千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
<   2017年 08月 ( 24 )   > この月の画像一覧
|Topに戻る
2017福津市の古墳(講師・西谷正氏)・千寿の楽しい歴史
西谷正氏講演会

講師 海の道むなかた館長 西谷正氏

とき 平成29年8月12日(土)午後2時~

場所 大川市酒見  風浪宮

宮地嶽古墳

現状で南北27m、東西34mの楕円形を呈する。本来は35m前後の円墳と推定されている。埋葬施設は全長23mの横穴式石室であり、全国第2位の長さである。石室奥が幅・天井高ともに狭まる構造に横口式石槨の影響が指摘されている。金銅透彫冠、頭椎大刀、金銅鏡板付轡(くつわ)、金銅製杏葉、金銅製壺鎧、金銅製鞍金具、ガラス板、ガラス玉、蓋付銅鋺、銅盤等が付近から出土したと伝えられており、副葬品と考えられている。唐草文で装飾された馬具、冠など国際色豊かな優れたものを含み国宝に指定されている。築造時期は7世紀前半から中頃と推定される。

a0137997_1352332.jpg



津屋崎古墳群

玄界灘に面した福津市北部の丘陵や台地上に、5世紀から7世紀にかけて築かれた古墳が、南北8km、東西2kmの範囲に分布しています。これらを総称して津屋崎古墳群と呼んでおり、前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基からなります。約200年にわたる地方豪族の首長墓群(しゅちょうぼぐん)であり、平成17年3月2日に国指定の史跡となりました。

古墳群の変遷

津屋崎古墳群では保存を前提としています。そのため埋葬施設を調査しているものが少なく、表面採集遺物によって年代推定しているものもあります。古墳築造時期の決定にはさらに詳細な調査を要しますが、大型前方後円墳に注目すると、5世紀に勝浦・奴山において築造が始まり、6世紀に須多田・在自に移ります。続いて宮司・手光に7世紀の古墳が築造されます。古墳群は大筋として北~南への変遷をみることができます。

胸形君一族

かつて津屋崎古墳群は広い入り海に面していました(地図参照)。古墳群を築いた人々は、天然の港を持ち、伝統的に培った航海技術で船舶を操り、時代の要請に応え対外交渉にも深く関わって活躍したと考えられます。

津屋崎古墳群の被葬者について、文字史料などの物証は出土していません。しかし、『古事記』や『日本書紀』に、三女神を祭る「筑紫の胸形君」という豪族が登場します。地理的状況や古墳群の規模、出土品などを考え合せると、沖ノ島祭祀に関わったと伝える胸形君一族(むなかたのきみいちぞく)の墳墓群である可能性が考えられます。また、『日本書紀』には、「胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)が女尼子娘(むすめあまこのいらつめ)を納(め)して、高市皇子命(たけちのみこのみこと)を生(な)しませり」とあり、「胸形君徳善」を宮地嶽古墳の被葬者に、近くで見つかった火葬墓の被葬者を尼子娘に当てる節もあります。

対象古墳の概要

津屋崎古墳群(第1図、2図)

津屋崎古墳群は、玄界灘に面した福岡県福津市北部の丘陵および台地上南北8km、東西2kmの範囲に分布する。北から勝浦井ノ浦古墳、勝浦峯ノ畑古墳、新原・奴山古墳群、生家大塚古墳、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、在自剣塚古墳、宮地嶽古墳などからなる。現存する古墳の総数は60基(前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基)で、規模と密集度に関して九州北部における代表的な古墳群と言える。築造年代は5世紀から7世紀にわたり、大形墳に注目すると北から南への変遷が窺える。なお、本古墳群の臨む低地は近世に干拓が行われるまで、入海が深く入り込んでいたことが判っている。

これまでに調査された勝浦峯ノ畑古墳や新原・奴山古墳群では、朝鮮半島の影響を受けた特色ある埋葬施設が確認され、豊富な副葬品が出土している。なかでも宮地嶽古墳は奈良県石舞台古墳などと並ぶ我が国を代表する巨石を用いた横穴式石室(全長23m、全国第2位)を有し、国際色豊かで豪華な副葬品は国宝に指定されている。

