千寿の楽しい歴史
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2015直方に生まれた向野堅一物語(その2)・千寿の楽しい歴史
直方に生まれた向野堅一物語(その2)

向野康江著書「直方に生まれたつよくやさしい日本人・向野堅一」より。


2・従軍での活躍

商人を志した向野堅一が、日本の歴史上で頭角を現したのは日清戦争のときからである。多くの新聞でその活躍が報じられた。

戦前の人名辞典では、冒頭に「慶応四年(明治元年)い直に方市に生まれ、日清貿易研究所を卒業し、日清戦争で特殊任務・通訳官(陸軍附通訳官)となり、山崎恙三郎、鐘崎三郎等とともに金州牛島の敵前偵察の任務に従い、同行の士が皆な殉職した中に唯一人、九死に一生を得て帰還し、立派に使命を果たした勇敢なる人物である」と述べられている。

つまり、生きて帰ったのは向野堅一ただ一人であり、乃木希典に収集した情報に基づく地図を作成して献上し、日清戦争勝戦後、仲間たちの遺体を清軍から取り戻したのも彼であった。

向野堅一の武勇伝は、後に、戦前の子どもたちへの教訓的な物語の主人公になる。雑誌「キング」をはじめとして、「つよくやさしい日本人」として理想的日本人の一人に数え上げられたのは、昭和15(1940)年の『講談社の絵本』においてである。

内容は0、日清戦争で、一度捕縛されたものの命からがら逃げ出して、飢えて死にそうになったときに、見知らぬ自分の命を助けてくれた中国人村長・恙士采の孫・恙捕甲を養子にして、恙村長の希望通りに学校(現早稲田大学)に進学させるほどの恩義に厚い人間だったからである。

堅一の『日清戦争従軍日記』は、明治27(1894)年9月19日に広島大本営より招集され、10月15日に宇品を出発するところから書きはじめたものである。

日清戦争に勝利できたきっかけは何であったか。これを考えたとき、堅一が
提出した情報がかなり功を奏した。そのことについて、大寺安純参謀長が堅一のことを「我ガ愛子ナリ」と言っている。堅一には多額の年金が支給されており、根津一に連れられて明治天皇に拝謁し、勲章や明治天皇の寝巻きを賜っている。

日清戦争従軍以後、堅一は、台湾の仏教普及活動に従事する。地元民に信頼厚き通訳官としての堅一の、そのときの様子が、最近発見された『台湾浄土』(教安寺、平成七年)によって明らかになっている。

そして、香月海外(香月恕経の息子)や河北純三郎とともに明治29(1896)年に創立した筑紫洋行において、台湾から戻って以降、商業活動に従事していた。

ところが明治32(1899)年に起こった義勇団事変(北清事変)で焼き討ちにあった。筑紫洋行は筑紫城門前に位置してからである。それでも派遣軍の物資調達に尽力した。

日露戦争では軍需品の確保や輸送にあたり、兵站部を担当する。日露戦争での活動はその功績を讃えられながらもいまだに詳細ではない。

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続きます。







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 「平成27年 みやまの十大ニュースを選びました(今年最後の定例学習会)」

「みやまの直近のニュースと出来事(H27年12月上旬)」 「第4回「感謝と絆」和キャンドルナイト ご案内」 

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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

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梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

女山史跡森林公園は史跡と紅葉の穴場。

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史
by kusennjyu | 2016-08-19 08:23 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2012大牟田市の路面電車(片平山ー四ツ山)・千寿の楽しい歴史
大牟田市の路面電車(片平山ー四ツ山)

熊本県荒尾市境まで運行していました。

片平山駅ー三里駅間

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車庫前駅(白金町)ー水尻(みっちり)駅間の説明    片平山ー車庫前間は抜けています。

