千寿の楽しい歴史
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2017青輝園の御座敷ユリ展(6月29日)・千寿の楽しい歴史
青輝園の御座敷ユリ展

平成29年6月29日

有明新報 平成29年6月29日号筑後版

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御座敷ユリ

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ヤマユリ

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ササユリ

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幻のユリ  タモトユリ(写真)

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幻のユリ  ウケユリ(写真)

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外のユリ

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二階の休憩室

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7月上旬まで見られます。

お待ちしています。







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梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

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青輝園   御座敷梅ユリ展

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by kusennjyu | 2017-06-30 09:32 | みやま市観光 | Comments(0) |Topに戻る
2017大道端遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
大道端遺跡(おみちばたいせき)

瀬高町大草  

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P240~P243より

みやま市教育委員会発行


大道端遺跡は、瀬高町大草の標高9m前後の安定した微高地に立地します。

九州縦貫自動車道建設工事に先立って、昭和47(1972)年に福岡県教育委員会が試掘調査しました。その結果、検出された遺構や出土遺物から見て、旧石器時代から平安時代にまたがる複合遺跡であることがわかりました(文献1)。

そのうち、古墳時代後期を中心として、弥生時代後期の集落遺跡が主要部分をなします(図1)。

まず、旧石器時代の遺物は、剥片尖頭器・ナイフ形石器を主体とする剥片石器を若干検出しました(図2)。遺跡地東方の東山(女山)一帯の丘陵地で、硅質凝灰岩の礫器(チョッピング・トゥール)が少なからず採集されているのに対し、低地という遺跡立地と剥片石器という石器形態の差異は、海退現象に伴う低地性遺跡の出現と理解できるでしょう。

縄文時代では、早期末から晩期にまたがる縄文土器や、石鏃・石斧などの石器類を多数出土しましたが、竪穴住居跡などの遺構は遺存しませんでした。おそらく弥生時代以降の集落造営によって削平を受けたのでしょう。縄文土器は、早期末の轟A式、前期前半の曽畑式、中期の並木・阿高式、後期の南福寺式・出水式、御手洗A式、ならびに、後期の磨消縄文土器である中津式・福田KⅡ式と、後期中葉の津雲A式、鐘式、北久根山式、西平式、さらに後期後葉の三万田式や、後期終末の御領式から晩期終末の夜臼式まで黒色磨研土器が認められます。そのうち、中心をなすのは、中期から後期にかけての土器です。

縄文時代の石器では、石鏃が圧倒的に多いのですが、スクレーパもかなり出土していて、狩猟活動を推測させます。一方、自然礫の両端を打ち欠いた大小の石錘があって、漁労活動への依存度も高かったことが推定できます。

弥生時代の土器は、中期初頭から後期末にものですが、遺構では後期の竪穴住居跡と溝を認めました(図3)。

竪穴住居跡は全部で8棟検出されましたが、4つのグループにわかれます。すなわち、後期前半のa・bグループ、後期後半のcグループ、そして後期末葉のdグループへと変遷しています。このような居住集団は、3棟またはそれに若干数を加えた単為が基本であったように思われます。なお、個々の住居跡は平面方形をなし、床面中央に炉を掘り込み、そして壁際に沿ってベッド状遺構を残すものも認められました。一辺の壁 面中央に掘られた竪穴は、貯蔵用でありましょう。

溝状遺構は、調査区をほぼ斜めにN―32度―の方向で続いていました。長さ64.8mにわたって検出されましたが、この方向は、遺跡が立地する微高地の主軸の方向と一致します。また、集落の南端を走りますので、用水施設というより、むしろ排水施設であったかもしれません。

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続きます。








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by kusennjyu | 2017-06-27 10:29 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017女山産女谷遺跡(瀬高町大草)・千寿の楽しい歴史
女山産女谷遺跡(ぞやまうぶめたにいせき) 