本古墳群は、その規模から有力地方豪族が築いたとみられ、被葬者については地理的条件などから、『古事記』・『日本書紀』に三女神を祭る氏族として記される胸形君一族とする節がある(福津市教育委員会、2013)。

a0137997_13541124.jpg



a0137997_1354385.jpga0137997_13545389.jpg


1・勝浦峯ノ畑古墳

勝浦峯ノ畑古墳は、墳長100mの前方後円墳で埴輪と葺石を備える。1975年、道路建設に伴い発掘調査された。埋葬施設は中軸線上に2本の石柱を立てる横穴式石室で、国内に類例がない。内部の壁面から天井まで赤色顔料を塗る。築造時期は5世紀中頃と推定される。細線式獣帯鏡、画文帯同向式神獣鏡、内行花文鏡、獣像鏡、乳文鏡、金銅製冠帽、金銅製歩揺、金銅製花形飾金具、円環系有刻銅釧、ガラス玉(15427点)、翡翠製勾玉、琥珀製勾玉、琥珀製棗玉、丸玉、鹿角製装具付大刀(40振以上)、鹿角製装具付剣、鉄剣、銀製装具付素環頭大刀、鉄」鏃(285点)、短甲、小札、木心鉄板張輪鎧、柄杓形木心鉄板張壺鎧、刀子などが出土した。

本古墳出土の金銅製装身具は細片となっていたが、近年、詳細な検討によって龍文透彫金銅製冠帽、銅釧の存在がほぼ確定し、金銅冠、垂飾付耳飾、金銅製帯金具が存在した可能性がある。このことから、本古墳の副葬品は熊本県江田船山古墳に相当する構成が想定されている。

金銅製冠帽は、漢城期百済からの舶載品と推定され、被葬者の対外交流を窺わせる資料と位置付けられている(福津市教育委員会、2011)。調査報告書で見ると、石室の天井石と奥壁および側壁の腰石が板状玄武岩と思われる。個々の板状玄武岩の重量は推定で1~5トン。総重量は16トンである。その他の石材は、主に柱状玄武岩である。試料採取した石材は、天井石(KTMN―①)である。

2・新原・奴山1号墳、21号墳、44号墳

新原・奴山古墳群は、東西800mの台地上に総数59基が確認されている。そのうち41基が現存し、内訳は前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基である。1975年以降、県道(現国道495号)改良工事や農協施設建設、圃場整備に伴い、9次にわたる発掘調査などが行われている。台地西寄りに22号墳など前方後円墳と大形円墳が分布し、その周辺に中小の古墳が分布する(第2b図)。これらは5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたと推定されている(津屋崎町教育委員会、1989)。ただし、保存を前提としているため未調査の埋葬施設も多く、年代や変遷については未解明な点がある。

有難うございました。





みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-31 13:50 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島と朝鮮通信使・千寿の楽しい歴史
相島と朝鮮通信使

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

a0137997_818995.jpg



a0137997_8185914.jpg



藍嶋図(岩国藩の武士が描いた)

a0137997_819267.jpg



朝鮮通信使行列

平成14年8月4日対馬厳原町アリアン祭にて

a0137997_8223327.jpg



1・朝鮮通信使

相島は、新宮港から海上約7.3kmの沖合にある東西に長い半月形の小島です。江戸時代には鎖国をしていましたが、朝鮮とだけは国交を結び、福岡藩ではその使節をここで接待し、文化交流の舞台となった島です。

朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝からの国書(信書)を持って訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者です。通信使とは、「信(よしみ)を通わす使節」の意味で、つまりお互いに信頼関係を深め合う使節で、12回来日しました。

第9次の来日記録が『海遊録(かいゆうろく)』(姜在彦著・平凡社)に詳しく記述されています。それによると、相島については「御馳走は、壱岐よりさらに倍する。諸物すべて華美で景色のよいこと神仙境である」と書かれています。

