千寿の楽しい歴史
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2016三池街道せたか道(三軒屋~下庄宿)・千寿の楽しい歴史
三池街道せたか道(三軒屋~下庄宿)

正保年間(1644~1647年)の三池往還

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筑後国の項目の正保国絵図の編集過程と交通路によれば

柳川城下から三池陣屋へのルートがもう一つ確認できた。柳河から矢部往還を使い瀬高町で南下してA海津、B田尻、C下楠田を通過し、橘で三池往還と合流して、三池陣屋に至るルートである。(梶原伸介文章より)

田尻から原への山の南側を通る道は、私が小学生の時、学校帰りに通学路から外れて通ったことがある道です。

三池街道せたか道

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始点(三池郡三軒屋の追分石)と終点(伊能忠敬測量基点の石柱)

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楠田川の左岸に建つ追分石の正面に「せたか道」、左横に「やなかわ道」と刻まれています。

柳川札の辻始点と山門郡下庄宿始点は、三池郡三軒屋で合流して三池陣屋まで行く三池街道です。

三池陣屋からの三池街道は、三軒屋で分かれ「せたか道」と「やなかわ道」となります。

当時は瀬高橋と柳川橋の2つの橋が楠田川に架かっていましたが、現在は追分石の横の柳川橋だけになっています。

古賀橋(飯江川に架かる橋でここまでが三池郡)

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山門郡長島(おさじま)村   

次回に神様の話として紹介します。

井手の上村(現在のJR鹿児島本線南瀬高駅西側)

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真木村(国道209号線すぐ東側のせたか道)

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下庄村枝なかだえ村(国道209号線を交差してすぐの所)

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二里石(柳川札の辻から二里)

a0137997_115750100.jpg平成4年5月建立

瀬高町教育委員会と瀬高郷土史部で建てる。


思案橋(八幡町の下庄宿に入る橋)

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明治初期の下庄地図

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「なかだえ」は「中田江」と図示している。

下庄八幡町の三池街道図示地図

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八幡町は大正年間まで「土居」「犬ごろ土居」と呼ばれていた。

当時の三池街道は田代から南に出ると、堤防(土居)が現在の八幡町、元酒屋の武宮さんの四ッ角に続いていて、両側は湿田や水路であったという。

大正7年から着工して出来上がったのが、栄町から八幡町までの談議所新道である。

明治40年代の地図

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この当時は田代町から直線の道路がないので、すぐ東側から南へ入る三池街道が始まります。


続きます。






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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。


梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

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梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-09-30 12:55 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2016三池街道せたか道(伊能忠敬地図)・千寿の楽しい歴史
三池街道せたか道(伊能忠敬地図)

平成28年9月27日(日)午後2時から講演

まいピア高田 3-1と3-2の教室

出席者  55名

私が講演会で説明した分を数回に分けてブログに紹介します。

伊能忠敬地図  上が北になります。


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江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745-1818)が作成した日本地図を原寸大で楽しめる「完全復元伊能図全国巡回フロア展」が平成23年10月21-23日、八女市馬場の市総合体育館で開かれる。その時に撮った写真です。

この地図の中に三池街道・薩摩街道・矢部往還(柳川瀬高道)・清水山へ参る道・福島道が描かれています。
江戸時代の村名が分かります。

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第八次伊能忠敬測量日記により、文化9(1812)年2月8日、三池街道山門郡瀬高町内下庄町村追分を高印(起点)として枝土井・枝一里木・真木村・井手ノ上村・長嶋村地先下小河村枝鬼木・長嶋本村・山門郡長嶋村・三池郡古賀村界まで測る。高印より一里〇三町五十七間。・・・・・・