瀬高町大草

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P236~P239より

みやま市教育委員会発行。


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瀬高町女山産女谷に所在する銅矛(どうほこ)出土遺跡です。銅矛発見者の杉本博によると、銅矛以外の遺物は発見されていないということなので、単独の銅矛埋納遺跡と考えられます。銅矛埋納地点は、女山の中腹というだけで、詳細な出土位置は不明です。発見された年月は、昭和29(1954)年3月で、杉本によると偶然、鍬に当たったとされることから、開墾か畑作業をしていた時に、発見されたものと考えられます。

杉本は、当時、女山西麓の瀬高町大草に在住し、平成20(2008)年に他界しました。杉本が所蔵していた銅矛は、現在、2本とも、その所在が不明になっています。

平成12(2000)年に筆者が、筑後地方の青銅器を調査していた際に、銅矛を実測させていただき、出土状況などを伺うことができました。その後、あらためて杉本に詳しく出土状況を伺ったところ、杉本から同年9月にいただいた手紙に、出土状態を示すメモが記されていました。今となっては、発見者によって残された貴重な資料なので、この機会に公表することにします(図3)(最初のあて先が「片山」となっているのは「片岡」の誤りです)。

出土した銅矛は2本です。関の少し上で2本に折れている方の銅矛を1号銅矛、折れていない大きな方の銅矛を2号銅矛としておきます。

出土状態は、他に例を見ないものでした。まず関付近で折れて鋒(きっさき)側しかない破片を、刃を立てずに水平に寝かせ、それに鋒を合わせるように、完形の銅矛を、やはり水平に重ね合わせ、さらにその完形の銅矛のちょうど真ん中あたりに、関付近から袋部側半分の破片を袋部を上にして垂直に立てて埋めていました。1号銅矛は、関付近で折れているものの割れ目はきちんと接合するので、袋部を上にして立てた銅矛と一番下に水平に埋置された銅矛が同一固体で、それが図2の1号銅矛にあたることは明らかです。もう1本の完形品が、2号銅矛にあたることも明らかです。

出土場所は、女山の斜面で「山に対して平行」であるので、等高線と平行な方向に埋置されていたことがこのメモによって分かります。このメモには記されていませんが、以前、杉本から直接聞き取った話では、1・2号銅矛の鋒は東に向いていたとのことでした。

この出土状況に対し、銅矛が垂直に立っていたのは、鍬で引っ掛けるるなどして、銅矛の一部が引っかかって立った可能性はないか、と杉本に確認しましたが、回答は、確かにこの状態で埋まっていたものを掘り出したということでした。そうすると、袋部側の破片の長さは約30cmくらいなので、仮に袋部まで全部が地面の中に埋まっていたとすると、水平に埋められた1号銅矛の埋置深度は、最低35cmを越すことになります。

1号銅矛は、全長79.7cm、袋部幅4.7cm、関部幅8.4cmです。銅質が良く、表面は黒褐色で光沢があります。耳には細かい穴が貫通しています。

鋒から49cm付近で折れていて、袋部側の折れ口は、古い段階の細かい欠けが多く、杉本が残したメモのとおりの埋納状態であったとすれば、2号銅矛の上に立てるよりも前に破損したものと思われます。この折れが、2号銅矛の上に立てるために意図して折られたものか、折れたためにこのような埋納をしたのかは不明です。

2号銅矛は、全長83.5cm、袋部幅5.6cm、関部幅9.7cmを測ります。

袋部から上に10.5cm付近と12.0cm付近の2か所には、表面の銅質と異質な部分がありました。上の方は径3mmほどの円形で、下のほうはやや楕円で、3×6mm程度です。その位置から見て銅ピンの可能性もあります。この裏側にはそのような痕跡は見当たりません。

この中広形段階では、刃部は良く研がれて鋭利に尖(とが)るのが常で、この2号銅矛の刃部も大概は良く研がれています。しかし、この銅矛は、鋒から25~27cm付近の左側刃先だけ、刃が研がれずに平坦面に残っている箇所があります。袋端部を覗くと、よく広形銅矛に見られるように、断面がヒトデ状のハバキをかませて、隙間から湯を流し込んだ痕跡が認められます。袋部入り口付近の真土は抜かれていますが、まだ内側の壁にかなりこびりついたままの状態です。表面は、1号銅矛のような光沢はなく、全体に深緑色をしています。保存状態は良好です。