西側の商店  空地のためありません。

東側の商店  冨士染工場・前田材木店・吉田建具製作所・原整骨院 

水尻(みっちり)駅ー諏訪神社前駅間の説明  

西側の商店  空地のためありません。諏訪神社前に長(丸囲み)醤油本店・その奥に御旅館三池荘・更に奥に塚本鉄工所・酒元組鉄工所・横は諏訪川。

東側の商店  長(丸囲み)醤油支店・??鉄工所・諏訪神社・長(丸囲み)醤油工場・田中院・横は諏訪川。

諏訪神社前ー諏訪川駅間の説明   間に諏訪川があり、橋を渡れば諏訪川駅があります。

諏訪川駅ー三里駅間の説明  

西側の商店  三池銀行支店  

東側の商店  安部鉄工所・古開鉄工所・報国タクシー営業所・肥筑物産会社雑貨部。

三里駅ー四ツ山駅終点間

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三里駅ー姫島駅間の説明  

西側の商店  金善堂支店  

東側の商店  友楽館

姫島駅ー六ツ角駅間の説明  

西側の商店 良永同仁堂薬局・山本精肉店   

東側の商店  割烹水月・島田畳表茣蓙(ござ)店・六ツ角駅から東へ延びる道路の横に西本電機工業所。

六ツ角駅ー四ツ山駅終点間の説明  

西側の商店   ゑみや・森陶器店・小柳金物店   

東側の商店  牛嶋履物店・江頭染物店・金?映画劇場・その東側に喜楽座。

従業員日給   運転手 90銭 車掌 80銭  信号手 70銭  (当初の車掌は女性だった)

     戦時中(昭和17年頃から)、車掌は人手不足で廃止された。

乗車賃 旭町から  (1円=100銭)

有明町まで 3銭  駅前まで 6銭  白金(車庫)まで 9銭  諏訪神社前まで 12銭

発電所前まで(姫島ー六ツ角間) 15銭  四ツ山終点まで 18銭  (昭和12・13年頃の資料)

(参考資料  昭和10年 米1表 11円95銭  大学授業料 160円) 昭和9年 そば 10銭。

保有車両 所有車両=総数 13両(内5両は予備) 運転総数回数   356回

乗客数 月 30~40万人  

荒尾市には緑ケ丘~四ツ山間の炭鉱電車があり、炭鉱社宅の主婦などの買い物客で賑わっていた。

四ツ山商店街は品物が多く、安いため、大牟田からも多く来て繁昌していました。

荒尾市に四山神社があり春秋の「こくんぞうさん」には遠くからも参拝者が多く出店が出ていました。








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by kusennjyu | 2016-08-17 09:43 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2016郷土の歌人 石田昌像を求めて(柳川文芸ほりわり28号)・千寿の楽しい歴史
2016郷土の歌人 石田昌像を求めて

柳川文芸ほりわり28号表紙


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牧野苓子投稿より(その二)

執筆者の思い

明治32(1899)年、山門郡役所の書記官として勤務し、郡農会や進農会の幹部を勤めている。

かつて万葉集の研究で師事していた久留米の高良神社宮司の船曳鋨門の許で、高良山の神籠石の調査をした経験が役に立ち、考古学界も注目するような神籠石をはじめ遺跡の発掘につながったと思われる。

ともに調査にとりくんだ柳川の郷土史家の渡辺村男とは、郷土の遺跡を掘り起こすパートナーとしての交友が続くことになった。二人がそれぞれにまとめた「若菜籠」及び共同執筆した「邪馬台国探検記」は、貴重な郷土誌として考古学界から注目されたという。

村男とは歌道の方でもつながりがあったようで、「邪馬台国探検記」には、遺跡発見の現場で詠んだふたりの歌が幾箇所も載せられている。

行政区の変遷

山門郡」」という地名が魏志倭人伝に謂うところの「邪馬台国」であるとし、昔は大神、山門、草壁、鷹尾、大江の五郷であったこと、明治以前は山門郡を六組に分けて毎組に大庄屋を置き、その下の村に庄屋一名を置いていた。

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明治281869)年の大政奉還の後、柳河藩が柳河県に、明治4(1871)年には三潴県に、明治9(1876)年にはそれが福岡県に合併する。