三池郡古賀村から始め。宇津川幅十二間。枝下古賀・とある。


説明1  高印  山門郡下庄町村追分之地

説明2 枝1里木 柳川札の辻から三池陣屋への三池街道の里程は石造である。ここは下庄宿から三池陣屋へ行く脇道で里程は木で造られていたのだろうか。

説明3 枝土井・枝一里木・真木村・井手ノ上村・長嶋村地先下小河村枝鬼木・長嶋本村・山門郡長嶋村・三池郡古賀村を通り測量したことが記録されている。

説明4 高印より古賀村堺(飯江川に架かる橋)まで一里〇三町五十七間(約4430m)

説明5  宇津川幅十二間  現在の飯江川の当時の川幅は約21mであった。この川には渡し舟があった。


界川(本郷村) 川幅14間 現在の矢部川の当時の川幅は約25mであった。

瀬高川(上庄町村枝三軒屋) 川幅51間  現在の矢部川の当時の川幅は約92mであった。

江戸時代の矢部川は下から中島川。瀬高川・界川(これから上流は久留米藩領と柳川藩領の境を流れていたため)と呼ばれ、矢部川と統一したのは明治4年頃です。三潴県通達発令に記載されています。


続きます。






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by kusennjyu | 2016-09-29 16:59 | 三池街道 | Comments(0) |Topに戻る
2016絵はがき教室花の木ベルの会作品展・千寿の楽しい歴史
絵はがき教室花の木ベルの会作品展

平成28年9月27日正午

福岡市の原田さん一行と一緒に見学する。

矢野先生の個性的水彩画


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会員作品

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心温まる作品ばかりです。有難うございました。





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by kusennjyu | 2016-09-28 11:51 | 芸術と文学・童話 | Comments(0) |Topに戻る
2009與田凖一児童文学まつりとコンサート(みやま市瀬高町の偉人)・千寿の楽しい歴史
與田凖一児童文学まつりとコンサート

平成21年10月18日、午後から「まいピア高田 多目的ホール」で行われました。

第2部 與田凖一文学祭り

表彰
   
       與田凖一児童文学賞   1名

       学校賞    18名

       学年賞     9名

       佳作     80名

献詩 児童生徒の作品発表(1名づつ朗読する。)
    
       與田凖一児童文学賞 1名 ・ 学校賞  18名 


第3部 童謡デュオ:DOYO組コンサート  

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    彼女たちは今、熊本県のNHK「童謡コレクション」にレギュラー出演中です。

    海外でも童謡ツアーを行うと活躍中のお2人です。

    子供たちに歌を教えて「プチDOYO組」ができました。

    童謡カルタを発売。「あ」から「ん」までで始まる童謡を全部集めている。

    今日の演奏曲目は上左側の21曲です。
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彼女たちは「ありがとうは私から」の歌の題名で感謝をこめてうたっています。

最後は「手のひらを太陽に」で大人も子供も手の動作をまねながら、会場が一体となり歌いました。


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by kusennjyu | 2016-09-28 08:21 | みやま市の功績者 | Comments(1) |Topに戻る
2016五條家の宝物・千寿の楽しい歴史
五條家の宝物

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五條家

五條家は清原家の一流で、代々明経道を以って朝廷に仕えた公家であった。

五條家の始祖頼元は、後醍醐天皇の御信任厚く、時に南北朝戦乱に際会し、延元元(1336)年、皇子懐良親王、御年7、8歳の幼少の身で征西将軍宮に任ぜられ給い、鎮西下向に当たり、勅命により、その補佐のため随従する。

親代わり、また学問の師として教導傳育成につとめ、終始親王に供奉し、足利追討の軍務を補佐する。

各地に転戦し、吉野を出でしより26年目にして、悲願の九州平定の偉業は成し遂げられる。

頼元は、正平22(1367)年、78歳にして、筑前三奈木の荘に卒する。

2代良氏、3代良速、4代頼治、5代良量、いずれも父祖の志を継ぎ、征西将軍宮懐良親王、後征西将軍宮良成親王を守護し奉り、矢部を本拠にして、忠誠、苦節を全うした。その後、南北朝合一後も矢部の地にあり、有力な土豪として、隠然たる勢力を保持した。