一行の経路は、首都漢陽(現在のソウル)を4月14日に出発し、6月20日釜山を出帆しました。対馬には22日間滞在、7月19日未明に次の寄港地壱岐へ向かい翌日、勝本に入港しました。7月24日台風来襲、12日間滞在しています。この台風で相島でも新築した宿泊施設や船・波止も一部壊れ水死者が出ました。代わりの船舶の準備、水夫の補充、宿舎や波止の修理などが大変だったようです。8月1日勝本を出帆し、福岡藩の領海に入ると相島から藩の迎護船が出てとも綱で曳航(えいこう)し、真夜中に相島に到着しています。

8月3日は早朝から暴風雨になり、停泊していた船は荒れ狂う波にほんろうされ、さらに東風のため出帆することができませんでした。

『黒田家譜』によると、8月10日相島を出帆、次の寄港地赤間関に向きましたが、芦屋沖で北風に阻まれ航海中3回目の大風雨に遭遇、緊急時の避難地である地島に引き返しました。8月18日出帆、小倉藩に迎護を引き継いでい、ます。一行が福岡藩領を通過するのに17日かかっています。

一行と案内警護役の対馬藩士合せれば1200~1300人の集団となり、通信使一行の接待に藩は膨大な費用と労力を掛けました。一方通信使も第9次では、日数にして285日間の長旅で、その苦労も大変だったと思われます。

江戸時代の朝鮮通信使往来一覧表

a0137997_8343466.jpg



朝鮮通信使行列

a0137997_8355692.jpg



朝鮮通信使旅程図

a0137997_837149.jpg



2・朝鮮通信使客館

通信使一行300~500人を迎えるため毎回新しく官人小屋(かんじんこや・客館)を新築し、帰国後に取り壊しています。第10次来島時を描いた藍嶋図には、官人小屋は板葺きで棟数は大小40ほどと記録されています。寛永元年(1624年)の記録「東槎録(とうさろく)」には、「官舎は新築し、軒・柱・梁・垂木・垣根に至るまで皆竹で作り」とあり、青々とした竹が大変美しかったようです。『黒田家文書』では、畳数931畳半を新調したと書かれています。藍嶋図に基づき平成7年に官人小屋の場所と思われる畑の発掘を行ったところ、江戸時代の建物跡や井戸跡、漆椀、陶磁器などが見つかりました。

朝鮮通信使客館は、若宮神社横から南西の位置にあり、その敷地は東西65間(約117m)、南北70間(約126m)でありました。発掘調査は、今は畑に戻され案内板だけが目印となっています。

写真は細長い廊下状の建物の柱の跡です。この建物跡は島の中心部に向かってまだ続いていますが、部分的にしか確認できていません。

a0137997_838197.jpg



a0137997_8383413.jpg



3・供応食と食材の準備

幕府は、沿道の各藩に対し通信使を手厚く接待するよう通達しました。官位によって献立の基準を示し、信使と上々官に対しては儀式用の『七五三の膳』と食べるための『引き替え膳』を出すように指示しています。

写真は『引き替え膳』です。食材は、山海の珍味を集め、華やかに飾って出しました。特に珍しい食材では、いりこ(ナマコの乾物)、キジ、ウズラ、ウス(鯨の心臓)、コササイコクシ(菓子の膳のサザエを串にさしたもの。小栄螺小串)、博多そうめんなどで、食器やさかずきなどは全て新調し、金銀を塗っています。

一行に提供する食材は、米・酒・味噌・醤油・酢など1人1日に渡す量が指示されていました。魚・肉(豚・猪)・鶏・鳥(キジ・五位サギ)・山菜・野菜・果物・菓子など種類も量も多く、食器や器などは1年前から準備しました。夏に来日したときは、料理に使う「生魚」の集め方や鮮度保持に大変苦労したようです。往復時に相島で使った食料費の総費用は、第7次来日記録を現在の人件費で試算してみると約8億6800万円と膨大な額になっています。

a0137997_840094.jpg



4・航海と通信

通信使は正使船・従事船とそれぞれの供船6隻を中心に、将軍に献上する馬や鷹を積んだ5隻の献上船や長老船・荷物船で、合計13席で来島しました。これらの船に福岡藩の迎守船団がそれぞれえい航船団としてつけられました。

