の今 | Comments(0) |Topに戻る
2016奴国から邪馬台国への道・千寿の楽しい歴史
奴国から邪馬台国への道             

『誰にも書けなかった邪馬台国』  村山健治著

A 博多あたりの南にあった奴国から、現在の宇美町を中心として南に広がっていた不弥国(宇美である可能性が高い)に行き、その南部の乗船場①大石から船に乗り、水行20日で現在の久留米に王城を持つ投馬国に着く。

御笠川  奴国―→水城―→太宰府―――宝満川の阿志岐へ陸路約2km―→②阿志岐

博多―久留米間の明治22年の鉄道開通前は御笠川と宝満川が主要交通路であった。

当時は舟底が川底につかえて動けなくなると、川底の泥をスコップで除き、舟を深みに押していた。(弥生時代の水行でも同じことだろう。)

二河川の上流で荷を積み換える時には、陸地は荷を担いで渡していた。
ここに舟越、瀬越という地名が残っている。

宝満川という名前になったのは明治42年で、それまでは得川と呼ばれていた。

宝満川  ①大石―→②阿志岐―→③天山(あまやま)―→⑤津古(山家川・曽根田川が合流する)―→⑥瑞間―→⑦投馬国(旗崎)

①筑紫野市大石は宝満川上流で、大昔から「船繋ぎ石」と呼ばれる石がある。

➁筑紫野市御笠に吉木(あしき=昔は阿志岐)は蘆城(あしき)の駅家といわれ、船着場駅家として栄えた所である。

③筑紫野市天山(あまやま)に「船繋ぎ石」と呼ばれる石がある。

④筑紫野市山家(やまえ)には船頭木、浮殿という地名がある。
船頭木は船頭の木、浮殿 は水上住宅を意味する。

⑤小郡市津古は古代において筑前と筑後を結ぶ河川交通の拠点である。

鹿児島本線の鳥栖、基山、原田あたりは、弥生時代の海岸線であった。
佐賀県鳥栖市は海岸線であった。貝塚が発見されている。

西鉄大牟田線三沢駅の近くに籏崎の地名があって、明治初期頃まで船が遡っていた。(口伝)

北野町赤司 豊姫神社が建っている。この神社の古文書に「昔はここらあたりまで海だった。」と記録されている。

⑥西鉄大牟田線瑞間駅付近は、明治40年頃まで舟着き場で、20隻くらいの舟溜まりがあった。山門郡中島、三潴郡城島の人たちが石炭や瓦を積んで宝満川を航行していた。(口伝)

⑦久留米市の籏崎は、港であった。(投馬の港)

文政2(1819)年の古地図を見ても、現在の宝満川のなかにある久留米市小森野が筑後川の本流であった。今の川筋と古代の川筋は違っていた。


B 『日本書記』の内容

神功皇后は博多の香椎宮から宝満川上流の安県(やすのあがた)まで行って、船で筑後川に出て、有明海を下り、矢部川をさかのぼって山門に到着した。

宇美川   橿日宮(香椎宮)―→多々良川―→宇美川―→安県―→鷹尾宮―→山門

安県(やすのあがた)から「海を航して」と表現されている。
安県(やすのあがた)とは、現在の朝倉市夜須町である。
鷹尾宮は現在の柳川市大和町鷹尾の鷹尾神社である。
橿日宮は博多の香椎神社である。  橿は「かし」と和読みする。

朝倉郡朝倉町に織面港(おめのみなと)、唐船木(とうせんのき)の地名が残っている。
この辺りに大昔、舟を繋いだ大楠があったが、明暦3(1657)年に朽ちて捨てられた。