戦国時代に至りて、当時九州において一大勢力を誇った豊前大友氏に属し、13代鎮定は大友宗麟に仕え武将として名を挙げた。

天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定、天下統一の大方針の中で、領地を没収され、大友義統の好意により豊後玖珠に移住、大友家衰退後は、肥後の加藤清正に五百石の知行にて仕え、八代に転住する。

清正公が亡くなった後、14代長安は大友家に仕えていたときの盟友でもあり、再び柳河藩主となられた立花宗茂公に仕えた折、寛永3(1636)年、大淵三河守に迎えられ、旧縁の地である、この地(大淵)に還り、現在に至っている。

明治30(1897)年、22代頼定は祖先の勲功により、華族に列せられ、男爵を授けられた。


公家唄い

上の「公家唄い」のクリックして動画を見てください。

公家唄い

一 こちの座敷は祝いの座敷 鶴と亀とが舞あそぶ

二 鶴と亀とは何してあそぶ 末は、繁盛と舞あそぶ

三 とどけとどけは末までとどけ 末は鶴亀五葉の松


五條頼元卿のうた

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後醍醐天皇綸旨

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後醍醐天皇が亡くなる前日に側近の公家によって書かれた命令書、また遺言書ともなっている絶筆です。

当時、密書は襟に縫い込んだりして運ばれたが、これはまげの元結として運ばれたとか。

約9cm四方の小さなもので、御旗祭りではこれも一般公開されます。


後村上天皇宸筆書状

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「金烏の御旗」・五條頼元着用の鎧兜・襖絵などは御旗祭りのブログで見て下さい。

現在は第25代当主の五條元滋さん(60歳)が宝物を受け継いでいる。

元滋さんは「個人の所有物だが、地域の大淵・八女市・ひいては国のものであるという気持ちで守って行きたい」とあいさつで話しました。


有難うございました。





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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

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梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-09-26 13:59 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016『日記』ならびに『骨肉』掲載向野啓助の図画をめぐって・千寿の楽しい歴史
『日記』ならびに『骨肉』掲載向野啓助の図画をめぐって

平成28年9月17日記念発表会 

山田氏発表より

場所  向野堅一記念館にて

向野堅一・孝子夫人の四男である啓助の日記には、図画を含む成績が記されている。

1・「帽子の絵」と「柿の絵」 尋常小学4先生(大正3年)  

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帽子の絵」は、学生帽と麦藁帽子の輪郭が鉛筆で描かれ、水彩絵の具で薄く着彩されている。写生画であり、赤く塗られているところには重ね塗りが確認できる。

左端には兄から「もうすこし陰影をつけてかいたらおかしくないだろう」と平面的に塗られていることから
一段上に導くためのアドバイスが記されている。

柿の絵」は、鉛筆で柿の断面を描いていっる。輪郭は薄く、種の部分やへたを黒く塗るのみで、影や柿の色は表現されていない。

右端には「もうすこし丁寧に描け」とコメントが寄せられている。つまり「帽子の絵」に附されたコメントは生かされていない。ところが、この部画は日記によると「」の成績なのである。 

2・「胡瓜の絵」と「椎茸の絵」 尋常小学5先生(大正4年)

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「胡瓜の絵」は、教科書に掲載されている課題に取り組んだ際の図画だと推測される。胡瓜が置かれている面には影が塗られており、対象が立体的に描かれている。胡瓜が置かれた床に落ちる影がはっきり描かれ、床を意識した描写、斜めから見た立体的な構図が描かれている。この床に落ちる影は、教科書の手本にない表現であり、啓助が描き加えた工夫だと推測される。

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椎茸の絵」は、重ね塗りがなされている。」ただ、「帽子の絵」ほどはっきりとした陰影を表現した重ね塗りや床面に落ちる影の描写は確認できない。

仮題は写生ではなく臨画であり、手本通りに描くことが高い評価につながる課題である。細い線で丁寧に引かれた墨汁の輪郭線や傘の裏のひだまりまで丁寧に写し描いていることが確認できる。