小学校の設置

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これらの校名は、「地名によらず多くは美称を用いた」とあり、論語や易経などからとったものである。

神籠石の発見に関わって

若菜籠で『明治三十年の春、」余が発見する所たり』との書き出しで始まり、その発掘を当時の清水村村長・中村鶴三郎氏や有志の大町菊雄氏が援助してくれたし、その十年後の明治40年に、山門郡長・坂本久寿氏が古蹟保存の計画を立て、郡費を補助してくれたとある。
 
それを受けて、時の村長・甲木鎮衛氏や助役・吉岡重毅、有志・梅野鋨太郎氏らと協議し、その由来を研究することになり、西原為吉氏、島源蔵氏、加藤富次郎氏、西田茂氏らと延長千五百三十八間にも及ぶ石塁の実地測量にあたり、三千分の一の実測図を調整したことが書かれている。

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奇石発見記

大正2年には、東山村字堤(現みやま市瀬高町山門)で新たな石を発見したが、それは女山の神籠石と並び称していいほどの大きな石で、地上に露出している部分だけでも二間余の面積があり、大阪城城壁の巨石以上だと形容している。

下は、その巨石と調査団の様子を鮮やかに採った画で、石田昌の感動が伝わってくる。

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堤の地は他の土地より二間ほど高く、やや円形をなしているので、この一部落は古墳の上にあると結論づけたという。その土地の小字を東塚原と西塚原ということから、魏志倭人伝にある「卑弥呼の死による殉葬者奴婢百余人」を裏付ける遺跡ではないかとし、「今之を考古学界に紹介して専門家の意見を叩かんとす」という結びのことばに、その結論はどうであったかにしろ、研究者としての情熱が溢れている。

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続きます。








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by kusennjyu | 2016-08-15 11:59 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016郷土の歌人 石田昌像を求めて(柳川文芸ほりわり27号)・千寿の楽しい歴史
郷土の歌人 石田昌像を求めて

(柳川文芸ほりわり27号表紙

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平成25年7月19日号  西日本新聞  「柳川文芸クラブ」紹介

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牧野苓子投稿より(その一)

生い立ち

元治元(1864)年11月10日、山門郡鷹尾(現柳川市大和町鷹尾)に石田昌英の長男として生まれた。

県立柳河中学校卒業後、長崎に遊学した。

異郷で国学と和歌を学ぶ

平田篤胤学派の門に入り、門流の元老員議官の国学者・丸山作樂に国学を、歌人・海上胤平に万葉調長歌をそれぞれ学んでいる。

明治20(1888)年、父の病気により帰郷する。 

歌人としての活躍

当時、九州の最高の国学者と言われ、全国にも知られていた久留米の船曳鋨門(高良神社宮司)に師事し、万葉集の研究の没頭した。

帰郷した翌年には、立花鑑寛公の協力を得て、白縫(しらぬい】会を設立し、地方の歌道の振興に貢献した。この白縫会には、立花ツヤ子、宮川千幹、杉森シカなど当時、柳川のさまざまな場で活躍していた女子たちが名を連ねていた。

明治24(1892)年に、再び上京し、中央歌壇での活躍を期したが、父の訃報で間もなく帰郷する。

明治25(1893)年に、扶桑会を設立して「扶桑雑誌」を発刊し、柳川の白縫会や山門会、福岡の福陵会を主宰する。

「千代のはじめ」

昌の門下の河野修造が還暦を迎えたとき、それを祝って全国の仲間たちが贈った5百首にも及ぶ歌を彼がまとめて発刊したもので、修造の乞われて序文を書いた。

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河野修造は、三池郡渡瀬(現在のみやま市高田町渡瀬)の素封家で、三池銀行頭取を勤め、県議会議員もしていた。日露戦争中は村長として村民の信望を集め、大正初めまで、その任にあった。