弥生の頃の交通は山裾の道はなかった。獣道かそれ以下の道があるだけだった。川や海を舟行する旅だった。1日の行動時時間は2時間くらいであった。

C 投馬国から邪馬台国に至る水行コースに大きな影響を与えた自然状況は。

①有明海の干満の差は現在でも平均5.5mある。
川を遡行するときは満ち潮に乗り、逆に下るときは引き潮に乗るが、実際に動けるのは1日に2時間だっただろう。

②久留米と筑後川河口では、土地の高低に大きな差があると思われがちである。が、差はほとんどないし、川に堆積された泥土によって、航行は潮に支配されていた。

③筑後川も矢部川も、弥生時代に限らず江戸時代以前は、河道が大きく蛇行していた。

④有明海は全体として、きわめて遠浅の海で、沖に出ても水深は6mを越えない。
海岸線から数キロ沖まで泥土の堆積がある。泥土の堆積地をガタ(潟)というが、ガタは満潮では水没し、干潮では干しあがって一面の泥海となる。

⑤弥生の昔も今も、舟は有明海に出たからといって、すぐに南だ北だと曲がれはしない。もしそんなことをすれば、ガタに座礁するだけである。

⑥筑後では、川底の深くなった部分をタオという。タオは川を出て、有明海のガタ地に続く。
筑後川を下る舟は、有明海までタオを伝って行く。筑後川と矢部川のタオが、有明海で交わった地点まで進み、そこで向きを変え、矢部川のタオを遡って矢部川に入って行く。

⑦タオは重大な水路である。この地方では澪木(みよぎ)を立ててタオを示した。澪木は有明海に立てられた。

⑧有明海では、干き潮時に舟をガタ地に乗り上げたら、次の満ち潮までは絶対に動けない。

当時はまだ消滅していなかった口伝が収録されている。
「天正慶長年間(1573年~1596年)、筑後国主・田中吉政公が矢部川流域を改修せらるる以前は、三池黒崎鼻より海路を遡って瀬高の上の庄に到着するには七潮を要した。」

投馬国から邪馬台国へは、図のような水行コースと陸行コースの2通りがあった。

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終ります。






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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-06-23 11:33 | 歴史学習会 | Comments(1) |Topに戻る
2016邪馬台国勉強会(日子神社)・千寿の楽しい歴史
邪馬台国勉強会(日子神社)

熊川猛司宅  平成28年6月9日

熊川猛司氏資料から

女山(ぞやま)は女王山と云われ卑弥呼の居城跡と云われていますが、ここには「日子(ひこ)神社」が祭られています。

日子神社は「日の御子」とも取れますが祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)で天孫降臨された「瓊瓊杵命(ににぎのみこと)」父を祭っています。

天照大御神の生誕地が「矢部村の日向」そして、その子、天忍穂耳命が女
山に祭られ卑弥呼の居城と伝わるのが女山、そして天照大御神の愛した故郷が山門の本郷と、まるで点と点が山門地方に収まるのは不思議なことと言えるでしょう。

瓊瓊杵命の子、山幸彦と豊玉姫の話は天孫族と海人族との婚姻関係を意味しますが、若宮神社に残る20体の像から安曇一族が、この地域を支配していたことが分かります。

鵜草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依姫との間に生まれたのが神武天皇です。

中国の「新唐書」には「神武は筑紫城にいたが立って天皇と号し大和国を治めるようになった」と記されています。

神武天皇の幼名は佐野尊で、女山の南に位置する御牧山は昔「佐野山」と呼ばれ神武天皇に関係があると思われます。

神武天皇の父の墓は熊本県山鹿市菊鹿町相良にあり、母、玉依姫の墓は御牧山の北の権現山にありましたが、大宰府が設置されると、それを北の宝満山に移したとの口伝が残っています。

記紀神話の舞台がいくつかは筑後の山門地方にあったことは否定できないでしょう。

長田の日子神社(権現さん)  鶴 記一郎著

長田の権現さんは、正しくは日子神社と呼び、田川郡添田町の英彦山神宮の分社です。

英彦山神宮の案内所に、その由緒として「古来より神の山として信仰されてきた霊山で、御祭神に日の神と崇められる天照大神の御子天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)を祀っていることから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。

次いで、嵯峨天皇の弘仁10(819)年、詔(みことのり)により、「日子」の2字が「彦」に改められ、さらに霊元天皇の享保14(1729)年には、院宣により「英」の1字を賜り「英彦山(ひこさん)」と改称されました。