2号銅矛の表面の中央付近に、1号銅矛の折れ口が接していた痕跡が残っているのかどうか、平成12(2000)年調査時点では、そこまで観察する意識がなかったために見逃していました。それがわかれば、どちらの面が上になっていたのかわかるのですが、写真を見直してもわかりません。現物が再発見され、確認したいところです。

2口の銅矛は、同時に埋納されたものですが、2号銅矛のほうが、全体に大振りで、一部に刃部の研ぎが不完全であったり、耳の穴が貫通していなかったり、1号銅矛よりもいくつかの新しい要素が見受けられ、製作時期には時間差が認められます。

筑後地方は、八女郡広川町天神浦遺跡から13本の中広形銅矛が出土したのをはじめ、中広形銅矛の埋納例が多く認められますが、女山産女谷遺跡も、この地にそうした埋納行為が及んでいたことを示す証拠になりました(文献1)。

青銅器埋納は、偶然の発見がほとんどで、その出土状態については、不明なものが多い中、幸いこの女山産女谷遺跡では、発見者の記録が残され、他に例を見ない特異な埋納状態であったことがわかかります。


続きます。






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by kusennjyu | 2017-06-26 15:53 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017鉾田遺跡(瀬高町小川)・千寿の楽しい歴史
鉾田遺跡(ほこたいせき) 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P161~P164より

みやま市教育委員会発行。


瀬高町小川
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鉾田遺跡は、矢部川およびその支流である旧河川が形成した、現標高5.5m前後を測る自然堤防上に立地しますが、遺跡周辺は土取りによる地下げが行われる以前は現在より標高が1m程度高かったと考えられます(図1・2)。昭和31,32(1956,1957)に土取りによる多数の甕棺墓・箱式石棺墓が発見されたことから、九州大学の鏡山猛によって記録作成と報告が行われました(文献1)。

第1~3区に分けられた甕棺墓群は、第2区は甕棺墓群の配置を記録できましたが、第3区は一部のみ記録、大部分は未記録のまま破壊されていました。

鏡山が調査に入る以前に破壊された第1区では、甕棺墓・箱式石棺墓数十基が出土したということですが、鏡山による聞き取り調査の結果、後述する第2区と似た甕棺墓の配置状況であったと考えられています。

第2区では、甕棺墓48基を確認し、鏡山による配置からA~E群の6小群にグループ化されています。表1は鏡山が作成・報告した甕棺墓一覧表ですが、「口縁形」という項目で、△が弥生時代中期初頭、Lが弥生時代中期前半、Tが弥生時代中期中葉の甕棺と想定されるので、それを鏡山が作成した第2区甕棺配置図を時期別に塗り分けたのが、図3です。図3によると、BおよびB’群は形状ではなく、集塊状を呈し、そのほかの群とは空閑地があることから、一辺10m程度の方形区画(墳丘か)が存在し、その中に甕棺墓群が営まれた可能性があります。また、弥生時代中期初頭と推測される13号甕棺墓では細形銅剣切先一点(図6)、時期不明である10号甕棺では棺外で磨製石鏃一点(図6)の出土など、BおよびB’群でのみ副葬品が集中し、他の群に比べ優位な群と考えられることも、墳丘の存在を示す傍証になると思われます。市内では中園聡が権現塚北遺跡の甕棺墓群に墳丘が存在した可能性を指摘していますが(文献2)、本地域でも優位な集団の墓地に墳丘が伴った可能性を示すものとして注目されます。

その他の群は、D・E群およびA、C群がそれぞれ別埋葬を指向していると思われます。

第3区で鏡山が記録した甕棺墓は9基ですが、記録範囲以外の、特に範囲外北側で、相当数の甕棺墓が存在したようです。第3区を第2区同様に塗りわけたのが図5ですが、記録できた甕棺墓9基は並列状態かつ隣接して営まれており、列埋葬の可能性は低いと考えられますが、集塊状墓地ともやや異なる、甕棺墓配置としては珍しい事例と考えられます。