歌道の方でも、渡瀬会をつくり、昌を指導者として毎月例会を持っていた。

大正天皇の即位を祝って和歌を献納し、宮内省より表彰される。

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石田昌 歌碑除幕式  昭和35年8月28日

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続きます。






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by kusennjyu | 2016-08-14 21:48 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2013福岡県におけるハゼの栽培状況(ハゼと木蝋より)・千寿の楽しい歴史
福岡県におけるハゼの栽培状況

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福岡県はかつて全国1位のハゼ実生産を誇り、伊吉ハゼや松山ハゼ、平迫ハゼなど多くの優良品種を創り出してきた。しかし、現在では熊本県に次いで第2位であり、シェアも20%に落ち込んでいる。(表―5)

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(1)福岡県におけるハゼ実資源量

県全域では約600本が確認された。地域的には筑後市、八女市、久留米市、広川町、黒木町を中心とした県南部の筑後地方に集中していた。県中部では平迫ハゼを有する嘉穂町が多く、県西部では志摩町や福岡市西区に多く見られる。

(2)筑後地方におけるハゼの栽培状況

福岡県でもハゼ栽培が盛んな筑後地方におけるハゼの栽培状況を示す。(表―6・図ー2)

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栽培場所別の本数では、ハゼ林となっている畑が38.0%と最も多く、次いで田畑の畦畔が33.4%、河川の堤防が15.0%の順である。しかし、栽培箇所数は畦畔や堤防、人家が多く、畑は4%に過ぎなかった。

次に、採取状況について見ると、集団栽培が60.5%、列状が31.5%であったが、点状や単木ではわずかに10%台であり、筑後地方全体の採取率は40%にしか過ぎなかった。

(3)まとめ

筑後地方の栽培状況から、現在のハゼをめぐる情勢の中で農家の栽培対象となっているのは、少なくとも20本以上の集団栽培や列状栽培のようである。このような条件を満たす栽培地は福岡県全域でもわずかしかない。

単木や小集団は仲買人や採取人が所有者から立木買いによって採取する場合が多く、そのような所有者は「栽培」の観念がない。従って、ハゼ情勢が多少好転した程度では利用される資源量は急激に増加しないであろう。

このような資源の状況から、木蝋業界は日本木蝋商工業協同組合を中心にハゼ苗木の斡旋を行い、集団栽培地の拡大を図っている。

福岡県は1987年に300本、1990年に170本、1991年に550本を植栽されました。九州各県も福岡県以上に植栽される県が多く、福岡県田主丸町では年間3000本のハゼ苗木の栽培を行っている。

以上は「ハゼと木蝋1992年」(福岡県・福岡県特用林産振興会発行)より抜粋しました。

荒木製鑞合資会社

福岡県みやま市高田町江浦町にある『荒木製蝋』は江戸時代から続く、今では日本に3軒しかない木蝋(櫨蝋)の製造所。木蝋で作る和ろうそくは、石油製品のパラフィン製より炎が大きくて煤がべたつかず、何よりエコ。

ろうそくだけでなく、化粧品などにも使われ、海外でも珍重されている。今は原料となる櫨の木が激減していて、7代目社長の荒木眞治さんは、櫨の植樹の支援も行なっている。







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by kusennjyu | 2016-08-10 09:40 | みやま市の産業 | Comments(0) |Topに戻る
2016報道特集・ヒロシマ原爆投下での2つの命・千寿の歴史
ヒロシマ原爆投下での2つの命 報道特集から写真を撮る。

上の題名は私が付けたものです。

列車復旧により多くの人が助かりました。一方で救護の為に広島に入り亡くなった命がありました。

ヒロシマへの原爆投下

広島市への原子爆弾投下は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器を実戦使用した出来事である。

これにより当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされる。

広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」と片仮名表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多い。