通信使の連絡には、烽火(のろし)を使いました。福岡藩では、各地の島に火立て所を設けました。通信使一行の船影が見えたら、小呂島―姫島―玄海島―藍島(相島)-残島(能古島)-荒戸山(現在西公園)と、次々に烽火を掲げ藍島と福岡城に知らせるようにしました。藍島では2カ所に烽火台が設けられ、草や生の松葉をくすぶらせ、煙によって島々と連絡を取り合いました。

a0137997_8405611.jpg



烽火(のろし)図

a0137997_8415577.jpg



5・通信使関係の史跡

通信使を迎える準備として、福岡藩では天和2年(1682年)3月4日波止場の構築に取りかかり、島民が述べ3850人の約2ケ月間で先波止と前波止2つの波止場を造りました。前波止は現在町営渡船「しんぐう」の船着き場で、対馬藩主や随行者が上陸しました。先波止からは通信使一行が上陸しました。

a0137997_84645.jpg



a0137997_8461942.jpg



享保4年(1719年)7月24日、第9次通信使が来日の折、その準備をしていた相島に台風が来襲しました。そのため多くの被害を出し、迎護船40隻余が破損し、藩士12名、浦水夫49名が亡くなりました。

墓碑拓本は平成7年の相島積石塚群調査時に発見され、刻まれている内容がその時のものだということが確認されました。

a0137997_843688.jpg



相島は、深い山や大きな川もなく、用水の確保も大変でした。水が不足しないように以前からあった4つの井戸のほかに、用水のため丸井戸6ケ所と、角井戸6ヶ所を掘りました。現在は2ケ所残っています。


a0137997_8433260.jpg



a0137997_844888.jpg



a0137997_8445759.jpg



続きます。





みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-30 08:26 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島の積石塚群3・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群3

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

120号墳

a0137997_16191016.jpg



a0137997_1620929.jpg



a0137997_16203617.jpg



a0137997_16205772.jpg



a0137997_16214015.jpg



a0137997_16221638.jpg



北群1号墳(最北)

一部、墳丘面が崩れているところがあるが、方墳として捉えている古墳である。1辺が約8mを測る。斜面に築造してあるため墳高は約2~3mを測る。天井石は無くなっており、主体部いっぱいに石が崩落していた。

主体部は横穴式石室である。長軸約2m、短軸約1.5mを測る。そして、長さ1.3m程度、巾0.7m程度の羨道(羨道)部を持つ。

玄室は、羨道部から見て左側が直線に、右側が胴張り気味というように左右の壁面の造りに違いがみられるおもしろい造りをしている。

出土遺物は、落石により破片となっている鉄剣?片、鉄鏃(やじり)片、刀子(とうし)片、金銅製の耳環(みみわ)が3個、水晶製の切子玉が1個、須恵器が数個体、それに人骨片である。

a0137997_1634494.jpg



a0137997_16232633.jpg



a0137997_16242243.jpga0137997_1624396.jpg


a0137997_16252680.jpg



a0137997_1626840.jpg



a0137997_16263019.jpg



a0137997_16264622.jpg



a0137997_16492353.jpga0137997_16493966.jpg


a0137997_16502243.jpg



a0137997_16503838.jpg



北群のその他墳

a0137997_16512961.jpg



a0137997_16515953.jpg



a0137997_16521643.jpg



a0137997_16523880.jpg



a0137997_16531382.jpg



a0137997_16533053.jpg



a0137997_16525687.jpg



a0137997_16535613.jpg



南群と朝鮮通信使関連墓地

a0137997_16542948.jpg



a0137997_165508.jpg



a0137997_16565271.jpg



a0137997_1657795.jpg



a0137997_16572157.jpg



a0137997_16573858.jpg



a0137997_16575554.jpg



a0137997_16581053.jpg



a0137997_16583113.jpg



鼻栗瀬(めがね岩)