古来よりの信仰に渡来の仏教や道教が習合されて修験道の霊山「英彦山大権現」と呼ばれ栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和50年6月24日、天皇陛下の御許を得て、戦後全国第3番目の「神功」に改称、現在、英彦山神宮となっています。

長田の権現さんは往時、神の降臨を偲ばせる豊前坊の巨岩が巌存し卑弥呼の居城を彷彿させる神籠石列石の横尾谷水門を配して「日子」神社の名称に適った地形をなしているでしょう。ただし、長田の権現さんも、近世においては「英彦山宮」を称していたらしく、明治時代に入って長田の支配となってから「日子」となったものと推定しています。

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続きます。






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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。


梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

女山史跡森林公園は史跡と紅葉の穴場。

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史span>










                       
by kusennjyu | 2016-06-22 09:52 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016邪馬台国勉強会(日向神社・八女津媛神社)・千寿の楽しい歴史
邪馬台国勉強会

日向神社・八女津媛神社)

熊川猛司宅  平成28年6月9日

資料は講師の熊川猛司氏資料を借用しています。

奥八女に残る神話と伝説

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高千穂峰や高千穂峡国周辺をはじめとして、天孫降臨地はいくつもあるが、奥八女にもまた日向神峡を中心として、黒木町・矢部村に天孫降臨が伝えられている。

日向神社(黒木町)には『日向神本記』なる縁起が伝わっていたというが現存せず、『日向神案内助辨』(宝暦12年・1762年)に収載される逸文によって、その概要をうかがうことができる。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、この地に天降り、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を娶り彦火火出見尊(ほこほほでみのみこと)・火明尊(ほあかりのみこと)・火闌降尊(ほすせりのみこと)の三御子神を生む
火明尊を日向神に留め給いて日向神明神となし、彦火火出見尊と火闌降尊の二尊は日向国に遷し給う。

といった内容が説かれる。また日向神峡の一帯には空室・古敷岩屋・湯ノ瀬・茅原・竹刀などの地名があって、産所・産衣を埋めた所・産湯を使った場所・産所の屋根を葺(ふ)いた茅(かや)を刈った所・臍胞を切った竹刀を埋めた場所などと、それぞれに天孫降臨伝説に連なる話が付会されている。

日向神明神となった火明尊にまつわる話も、蹴穿岩(けほぎいわ)や蹴穿石として伝えられる。ちなみに日向神という地名については『北筑雑藁』などに、その昔、日向国から飛んできた神が住むところからついたと説かれている。

日向神峡からさらに奥の矢部村一帯にかけては、八女津媛(やめつひめ)の伝説地でもある。

『日本書記』景行天皇条には、丁酉、八女県(やめあがた)に到る。即(すなわ)ち藤山を越えて、以って南粟崎(あわさき)を望む。詔(みことのり)して日(もう)さく、其の山の峰岫(くき)重畳(かさな)りて、且 (か)つ美麗(うるわ)しきこと甚(はなはだ)し。

若し神其の山に在るか。時に水沼県主(みるぬまのあがたぬし)猿大海(さるのおおあま)奏して言(もう)さく。女神有り。名を八女津媛と日(い)う。常に山中に居ます。故に八女国の名、此れに由るりて起これり云々

『誰にも書けなかった邪馬台国』 村山健治著

日向神社と「ヒミコ」 P215より

堤から見た春分秋分の日の出地点は、清水山頂からやや南に稜線が下がった所である。堤とこの点を結ぶ直線状上に清水寺がある。大同元(806)年に唐から帰国した伝教大師が、建立した寺である。弥生のころ、この直線上は聖域という認識がある。