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以下は報道特集写真の一部です。

原爆投下

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15人の鉄道員による投下から4時間後に鉄道が復旧する。

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病院当直日誌より  

鉄道により搬送され被害者を治療をした病院

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鉄道復旧の一方で悲劇

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列車で広島へ救護に入る

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原爆慰霊碑

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受け継がれる記録   

原爆記念碑に祈る女性は当時1歳の赤ちゃんでした。父(原爆による死亡)から避難するように切符を買ってもらい、母親と一緒に駅にいて、原爆投下にあい駅の地下通路に吹き飛ばされました。

復旧列車に乗ることが出来、到着した病院で治療を受け助かりました。

下の服と切符は、当日着ていたものと買った切符です。

原爆記念館に展示されています。

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ヒロシマで多くの犠牲者が出ました。戦争はしていけません。







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by kusennjyu | 2016-08-07 14:49 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016大牟田の空襲第28集より「戦争はこりごり」・千寿の楽しい歴史
戦争はこりごり

大牟田の空襲第28集より  GS氏

GSさんは、当時11歳で、第六国民学校(鳥塚町)五年生の時、通町から三池・大間にかけて爆撃を受けた1944年11月21日の空襲で家族6人を亡くしました。

当時の住所は通町2丁目183、正明寺の向かい(通りの北側)の角から2軒目でした。自宅敷地内に爆弾が2発落下。1発は家屋を直撃して全壊、もう1発は庭に落ちて、すぐ横の防空壕を破壊しました。その防空壕に避難していた家族全員犠牲になりました。
 防空壕は、庭を掘って畳をのせ、その上に土をかぶせたような造り方でした。爆弾の落下場所に近い方にいた3人は吹き飛ばされ、遠い方の3人は土砂がくずれて生き埋めになったようです。犠牲になったのは祖母・母・妹2人。弟2人の6人でした。

11月21日は、登校後早い段階で警報が発令され、生徒は全員帰宅しました。GSさんは、いったん自宅に帰った後、友人の池田君の家に遊びに行きました。自宅西側にある鳥塚公園には、公園を東西に貫通する防空壕があり、そこを通り抜けると池田さんの家のすぐ前に出られました。

池田さんの家にいる時に、空襲警報に変わったので、鳥塚公園の防空壕に避難しました。爆弾が近くに落ちた時は「ダダダーン」と音がしましたが、少し揺れた程度だったといいます。

爆撃がおさまり自宅に帰ってみると、近所の人たちが集まっていました。自宅は直撃を受け全壊の状態でした。庭の防空壕の方には行っていないので、どんな様子だったかは判らないままでした。吹き飛ばされて木に引っかかっていたというようなことを聞いたようです。おそらく、子供だったから近づかせてもらいなかったのでしょう。

亡くなった家族は正明寺に運んで葬式をしたそうです。こうして、父と私だけが残されました。


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私の平和事業の一環として「大牟田の空襲」の記事をお借りしてブログに上げました。

戦争は戦争に関係ない人たちを巻き込み、家族が犠牲になっています。

戦争は絶対にしてはいけません。







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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-08-03 17:13 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016大牟田の空襲 第28集より「防空壕への直撃弾で家族四人を喪う」
防空壕への直撃弾で家族四人を喪う
  
大牟田の空襲 第28集より  IS氏

はじめに

1945(昭和20)年6月18日には、私にとつて肉親4人を一瞬にして失った日として生涯忘れることが出来ません。終戦が後二ケ月早かったらと思うと残念でなりません。

私は1934(昭和9)年3月生まれです。空襲の時は11歳で、第二国民学校(現大牟田市立大牟田小学校)の六年生でした。自宅は泉町にあり、大牟田川沿いで家業は薬局を営んでいましたが、1944(昭和19)年の建物疎開で曙町への引越しを余儀なくされ、そこから店へ通うかたちになりました。丁度その引越しと同時に薬剤師の父は召集され、特攻基地のある宮崎県都城市の陸軍病院に勤務していたのです。
 