 鏡山は、本遺跡の各群の甕棺墓の規模から大―中―小に区分し、それぞれが属する集団構成を分析し、さらに環溝住居(方形環溝)の在り方と照合させることで、弥生時代の共同体論(文献1)を論じています。このことから、本遺跡は学史的に重要な遺跡です。

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続きます。






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by kusennjyu | 2017-06-25 07:40 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017第26回親子ふれあい音楽会・千寿の楽しい歴史
第26回親子ふれあい音楽会

大牟田高等学校吹奏楽部演奏会

平成29年6月24日(土)10:00~11:00

岩田小学校体育館  天気:小雨

岩田幼稚園児10人・岩田小学校生徒・髙田中(岩田小卒)とPTA父兄など、体育館は満員になりました。

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1 マーチ「春風の通り道」

今年度吹奏楽コンクール課題曲

2 あの日聞いた歌

故郷・浜辺の歌・椰子の実・赤とんぼ・春の小川・花

3 楽器紹介

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4 デイドリーム・ビリーバー

5 本村先生とコラボレーション

 ●J-BEST~みんなの卒うたメドレー

 遥か・道。3月9日。明日への扉・遥か

 ●翼をください~バンドと合唱のために

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8 ディズニーヴィランド・メドレー

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7 カーペンターズ・フォーエバー

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アンコールに答えて

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花束贈呈


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有難うございました。






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by kusennjyu | 2017-06-24 16:04 | みやま市の今 | Comments(0) |Topに戻る
2017車塚古墳(瀬高町山門)・千寿の楽しい歴史
車塚古墳(くるまづかこふん)  

瀬高町山門(市指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)P266~P269より

みやま市教育委員会発行。


車塚古墳は、返済川およびその支流の旧河川が形成した標高8m前後の自然堤防上に位置する前方後円墳です。古墳の原状は、後円部から前方部の墳項に祠(ほこら)と公園があり、その整備のため墳丘上部がかなり削られています。またかつて周囲の水田には古墳周濠の痕跡はわかりづらくなっています。

これまで古墳自体の発掘調査は行われていませんが、平成元(1989)年に瀬高町教育委員会が圃場整備に伴い、古墳北東周濠隣接地を藤の尾車塚遺跡として発掘調査をしています(文献1・2)。この藤の尾車塚遺跡では、弥生時代中期の甕棺墓群と、弥生時代後期~古墳時代前期前半ごろにかけて営まれた多数の竪穴住居などを確認しています。特に弥生時代後期~古墳時代前期前半ごろの集落は、古墳時代前期後半~中期前半に断絶していると考えられることから、本古墳の造営時期との関連が注目されます。

本古墳の規模は、大正15(1926)年刊行の『山門郡誌』によると、長さ27.5間(約49.7m)、幅15間(約27.1m)、高さ2間(約3.6m)の周濠、前方部の左右に陪塚とされる円墳が各一基存在していたようです(図4・文献3)。昭和49(1974)年刊行の『瀬高町誌』によると、本古墳の規模は南北約55m、東西約27m、高さ約3.5mで、明治22(1889)年ごろまでは周囲に幅3.6mの周濠が巡っていたこと、また享保20(1735)年に鏡三面が掘り出され、その後古墳中央の祠に収められていましたが、現在は残っていないことが記述されています(文献4)。

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図3の測量図は、福岡県教育委員会が、昭和40年代後半~50年代に県内主要古墳の総合的調査で実施した航空測量の成果品で、現在では、この図と原状の道路および田畑などと照らし合わせたところ、公園整備によりその後の改変を受けているものの、車塚古墳の測量図であると確認できました。

図3によると、本古墳は北北西に前方部を向ける前方後円墳で、墳丘主軸長51.5m、後円部径27m、高さ3m弱を測り、先述の『瀬高町誌』で記された南北約55m、東西約27m、高さ約3.5mに比べ、後の公園造成や田の耕作などのよって、さらに削られていることがわかります。後円部は長楕円形を呈しているため東と西が大きく削られたと思われ、また角張った円形状を呈する前方部先端部も墳丘裾部中心に大きく削られていると予想されます。標高10.5m余りを測る前方部先端はそこから1m近く削平されています。また、古墳に伴う段築成や埋葬施設は確認できません。