3・『啓助日記』(大正4年)に描かれた押絵

大正4年と大正8年の・『啓助日記』を比較すると、明らかに違う点がある。1つは「文章量」、もう1つは「押絵の有無」である。大正8年の・『啓助日記』では、文章量が大幅に増え、押絵は全く描かれていない。

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4・『啓助日記』(大正4年)に記された学校の成績

成績は、押絵が多く描かれた大正4年3月20日の日記に記されている。

算術 甲 詠方 同 綴方 同 体操 同 図画 同

修身 乙 手工 乙 唱歌 乙 操行 乙 総評 甲

当時啓助は尋常小学4年生。今日でいう主要科目(国語等)に当たる教科は「甲」であるのに対し、」技能科目は図画以外「乙」である。

大名尋常小学校のの通告俵から3学期制であったことが確認できる。

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5・啓助の進路希望とその後のあゆみ


啓助は『骨肉』第四巻第二号(大正6年4月)に以下の作文を投稿している。

我が希望

僕は中学に入れたら卒業して士官学校へ入りたり何も征服制帽と言ふやうな望みもない唯々軍人になって国家のために倒れたいのが目的である。僕の父は僕をして商人になさんとされるが考へて見ると僕にとっては商人は不適当であろうと思ふ。なんとなれば僕は人と交際することや又商人の様にへり下ったりすることをすかないからもし僕の父が僕を商人になされたならば僕は大阪とか東京とかいふ様な小さな所では満足はしない世界を相手とする大商人になろうと思ふ。これとても自分に幸福を得るためになるのではない国家の富を増やすためである。もし我が希望通り軍人になれたら国家のために十分に働いて世界の靖国に我が日本の威光をかがやかせてぞ我が希望は達し得らるるのである。されど運命の紙は我をどの方面に導であらうか。

ちょうど小学6年を卒業し、中学入学を控えた時期に記された作文である。父堅一は啓助に商人になる事を望んでいること、対して本人は、自分の適性や信念から士官学校への進学、軍人への道を目指すことを明記している。実際、啓助は中学を中退し、陸軍幼年学校に入学し軍人となる。

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終ります。有難うございました。


    
  


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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2016-09-25 13:07 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016八女福島の燈籠人形公演・千寿の楽しい歴史
八女福島の燈籠人形公演

平成28年9月23日午後3時講演(時間約30分)

八女市宮野町福島八幡宮境内

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春景色筑紫潟名島詣

八女福島の燈籠人形について

この八女福島の燈籠人形は今から270年以上前の延享元(1744)年の放生会に人形の燈籠が奉納されたのが始まりと言われています。その後、明和9(1772)年に初めて人形が動くようになりました。からくり人形が上演され、燈籠は舞台の照明の役割に変化していったようです。戦前までは氏子11町内の当番制で奉納上演していましたが、現在は福島校区23町内で保存会を結成し受けついでいます。

この福島の燈籠人形は「からくり人形芝居」です。舞台の左右の楽屋からくり出す9本の長い棒で人形を操作しています。また、一方の橋の上で踊っていた人形がいつの間にか他方の橋の上に移動しています。これを「送り出し」と言い、操つる人の熟練の技と呼吸の一致がなければ出来ない妙技です。更に踊っている人形の衣装の早がわりも見どころです。「素抜き」と言って衣装の縫い方に特別の工夫がなされています。このような人形芝居は全国的にも例がなく、昭和52年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

燈籠人形が上演される正面の建物を「屋台」と呼んでいます。間口14m、奥行き6m、高さ8mの総漆塗りの組立式の建物で釘や鎹(かすがい)はしようされていません。上演後は解体して倉庫に保管しています。建物は3層になっていて、板囲いの1階は下遣いと衣装方の控えです。正面の2階が人形の踊る舞台で左右の楽屋に横遣いの人が控えています。3階は唄、囃子方の控えとなっています。演出者の狂言方をはじめ裏方を含めて総勢約40名で上演されます。また、舞台の左右には後見役をつとめる可愛い子供さんが座っています。