私の家族は、両親と祖母、それに私のきょうだいが6人(姉3人、兄2人、妹1人)の合計10人でした。

防空壕に避難

1945(昭和20)年6月18日の大牟田空襲には父は召集され、長姉は嫁ぎ、長兄は寮生活でしたので曙町の家には7人の家屋がいました。

当日(6月18日)の深夜、空襲を知らせる短い連続のサイレンが鳴り響き、ラジオで敵機B29の編隊が天草上空を北上中と報じるや否や、我が家の周辺にはバラバラと焼夷弾が落ち始め、気が動転した私たち家族は、庭にあった小さな防空壕では思い込み、少々離れた西本願寺知恩院の壕がより安全だと考え、無我夢中で皆(私を含め5人)で知恩院へ走り出しました。次兄は祖母を背負って泉町の横穴式防空壕へ避難していました。
 
知恩院の壕に入る前、斜め前方に見えたビル(マルヤ百貨店)が炎を上げて燃えだしていました。

防空壕に焼夷弾直撃

防空壕の中には私が一番先に駆け込み、奥の方まで進みました。その、ほんの数メートルの差が運命を分けることになったのです。私たちが防空壕に入ると同時にドーンと直撃弾がさく裂し、壕の天井が崩れ落ちました。私は腹部と顔などに火傷を負い、外にはい出るのが精一杯でした。壕の中は雨水で水溜りになっていましたが、そこに焼夷弾の油脂が浮かんで燃えていました。私は倒れている人たちを乗り越えて外へ出て、そこで気を失ったようです。壕の中には40人ほどの人が居て11人が亡くなり、そのうちの4人が家族でした。

死ぬために入った防空壕

私は運び込まれた兼行病院で意識を取り戻しました。火傷はそれほど重症ではなく、家業が薬局のため薬も調達しやすかったことも幸いして、比較的短期間で退院出来ました。その後も警戒警報・空襲警報のたびに担架に乗せられて笹林公園に避難しました。7月1日の熊本空襲の時は、炎の反射で南の空が赤くなっているのが担架の上から見えました。

泉町に住んでいた頃は、いつも訓練で金比羅さん下の横穴式防空壕に避難していましたが、母や姉・妹もそこに逃げていれば死なずにすんだと思います。曙町に移ったのは死ぬために行ったようなものでした。結果的には、逃げ出した曙町の家は無償で残りました。家の防空壕に入っていれば助かったのです。このことが今もなお悔やまれます。

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ありがとうございました。






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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2016-08-03 10:13 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016大牟田空襲第28集より「三度の空襲体験」・千寿の楽しい歴史
三度の空襲体験

平成28年度 夏季平和事業

平成28年7月31日午後2時~4時  

大牟田市中央地区公民館
  
大牟田の空襲 第28集より  NY氏

○大正15年生れ(現在90歳)

○空襲時住所  大牟田市松浦町69

○家族構成  父母、長兄と次兄は戦死。姉2人(長女は結婚)、三兄(三井染料、召集なし、本人(松屋会計係勤務)

空襲体験

6月18日夜、空襲警戒警報が鳴ったので、私は夜12時頃に松屋に駆けつけたが、やがて正面玄関のシャッターを破壊して、焼夷弾が屋内に入り込み燃えあがったので、橋本営業部長の指示で10余名の社員がバとき、ケツリレーで火を消し止めた2階以上は事務所になっている三井染料の社員7~8名が外に出ようと下に降りてこられたが、そのときは松屋の周りの店舗は炎に包まれていた。

そこで、染料の社員さんたちは屋上へ駆け上がって行かれたが、翌日朝に3階の踊り場のところで焼死されていたことを知った。私たちは橋本部長の「外に出ろ」との声で頭から水をかぶると外に飛び出した。火の粉と雨のように落下する焼夷弾を避けながら我が家へと走った。

松浦町の16戸の町内は無事だったが、それから1ケ月程して強制疎開を命じられ、行くあての無い5~6戸の家族は町内で作っている裏山を利用した横穴式の大きな防空壕で共同生活をすることにした。父と私は、母だけをここに残して次姉婿の松屋社宅(西有名町、姉婿は満州に出兵)に住むことにした。