墳丘の周囲に残る周濠の痕跡は、その形状を残すと思われる南~東部分で幅17~20m程度と、先の『山門郡誌』および『瀬高町誌』に記載された幅3.6mとは大きく差があります。特に北東部がかなり広がっており、後に周濠部分を拡張したため、幅が広くなっている可能性があります。本来の周濠の幅は、古墳進入路として後円部先端に小さな橋が架かっている箇所とその南側の田との距離が5.5mであることから、この部分が本来に近い周濠の幅を示すと思われます。また、前方部先端北西の周濠痕跡の狭い部分も大きく削られた本来の墳丘からすると周濠の痕跡が残っている可能性があります。

出土遺物は現存していませんが、これまで先学により、本古墳から出土した銅鏡は『耽奇漫録(たんきまんろく)』に記載された「車塚神鏡」がそのうちの一面である可能性が指摘されています(文献5)。

『耽奇漫録』は、文政7(1824)年5月から翌8年11月まで20回にわたり開催され、珍奇な古書画・古器物などを持ち寄り、考証を加え論評しあった「耽奇会」という好古、好事の者の会合の記録です。その会合に江戸詰の柳川藩士であった西原一甫(1760~1844年)も主要メンバーとして、藩命により柳川に下向するまで(第一回~第十二回)参加していました(文献6)。

その第十回の会に、西原一甫は「車塚神鏡」として一面の獣帯鏡を出品したことが『耽奇漫録』に記録され、その図とともに解説として、車塚古墳から鏡三面が出土し、三面のうち一面を図示したことが記載されています。

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図7は西原一甫旧蔵で、現在伝習館文庫所蔵の『耽奇漫録』(計十二冊)に図示された車塚古墳出土鏡です。『耽奇漫録』はいくつかの写本が現存しますが、そのうち復刻されている国立国会図書館蔵版(文献7)は文様部分など原本に近い図7に比べ簡略化しており、以下では伝習館文庫所蔵のものにより検討を行います。

図7から、本鏡はこの当時すでに破片で、内から鈕(ちゅう)、鈕座、圏帯(けんたい)、内区主文部の約二分の一が欠けています。面径は不明ですが、『邪馬台国探検記』によると、径お二十二cm、取手(鈕座の径か)5.6cmで、天竜の尾(外区の獣文帯か)を刻んでいるとされます(文献8)。

文様構成は、欠損する鈕の外側には櫛葉文帯(くしはもんたい)、圏線、有節重弧文(ゆうせつじゅうこもん)、圏線からなる鈕座があり、その外側には内は細い圏線と外は圏線・櫛葉文帯で囲まれた狭い内区主文部、隙間の存在から内区から緩やかに傾斜し、一段高くなると考えられる外区は外向きの鋸歯文、圏線、流雲状(りゅううんじょう)の獣像で構成され、その外側の縁部は素文であったと予想されます。

鈕座は、有節重弧文までは距離があることから、最も内側の櫛葉文帯の内側に文様帯が存在した可能性があります。その外側の内区主文部は突線で獣像を細かく表現したもの(細線式)と思われますが、乳、獣像などが明確に図示されていません。突線で描かれた四神や獣像が西原一甫には理解されなかったとは考えづらく、図が描かれた時点ですでに内区主文部は破片になっており、図像が分かりにくかったため理解されず図化されなかったと予想されます。また乳は表現されていません。像の隙間は芝草文で埋められていると考えられます。

外区の流雲の獣像帯は突線で尾を表現し、左向きの可能性があります。

以上から、本鏡は細線式獣帯鑑の可能性が高いこと、圏帯の素文突帯+有説重弧文+素文突帯、内区主文部外側の櫛葉文帯、外区の鋸歯文+獣文帯というモチーフは、浮彫式ですが熊本県江田船山古墳出土鏡とよく似ており、車崎正彦による『六朝鏡』に本鏡も含まれると考えられます(文献9)。本古墳の年代は、この鏡と先述した藤の尾車塚遺跡の集落の断絶時期から四世紀後半~五世紀に属すると想定されます。