この線を東に延長していくと、八女郡大淵村月足(現在の八女市黒木町大字大淵字月足)にある 日向神社にぶつかる。

鳥居を通ってしばらく行くと、急傾斜の石段があり、それを登っていくと最上部に古びた拝殿がある。

日向神神社の祭神は天照大神・爾爾芸命・木花之佐久夜毘売だる。この神社を建てたのが神武天皇から7代目の月足彦と月足姫と伝えられている。

この神社にまつわる塩の話が古文書『南筑明覧』に残っている。それによると、日向神社の猿が大昔、黒崎の鼻に潮汲みに来ていたというのである。黒崎の鼻とは、矢部川河口に位置する大牟田市黒崎のことだ。

日向神社 福岡県八女市黒木町 

天孫降臨伝説にはこの社を中心に根強いものがあり、周辺には伝説に付会した地名が多い。

境内には三御子神のうち、この地に留まり日向神明神となったホアカリニミコトが、蹴って穿ったという蹴穿石がある。

八女津媛神社  福岡県八女市矢部村

養老3(719)年、創建との由緒があり、語祭神は八女津媛神社である。

明治以前までは六所権現社と呼ばれ、神仏混交の信仰が続いている。

続きます。






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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-06-20 10:00 | 歴史学習会 | Comments(5) |Topに戻る
2016村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(こうやの宮)・千寿の楽しい歴史
村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(こうやの宮)

平成28年6月14日(火)

探検者:4人 原田青夜氏・瀬口(女性)・熊川猛司・私

こうやの宮

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『誰にも書けなかった邪馬台国』  村山健治著

七支刀は魏王の下賜品か  p135より

a0137997_16521419.jpg瀬高町大字太神(おおが)字長島(おさじま)という部落がる。このお長島に栗ノ内という小字がある。そこに表を位七軒の民家に守られるように、そして背には田をひかえて建つ「こうやの宮」がある。神社だが祠といった方がいい社である。

この「こうやの宮」に五つのご神体が祀ってある。頭に皿のある、しかし背に甲羅はないカッパ、手に鏡を持った乙姫、住吉神、異国の神らしい像、そして服装が中国風と受け取れる武神である。この武神は手に刀を立てている。まぎれもなく七支刀である。


「こうやの宮」のいわれも、ご神体の由緒も伝わっていない。ただ、氏子である七軒の民家には、「こうやの宮をだいじにせよ。こうやの宮の屋根をふきかえ、その後で田中の宮、にしの宮の屋根をふきかえよ」との、代々の遺訓が残っていた。氏子たちは忠実にそれを守ってきた。

「にしの宮」とは、同じ長島にある社である。小さい部落にすぎないが太神に、かなり古い頃からの神社が十七社現存していることと、長島はこの地方ではウサジマと呼ばれている。

「こうやの宮」と石上神宮  P139より

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大和朝廷の確立後、九州に大宰府が置かれた。この大宰府が、天慶4(941)年から7(944)年にかけて、筑後国にあった六位以上の神名を記録した。この古文書が『天慶神名帳(てんぎょうしんめいちょう)』と呼ばれ、久留米市の高良神社に現在も残っている。

その山門郡を見ると、磯上物部神(いそのかみもののべかみ)、物部阿志賀野神、物部山国神、そして物部田中神二神、なんと物部の神だけで五神がある。六位以上の神が山門郡全体で二十六前のうち、五前が物部神である。

『天慶神名帳』に載っている神名を現存する神社と対比していくと、およその神々を当てはめることができる。「こうやの宮」は、その昔、磯上物部神だったと推定できる。

現在の「こうやの宮」には、中央に高良神と思われる主神、その右に乙姫と七支刀を持った武神、左側は中国人らしい異国の神、水神であるカッパが祀ってある。この五神のうち七支刀を持った武神が磯上物部神ではないかと考える。この主神プラス武神と水神の組み合わせが、神の性格からいって高良玉垂宮と同じである。

物部一族は昔、瀬高町太神の長島にいたのであろう。魏王から卑弥呼に与えられた七支刀は、武将物部氏によって保管されていた。だから、その氏神に、七支刀を持った武神が祀られた。

太神地区と大神氏  P254より

十世紀にできた『和名抄』に山門郡は山門、大神、草壁(現大草の三郷から成っている、と記載されている。そして、『和名抄』には漢字の読み方も載っている。山門を夜万止(ヤマト)、太神を於保美和(オオミワ)、草壁を久佐加部(クサカベ)と、発音を記録してある。