次の7月27日夜の空襲で、西有名町の次姉の社宅が焼夷弾で焼けたが、父と
姉・私の3名は姉の社宅前のマンホールの蓋を開けて逃げ込んだが、続々と人々が入り込み、煙が入り込んできたので、父と私は上がるが、姉がなかなか上がってこなくて、やっと姉が上がって来た時は父の姿がどこにも無かった。

四方から火が迫ってくる。姉と私は燃えている商店街の中を突ききり国鉄浦駅へと走った。浦駅の外には小さいドブ川(深さ30cm近く、幅2m近く)があり、そこに頭だけ出し、横になって空襲の終わるのを待った。やっと空襲解除となり上がったが、まだ盛んに燃えているところと、焼け落ちてくすぶっている所があり、見渡す限り立石耳鼻科のコンクリートの建物を除き、焼け野原であった。

ふと、左手の方から海岸に逃げた父の姿が見え、私たち3人は無事を喜び合い、松浦町の防空壕に帰って来た。すると、防空壕の住人だった5人家族の人がいて強制疎開でまだこの人たちの家1戸だけ崩すのが残っていたので、夜は家に寝ていて空襲警報が出ても防空壕まで走る余裕がなかったのか、御主人は奥さんと娘さん3人を床下の壕に入れて外に様子を見に出られた時、焼夷弾直撃で4名が亡くなられたのである。

8月7日は、昼間に工場目標の爆弾攻撃。この日、私はいつものように松屋の残務整理を手鎌のお寺を借りて5名ほどでしていた。正午頃の工場爆撃で手鎌の日本軽金属にも爆弾が投下されて、爆弾のすごい音に夢中でお寺の外に飛び出し近所の防空壕に逃げたが、その途中で戦闘機に見つかり、機銃掃射を受けて身体すれすれに飛んでくる弾丸に生きた気はしなかった。

空襲が終わり我が家の防空壕に帰ると、壕の住人がお母さんと2人の5歳と3歳の兄弟が昼に壕の上の山に登り遊んでいて、空襲警報のサイレンで急いで壕に帰るのを戦闘機にみつかり、機銃掃射で兄弟は手をつないだまま亡くなっていた。その夜、壕の中で数名になった町内での通夜、幼い遺体を囲みながら誰も無言であった。

翌日は8月9日、仕事に行く元気もなく壕の外でボンヤリしていた。少し高くなっている壕、見渡すかぎりガレキ、海まで見通せる。

そのとき、海の向こうの地の底から湧き上がるように登って行くきのこ雲、「ネエ、あれなんやろ」、私は壕の中に声をかけた。皆出てきたが、広島の原爆投下も知らせない政府が分かるはずはない。
「あれ、日本が作った新兵器じゃなか」と、誰かが言った。今、あの下で多くの人たちが殺され、多くの人たちが傷つき、逃げまわっているとは知らず、原子雲を見ていた。

8月15日、終戦。私は日本が戦争に負け、悔しいという思いより、ああ今日からゆっくりと安心して眠れることが嬉しかった。戦争は本当に残酷です。戦争で亡くなった兵士ばかりでなく、小さい子供からお年寄りまで多くの人たちが亡くなります。
私も2人の優しかった兄を戦地で亡くし、大牟田大空襲三度を逃げ回り、傷つき、機銃掃射で死ぬ思いをし、身近の人たちの死を見て、戦争は絶対してはいけないと思います。

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ありがとうございました。








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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2016-08-02 16:46 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016渡瀬祇園(高田町)・千寿の楽しい歴史
渡瀬祇園(高田町)

平成28年7月30日午後5時から

大蛇山

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太鼓の部

子供祇園囃子

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つくし会(子供の部)と高田媛太鼓

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この後、雲助道中がありましたが、見ないで帰りました。

ありがとうございました。





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by kusennjyu | 2016-08-01 15:37 | みやま市の今 | Comments(0) |Topに戻る