芸題 春景色筑紫潟名島詣 解説

弁財天を厚く信仰する大名一行が従者を引きつれ、筑前・名島神社に詣でました。筑紫の潟は、やわらかな春風が差し込み、帆をあげた小舟はのどかに行き交い、その帆影は春の波間に漂っています。咲き誇る桜の花は、名島に座します御社を薄紅に染めあげ、筑紫の国は春たけなわです。

門前の茶店で盃を傾けていた大名一行は、春の情景に酔いしれ思わず盃が進み、いつの間にかまどろむのでした・・・。

(夢の中)・・・、衣をまとった舞姫姿の弁財天が側近である十五童子のひとり金財童子を連れて現れます。愛宕の宮、筥崎八幡、あるいは千代松原・・・。最後に名島の社に舞い降りて周囲に桜吹雪が舞い散るなか、弁財天と金財童子は、心ゆくまで社前で舞い遊ぶのでした。

第一景  福島城の景
第二景  名島の景
第三景  名島帆柱石の景
第四景  多々良川の景
第五景  筥崎千代の松原の景
第六景  名島弁財天春景色

横遣い人形   弁財天
右同      御女中
下遣い人形   金財童子
飾り人形    大名家臣


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ありがとうございました。

24日・25日も公演されます。






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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-09-24 09:50 | Comments(0) |Topに戻る
2016五條家御旗祭り・千寿の楽しい歴史
五條家御旗祭り

平成28年9月22日(秋分の日)午前10時から

八女市黒木町大淵

金烏の御旗(きんうのみはた)

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五條頼元着用の甲冑と大保原合戦で着用した甲冑

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第25代 五條元滋氏

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五條氏と話をする八女市市長と菊池市市長

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玉串拝礼

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来賓祝辞

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挨拶

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記念写真


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襖絵(明治時代に描かれた)

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続きます。





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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

梅野家庭園    4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。


梅野家歴史資料館(有明新報・平成27年1月16日号掲載)

女山史跡森林公園は史跡と紅葉の穴場。

梅野家の庭園(有明新報掲載・平成27年1月15日号)

青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

青輝園のユリをTNCが取材する・千寿の楽しい歴史span>

by kusennjyu | 2016-09-23 12:41 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016『骨肉』にみる大正期の向野家の家庭内教育・千寿の楽しい歴史
『骨肉』にみる大正期の向野家の家庭内教育

平成28年9月17日記念発表会 

皆川氏発表より

場所  向野堅一記念館にて

はじめに

『骨肉』は、ただ子ども達の好みを伝えるものではなく、教育的な意図を有する手作り回覧雑誌なのであり、向野家の教育的な志向を色濃く反映していると考えられる。 

『骨肉』創刊号

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現在存在が確認されているのは25冊、『満州旅行記年号』を入れると26冊である。

その内、裏表紙に「髑髏」の絵が描かれているのが15冊である。

『骨肉』の髑髏の絵

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『骨肉』メンバー

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『骨肉』は向野堅一の息子4人と従兄弟が主となって活動している。