その昔太神は「オオミワ」と呼ばれていた。『姓氏録』でも大三榮となっており、漢字は異なるが同じ発音を表している。

太神の中の字の一つに宮という所がある。この宮は、三重の溝に囲まれている。つまり三輪である。太古の日本では聖地は三重の輪で囲む習慣もあったようだ。神社を宮というのも、そのあたりに起源があったと思われる。

太神をオオミワと呼んだのは、偉大なる聖域だったからであり、漢字伝来後にオオミヤの発音に太神を当てたのは、ミワすなわち神、あるいは神域だったからだろう。

太神に隣接している三池郡高田町大字海津(昭和34年以前は山門郡山川町大字海津であった)も昔は太神郷に含まれていたと思われる。

宇佐神宮―宇佐嶋―長島  P257より

『日本書紀』に「筑紫の水沼等が」三女神を祀っていると書いてある。『古事記』には、この三女神を胸肩君らが祭く、と書いてある。水沼も阿曇も海神族で、安曇磯良丸の墓は三潴郡(現在の大川市酒見)にある。安曇と水沼はつながる。従って三女神を祀ったのである。

『記紀』に従うと、三女神を祀ったのは、南から福岡県山門郡、三潴郡、宗像郡の昔の豪族たちである。

『天慶神名帳』の山門郡二十六前の神々の中に、宗形本神という神名がある。胸肩君が祀った本神が、ここ山門郡にあるというのだ。

古文書『宇佐宮雑徴』に江戸時代の天保年間に、宇佐神宮の神官・敷田年治の著した文書がある。その中で、敷田年治は、
「宇佐嶋は、島原を遠く離れない、有明海の周辺にある」と断言している。
また当地方の方言の訛りでは大塚を「ウウツカ」と発音する。同様に長島もウサジマという。
私は『記紀』にある「宇佐嶋」は福岡県山門郡大字太神字長島と断定する。

「こうやの宮」に甲羅のないカッパ像が祀ってある。もちろんご神体である。石や祠のご神体についで、山門郡の最も古い形の祭神は、主神、乙姫、カッパの三つを並べて祀る形である。これを「水沼信仰」と名づけている。太神だけでも、乙姫宮、太神宮、釣殿宮、八才宮、真木の宮などに、現在もこの三神が祀ってある。

大神氏と八幡信仰  P261より

大神氏はオオミワ氏であり、大国主命の子孫だという。

瀬高町大字太神には「大国西命は太神の字長島から出雲に移った」という口伝が残っている。
また、太神には因幡姓がある。因幡国のあの因幡だ。その家には
「先祖は遠い昔、山門から太神に移ってきた。山門には因幡の地名が残った」との口伝も残っている。瀬高町大字山門には、間違いなく因幡の地名が残っている。

写真の旧山門村の上部の中央に「因幡」地名がある。

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神話にある因幡の白兎とワニのごたごたも、実は太神の因幡氏と熊本県玉名郡三加和町の和仁(ワニ・山川町真弓から山越えした東側の地名である)とのトラブルだと考えられる。

太神の長島に「にしの宮」という社があり、出雲大社は別名「西の宮」と呼ばれる。
長島の釣殿宮の境内に「西の宮」という小社がある。『天慶神名帳』に残る山門郡二十六前の「物部阿志賀野神」(大黒さん)と思われる。

続きます。




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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-06-17 16:58 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(午後)・千寿の楽しい歴史
村山健治氏の邪馬台国山門説の地を探検(午後)

平成28年6月14日(火)