島の東300mの海上にそそり立ち、全体が玄武岩でできています。

鷹さ20m、周囲100mで海食洞があり絶好の釣り場となっています。


a0137997_1751830.jpg



続きます。





みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-29 17:06 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島の積石塚群2・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群2

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

ガイドの山口さんの相島古名説明

a0137997_17134517.jpg



a0137997_17142182.jpg



a0137997_1715851.jpg



1・玄海灘に浮かぶ島の古名

小六島についての拙稿を九州古代史の会で発表させていただいています。

9吉備児島=相島

理由①相島の古名が阿閇島。古事記が奏上されたときの元明天皇の諱が阿閇皇女。さらに、その娘が吉備皇女。つまり、吉備児である。

理由②元明天皇の勅命によって建てられた九州一の大伽藍であった脊振山霊仙寺の現存する乙護摩法堂は、その主軸を相島に向けている。つまりお参りすると相島方向となる。

10小豆島=玄界島

理由①玄界島の古名は、月海島。これを逆にすると、海月⇒あまつき⇒あづき

理由②玄界島に残る伝説、百合若伝説の百合若の妻が春日姫。小豆島の古事記に記載される又の名が大野出姫。福岡の春日市と大野城市は、隣接しお互いに入り組んでいる。大正時代までは、春日村と大野村であった。春日姫=大野村出身の姫であろう。

11大島=宗像大島

理由 古事記での大島の又の名は大多麻流和気=大霊流別。宗像三女神は、天照と素戔嗚の誓約によって、生まれたのであるから「大霊が別けられた」の表現にぴったり。

12女島=糸島姫島

理由①大分姫島には古事記の国生み神話とつながる伝承はないが、糸島姫島には、山幸彦の妻である
豊玉姫の誕生伝説がある。昭和天皇即位時の祭祀に使った主基田(福岡市早良区脇山)の祭殿は、姫島に向けて祭祀を行った形跡がある。

理由②姫島神社の相殿、生島神社の祭神は「天一根」であり、これは古事記表記の女島のまたの名と一致する。

13知訶島=志賀島

理由①志賀島を古来からチカノシマと呼んだ形跡あり。神功皇后伝説、博多古図などより。

理由②志賀島には君が代の意味が解る神事が行われている。「詞」を「知」る島である。古来安曇族の本拠地であり、白村江の戦い前は朝廷に絶大な影響力を持っていた。

14両児島=糸島二見が浦

理由①古事記表記では「両児島、又の名を天両屋」となっている。この二つの名をあわせると天児屋根命となる。天児屋根命を祭るのは春日神社、福岡春日市の春日神社の参拝方位は、糸島二見が浦を向く。

理由②糸島二見が浦は、伊勢二見が浦の伝承の元である可能性が高い。
 その1 夫婦岩の向こうから天孫降臨⇒糸島の方が適切
 その2 岩の向こうに沈む宝が眠る興玉神石⇒宗像沖ノ島のことか(糸島海岸からは水平線の下で見えない)
 その3 神の使いがなぜかカエル⇒夏至の夕日が沈む(かえる)のは糸島二見が浦。

2・宮地嶽古墳(宮地嶽神社)の羨道(参道)から一直線上に相島の積石塚120号がある。

a0137997_17193937.jpg



a0137997_1721251.jpg



a0137997_17211960.jpg



a0137997_17213888.jpg



続きます。






みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-29 08:59 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島の積石塚群1・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群1

1・西谷正講演会

内容 相島積石塚群について


a0137997_15173950.jpg



講師 海の道むなかた館長 西谷正氏

a0137997_15214885.jpga0137997_1522593.jpg


とき 平成29年8月12日(土)午後2時~

場所 大川市酒見  風浪宮

新宮町相島

a0137997_15235957.jpg



a0137997_15251869.jpg



a0137997_1529139.jpg



a0137997_1529232.jpg



a0137997_15294394.jpg



a0137997_1530636.jpg



a0137997_15302533.jpg



a0137997_15304356.jpg



2・相島研修

平成29年8月26日 天気:晴れ

大川歴史会37名

渡船  11時30分(新宮港発)→11時50分(相島港着)