本市内では五世紀以降の首長墓としては、五世紀初頭と考えられる円墳の面の上一号墳、五世紀後半~末の帆立形タイプの前方後円墳であるクワンス塚古墳と赤坂一号墳、六世紀前半の九折大塚古墳が山川町河原内の台地上に集中する一方、大型円墳の権現塚古墳や本古墳が平野の自然堤防上に立地します。この平野部の
首長墓系列は本古墳、権現塚古墳、詳細が不明な蜘蛛塚古墳など五世紀にかけて首長墓系列が存在すると推測できますが、そのほとんどは未調査のため詳細は不明です。本古墳は墳丘の残存状況は良くありませんが、銅鏡が三面出土し、そのうちの一面と考えられる図が残っていること、古墳の築造に伴い集落が断絶したと考えられることなど、みやま市の古墳時代を考える上で重要な古墳です。

続きます。





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by kusennjyu | 2017-06-23 17:53 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017権現塚古墳(瀬高町坂田)・千寿の楽しい歴史
権現塚古墳(ごんげんづかこふん)  

瀬高町坂田(市指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)P270~P271より

みやま市教育委員会発行。


権現塚古墳は、標高9mほどの沖積台地の微高地上に立地し、国道209号線を南の大牟田市へ向かうと、東側にひときわ大きな高まりが見られて明らかに古墳とわかります(図1)。北側2kmには矢部川が蛇行、西流して有明海に注ぎ込みます。東を見れば、筑肥山地の一角の清水山が連なっています。古墳は広く開けて平坦な筑後平野にあって、東にある清水山の眼下にあります。

 『旧柳川藩志中巻』名所旧跡の「古墳」の項によれば、(文献3)、「俗に之を茶臼塚と唱ふ。周囲63間、直立6間あり」。また『瀬高町誌』(文献2)には、「周に堀のある段付円墳で、径36m、高さ7.8m、周囲113.5mの古墳である。」との記述があります。

 主体部および年代は不明ですが、直系45m、高さ5.7m二段築成の円墳であって、周囲には、幅11m、深さ1.2mの周溝がある県内でも屈指の円墳であることが、昭和56(1981)年度の、圃場整備事業に関連する測量調査および事前トレンチ調査でわかりました(図2・文献1)。

 平成3(1991)年度には、科学的探査によりこれまでわからなかった権現塚古墳の主体部や古墳の形状、周溝の解明にむけて、電気探査や地中レーダーを利用した電磁波探査を行っています。その結果、周溝の存在は認められたものの、主体部らしき石室の反応は見られず、木棺などの比較的に土質に近い埋葬施設と推定されます。

 『瀬高町誌』によれば、付近からは、「堀の南の畑から弥生の合せ甕・高坏んまどが出土し、また堀の北東隅に組み石棺があるところを見ると、弥生式遺跡(墓地)の上につくられた古墳であろう。塚の西部の水田からは縄文後期の土器や石斧なども出土している。」としています(文献2)。


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続きます。





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by kusennjyu | 2017-06-20 11:39 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017博多祇園山笠の酒プレゼント・千寿の楽しい歴史
博多祇園山笠の酒プレゼント

平成29年6月18日(父の日)

息子夫婦からのプレゼントです。

博多祇園山笠

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プレゼントの酒

綾杉酒造場  「カク」  日本タオルでラッピング

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タオルでのラッピング


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有難う。美味しかった。





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by kusennjyu | 2017-06-19 18:18 | 出来事・生活 | Comments(0) |Topに戻る
2017青輝園のユリ園(6月18日)・千寿の楽しい歴史
青輝園のユリ園

平成29年6月18日午後

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今年が開花が早いようです。

お待ちしています。






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by kusennjyu | 2017-06-18 16:32 | みやま市観光 | Comments(0) |Topに戻る
2017みやま市史資料編上巻(石神山古墳)・千寿の楽しい歴史
石神山古墳(せきじんざんこふん)