探検者:4人  原田青夜氏・瀬口(女性)・熊川猛司・私

権現塚古墳

みやま市指定文化財  昭和56年2月23日指定

住所  みやま市瀬高町坂田字上坂田

権現塚古墳は主体部及び年代は不明であるが、直径45m、高さ5.7mの2段築成の円墳であり、幅約11mで深さ1.2mの周溝を有する県内屈指の円墳です。

魏志倭人伝に「女王死するや、大いに塚を作る径百余歩殉葬者百余人」とあり、江戸時代の儒学者新井白石が唱える山門説以後、その大きさから邪馬台国女王卑弥呼の墳墓と主張する人もいる。周辺からは、縄文時代後期―晩期の住居跡や勾玉・管玉・石斧または、合わせ口カメ棺48基、弥生―古墳時代の住居跡、縄文―古墳時代の土器、その他多数の遺物が出土している。
                    
瀬高郷土史会作成

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車塚古墳

みやま市指定文化財  昭和56年2月23日指定

住所  みやま市瀬高町山門字藤の尾

この塚は瀬高町山門字藤の尾の東北に位置し、南北約55m、東西27m、高さ3.5mの前方後円墳で、明治22年頃までは周囲に3.6mの堀があり、往時は陪塚が左右に会ったと聞くが今はない。

享保20(1735)年漢鏡3面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせカメ棺が多数出土している。(昭和61年調査)また、塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。従ってこの古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
                         
瀬高町教育委員会

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蜘蛛(くも)塚(大塚)

みやま市指定文化財  昭和56年2月23日指定
住所  みやま市瀬高町大塚字大塚

この塚は瀬高町山門字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起こりである。今は石室の中心部のみ残り塚上に地蔵尊を祀ってある。

昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の征西の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、一説に土蜘蛛の首長田油津媛(たぶらつひめ)の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に古墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったのが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正2年春、田の中の小塚を崩して、その上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが、後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
                         
瀬高町教育委員会

堤古墳群

瀬高町山門字堤。この地区は、地区そのものが古墳ではないかと言われ、地区内には多くの巨石が散在している。

この写真は、東塚原の入り口にある巨石で、石棺か石室か支石墓にするものではないかと言われている。未調査のため実態はつかめていない。
                        
瀬高郷土史会作成


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『誰に書けなかった邪馬台国』P220より

村山健治著

大宰府がまとめた筑後の正六位以上の神々の一覧表『天慶神名帳』の山門郡の章に「堤大国玉神」の神名が出ている。

堤の天満宮の氏子である堤部落の人々は「古祭(こまつり)」という祭りを毎年10月に行っている。「古祭」は別名「コブシンサン祭」ともいわれる。「コブシン」とは「古い護神」「古い御神」の意味である。

天満宮となったのは、江戸時代になってから松延の天満神社の分霊を祀られたためと伝えられる。

山門郡にはほかに堤という部落はない。となると、現天満宮でも「古御神」を祀った堤のこの社が、「堤大国玉神」の社だったと考えられる。

「国玉神」とは「国魂神」である。国家に役立った神に付けられる名だ。それが「大国玉神」となると、もうめったにあるものではない。『天慶神名帳』の山門郡二十六前の神々に、「大国玉神」はこれ一神だけである。いや、筑後全体の神々の中でも、この一神だけである。

堤の天満宮には、数千年の昔、高貴な神が祀られていたことになる。ここはその前から聖地だったことになる。だから、邪馬台国のころ、もし天文観測や太陽暦観があるなら、太陽は聖なるものだし、聖なる堤から眺めたのではあるまいか、と私は考えたのだった。そして、観測の結果、東山連山が“太陽暦カレンダー”であるのを知ったのである。

邪馬台国女王卑弥呼も、夏至・春分・秋分・冬至などの朝は、堤のこの聖地に赴いて、日の出を拝んだのではなかろうか。もしかすると、卑弥呼はもっと繁くここを訪れ、朝焼けや朝日の状態から、天候やその他を占っていたのかもしれない。

堤部落は、私が邪馬台国王城の地と比定する大塚部落の、真南1kmの位置にあり、通うのにさして苦労もなかったろう。

ヒミコ」とは「日を見る命」「日を見る巫女」の意味ではなかったか、と私は推理するのである。


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良い探検ができ、喜んで帰られました。

ありがとうございました。








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by kusennjyu | 2016-06-16 17:50 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る