案内者  今村さん、山口さん他約4名


a0137997_15382154.jpg



a0137997_164517.jpg



a0137997_1539215.jpg



a0137997_15402283.jpg



a0137997_15404336.jpg



a0137997_15415820.jpg



a0137997_15421468.jpg



a0137997_1543372.jpg



a0137997_15443896.jpg



続きます。







みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-28 16:56 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017いわいの郷(八女市岩戸山歴史文化交流館)見学・千寿の楽しい歴史
いわいの郷(八女市岩戸山歴史文化交流館)見学

平成29年8月26日  天気:雨

大川歴史会37名

大豪族「筑紫君磐井」

北部九州最大の前方後円墳である「岩戸山古墳」。

今から約1500年前、この巨大な古墳を築いたのは八女を拠点とし活躍した古代九州の大豪族「筑紫君磐井」でした。

『古事記』や『日本書紀』にはヤマト王権に背き、九州の豪族とともに「磐井の乱」を率いた反乱者として記されていますが、はたしてこれが真実の姿だったのでしょうか?

a0137997_10272891.jpg



磐井、海を駆ける

磐井をはじめ北部九州の豪族たちは、弥生時代から海を制し、大陸の中国や朝鮮半島と交流を持っていました。特に、鉄を生産し豊かだった伽耶諸国や、高度な文化を誇る中国との交流は意義深いものでした。ヤマト王権に比べ有利な地の利を活かしたものです。

もう一つのポイントは船師。船を造る「造船技術」と、船を操る「航海技術」は高度な先進技術でした。それらを手に、目の前の有明海から大海に出て行ったのです。

a0137997_1041693.jpg



「磐井の乱」

527年に始まり、翌528年ヤマト王権により鎮圧された日本古代史上最大の内乱と言われています。

朝鮮半島の西南部の国「百済」を助けるため、やまと王権が大きな軍事的負担を強要した事に強い不満をもった九州の諸豪族が「筑紫君磐井」を盟主として結集し、起した反乱であると伝えられています。

a0137997_1050402.jpg



磐井敗れし後は・・・

戦いに敗れた磐井は、『古事記』や『日本書紀』には切り殺されたと記述されています。しかし、これら記紀は戦いの勝者であるヤマト側の立場を重視して書かれたものです。

これに対し『筑後国風土記』(逸文)には、磐井は豊前の国上膳の県(かみつみけのあがた:現在の豊前市周辺)に逃れたと記述されています。豊前市周辺には当時新羅からの帰化人が居住していたとも言われており、信ぴょう性が高い内容が一部含まれています。

a0137997_10511079.jpg



主を守る「石人・石馬」展示

a0137997_112221.jpg
a0137997_1124252.jpg



a0137997_114501.jpga0137997_115943.jpg


a0137997_1155760.jpga0137997_1161249.jpg


a0137997_1171178.jpga0137997_1172584.jpg


a0137997_1182923.jpga0137997_1184552.jpg


a0137997_119197.jpg



a0137997_1110256.jpga0137997_11101967.jpg


男根をもつ石人

a0137997_11114068.jpg



アクセス

〒834-0006 福岡県八女市吉田1562-1

TEL  0943-24-3200


a0137997_11123549.jpg



続きます。





みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-27 11:17 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017小野英輔(オノ・ヨーコ父)・千寿の楽しい歴史
小野英輔(オノ・ヨーコ父)

テレビ放送から


a0137997_10432119.jpg



a0137997_1044018.jpg



a0137997_10444674.jpg



a0137997_1045546.jpg



a0137997_10452620.jpg



a0137997_10454625.jpg



a0137997_1046863.jpg



a0137997_1046285.jpg



a0137997_10464962.jpg



a0137997_1047930.jpg



a0137997_10472624.jpg



a0137997_1047468.jpg



a0137997_1048499.jpg



a0137997_10482351.jpg



a0137997_1048434.jpg



a0137997_1049558.jpg



a0137997_10492380.jpg



a0137997_10493887.jpg



a0137997_10495889.jpg



a0137997_10501760.jpg



a0137997_10503529.jpg



a0137997_1051655.jpg



a0137997_10512372.jpg



有難うございました。






みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-25 10:52 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2017小野英二郎(オノ・ヨーコ祖父)実業家として・千寿の楽しい歴史
小野英二郎(オノ・ヨーコ祖父)実業家として