なぜ髑髏に興味を持ったのか。

父向野堅一と竹田黙雷

竹田黙雷は安政元(1854)年、壱岐(現・長崎県)に生まれた。

各地を歴参ののち、梅林寺の三生軒猷禅玄達の法を嗣ぐ。

明治25年、39歳で建仁寺派管長に就任する。

父堅一と親しい関係、建仁寺住職就任に際して、入門、得度している。

禅宗に「髑髏の美」というものがあること、向野家にドクロの描かれた水墨画があったこと、

その上、「父親を通して禅宗の「髑髏の美」に子どもたちも興味・関心をもったのではないか。

「髑髏は二八の美人」  竹田黙雷の著『大機大用』項に記している。

内容は禅宗では髑髏の賛に、往々、次の句を書く。

山花菊似錦  澗水湛如藍

髑髏の賛としては似つかないように思われるが、そうではなくて髑髏の賛としては絶好の参事である。髑髏とは人の忌み嫌う汚穢なものであるが禅では綺麗なものと観る。

人間の本地の風光と言うのは、二八の美人が白粉をつけ、べにを差して盛装を凝らした時ばかりが本地の風光では無い。

白骨と成って髑髏と化した時も、青春花の如き時代と、寸分、変わらない。そこを詠んだのが「山花開いて錦に似たり、澗水湛へて藍の如し」と言うのである。

見るからに嫌な気のする髑髏の如きものを、「山花」と見、「澗水」と見てゆくのは、如何にも面白い。

このように禅宗では、自然を巧に使って、自由自在に禅を捌いて行くから、禅と自然とは深い関係がある。

「寒林」「胎實」

黙雷の著書に『禅の面目』があり、そこには、「寒林」「胎實」という文字が見出せる。

これらの文字は、堅一の戒名「教外院寒林胎實居士」に用いられている。

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これは向野堅一と竹田黙雷の親交が蜜であったことを示す一つの出来事として数えて良いであろう。

なお、堅一の「寒林居士」という名は、すでに『骨肉』にも見出せる。

おわりに

ドクロの絵は、竹田黙雷の野堅一に対する影響の現れであるとともに、日露戦争を体験したことによるドクロの流行、山岡鉄舟のドクロの書画が向野家に残っていることから、子どもたちはドクロについて考える機会があったことを確認した。


続きます。







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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2016-09-21 09:09 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2016向野康江博士論文報告(向野堅一の序章のみ)・千寿の楽しい歴史
向野康江博士論文報告(序章のみ)

演題  向野堅一(1868~1931年)の経済活動―日清貿易模索から奉天実業界形成への道程ー向野書簡中心にして

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日時 平成28年9月17日(土)午後

場所  向野堅一記念館

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第1章  幼年期から日清貿易研究所と日清商品陳列所時代まで。

向野堅一は筑前福岡藩鞍手郡新入村の豪商の四男として明治元年に出生する。向野一族は石炭経営を成功させ村会議員を多く輩出していた。

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堅一に蜜接に関与した次兄は、新入村村長として諸方面に手腕を振るった。

村内の伝統的私塾で漢学を学び、続いて英語学校として再建された修悠館に入学する。
病気療養のため修悠館を終了していない。

明治23年年に荒尾精が上海で開設した日清貿易研究所に第1期生として入学し、3年の在学期間に漢語・中国商業・英語等を学んだ。

日清貿易研究所を卒業した後、明治26年年7月から明治27年年3月まで、日清貿易研究所卒業生のために設立された貿易実務研修期間である日清商品陳列所に勤務した。

渡清と就学を支援したのは次兄であり、次兄は堅一を通じて、中国大陸での投資を模索していた。

商活動をともに展開する協力者を獲得するとともに、対中国商業投資を志していた日本人実業家との知己を得、実業活動を展開する人脈を形成した。

しかし、商業への志は明治28年の日清戦争での従軍により中断した。

第2章  日清戦争での通訳官から台湾通訳官まで。

日清戦争に際して、通訳官として召集され、遼東半島における敵情内偵の特別任務に従い、特別任務に派遣された10名の中で唯一生還した。敵情内偵によって戦局は有利となる。

軍の通訳官の俸給が低額で会ったため、日清貿易研究所卒業生の通訳官の多くが辞職し、明治29年に同学とともに俸給が高額な台湾総督府通訳官に転じた。

台湾総督府通訳官の給料は、北京で商店を開設する資金を蓄積する機会となった。

この時期に日田の名門広瀬家の子女と結婚し、その後の経済的飛躍の基盤を形成していった。


有難うございました。








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青輝園   御座敷梅ユリ展

青輝園の御座敷ユリ展・平成27年7月5日撮影分

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by kusennjyu | 2016-09-19 19:44 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る