高田町上楠田(国指定史跡)

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)P273~P275より

みやま市教育委員会発行。

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石神山古墳は、『二川地方誌』(文献1)に、水野澄治が「石棺発見の顛末」および京都帝国大学(現京都大学)教授浜田耕作が「新発見の石人(上・中・下)」を記載しています。そのなかで浜田耕作は、東京帝国大学(現東京大学)の柴田常恵が浜田より10日前に調査に来たと記しています。柴田常恵は、のちに大正5(1916)年『人類学雑誌』にて、「筑後三池郡上楠田の石神山」、「筑後三池郡上楠田の石神山(続)」としてその成果を発表して
います(文献2・3)。「筑後三池郡上楠田の石神山」、では、石人の形状については兜を纏った武装姿の立像の円彫で、現在部の総高は3尺5寸弱、草摺から下の脚部が欠損している

ことを報告している。また、石棺の発見については、明治44年3月15日、上楠田天満神社修繕の際、当時の区長と神社取締役の2名が、掘り下げたところ、大型石棺を1基発見し、4月30日に小形石棺、5月1日に中形石棺を発見したことが記載されています。発見当時の状況として大棺内には遺物はなく、僅かに中形棺から胴釧(私が追加する~胴のうでわ)と直刀の破片、小形棺から銅片と鉄剣の一部と思われるものおよび歯牙と骨片が出土したと報告しています。そして「筑後三池郡上楠田の石神山(続)」では、3棺が凝灰岩で造られていることや寸法などが詳細に書かれています。

『高田町誌』(文献4)には、「明治44年5月1日、遊覧地を作るために山頂を墾いたが、地下約2尺5寸の所より大・中・小3個の石棺が3間四方の位置に並べてあるのを発見した。大・中の石棺は、東西に並び、小棺は南北に向ひ、各棺の距離は約半間で、大棺の上に石人が立っていた。石棺は発掘の当時毀損していたので之を繕ひ、原状の位置に並べ仮堂をその上に造って保存している」と発見当時の様子が窺えます。
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それ以降の古墳の資料は、昭和54(1979)年2月6日の国指定申請書に添付されていた状況図のみでしたので、平成15(2003)年に高田町教育委員会が行った測量調査においては墳丘の測量図(図2)と武装石人の正面の実測図(図3)が作成されました(文献5)。

古墳の墳丘は、標高56mの後円部が墳頂部で、後円部は標高52.5mで円状に廻るラインが確認でき、墳裾部は標高51mの位置と考えられ、そうすると後円部径は直径32m、墳丘長は58.5mと推定できます。図2では墳形は左右対称であることが確認できますが、南東部斜面は急斜面で、西~北~東斜面にある2段の段差は後世に造成されたものと考えられます。

武装石人は鎧の裾部分まで現在長106cmを測り、前資料の3尺5寸(106.05cm)の記述とはほぼ同値であることおよび形状も衝角付冑(しょうかくつきかぶと)や錣(
しころ)は確認でき、鎧は三角模様の朱塗り、草摺(くさずり)は七段の交互に赤色顔料が確認できます。武装石人は昭和52年に国指定重要文化財に指定されています。

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この古墳の立地は、北に筑後平野が広がり、南には有明海が望む風光明媚な位置に作られています。周辺には西南方向約5.5kmに、4世紀後半~末に築造された黒崎観世音塚古墳(大牟田市所在)、北方向約16kmに武装石人と横口式家形石棺を伴う5世紀前半築造の石人山古墳(八女郡広川町所在)、東北方面約16kmには石人石馬を伴う6世紀前半に築造された岩戸山古墳(八女市所在)など大規模な前方後円墳が所在します。4世紀後半から5世紀前半に築造されたと考えられる石神山古墳との関係性は南筑後地方の古墳時代の動向にとって大変重要で、今後、さらなる調査によっ明らかにされるべき古墳の一つであります。
 
続きます。






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by kusennjyu | 2017-06-15 13:51 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る