柳川藩立花家中列伝 原達郎著 P106~P111

同志社大学理財学教授

妻となる税所鶴と知り合う。

明治22(1889)年に帰国し、柳川の橘陰学院(県立伝習館高校の前身)の教頭を務めたが、明治23(1890)年2月、明治期の日本の産業革命に関する博士論文「日本における産業の変遷」によって、ミシガン大学から博士号を授与された。日本人で初めてのことで、アメリカで出版され、同年11月、恩師新島襄の遺志により理財学教授として同志社に迎えられ、教鞭をとることになる。

明治25(1892)年、同志社に同志社政法学校が開設され、英二郎は同校の創立事務を担当し、翌年、教授兼教頭となるものの、経済不況やキリスト教的風潮などの影響を受けて生徒が集まらず、経営は困難を極めた。明治28(1895)年、英二郎は慶応義塾大学理財科の最初の銀行論貨幣論担当者となり、明治33(1900)年まで務めている。



a0137997_16595791.jpg



a0137997_1702859.jpg



a0137997_1705180.jpg



a0137997_171532.jpg



a0137997_1712411.jpg



a0137997_1714365.jpg



a0137997_172095.jpg



a0137997_1722346.jpg



日本銀行入行する。

明治29(1896)年、恩師のアダムスと共著で『公債論』を刊行する。これは2年前の日清戦争勃発にあたり、明治政府は緊急勅令で軍事公債を募集したしていたことから、当時の国際情勢からみて、日本は陸海軍を増強しなければ国家を保つことができないと指摘し、そのため財政確保の方法を説いたものであった。

このような英二郎の活動が川田小一郎日本銀行総裁の認めるところとなり、日銀入りを勧められ、明治29(1896)年6月、同志社を辞職して日本銀行へ入行。大阪支店副支配人となり、本店検査局長を経て明治39(1906)年11月からロンドン代理店監査役を務め、明治44(1911)年に帰国して本店営業局長に就任する。大正2(1913)年、日銀の組織変更に伴って日本興業銀行へ移り、副総裁を務めることになる。

大正3(1914)年に勃発した第1次世界大戦による好景気の波は、紡績、鉱業、電気、鉄道などの大工業への投資を活発化させた。しかし、大戦終結後の大正9(1920)年にはバブルが崩壊して株式恐慌となり、日本経済は金融難に陥った。

大正11(1922)年に著した「支那視察談」には、「日本は東洋の諸国に向かって、日本から文化を興して行く丈の気概を持たなくてはならぬ。さなくしては到底私は日本の国威を高め世界の尊敬を受くるところの国民には成り兼ねると思います」と述べ、日本人が世界において文明指導の役を果たすためには、中国へも貢献し、中国人と調和して共存共栄してゆく必要性を力説している。

a0137997_1724262.jpg



a0137997_1725939.jpg



a0137997_1731584.jpg



a0137997_1733041.jpg


 
a0137997_178938.jpg



a0137997_1782724.jpg



a0137997_1784633.jpg



a0137997_1785955.jpg



a0137997_1791663.jpg



第4代日本興業銀行総裁就任

大正12(1923)年、英二郎は第4代日本興業銀行総裁に就任。この年の9月1日に起きた関東大震災は死者9万余、行方不明4万余を出す大惨事となり、国民総生産の3分の1という被害をもたらし、経済界は大打撃を受けた。

この未曾有の国難に立ち向かった英二郎は、その復興のため中小企業向け融資に尽力。昭和2(1927)年に始まった金融恐慌対策に挺身するなか、日仏銀行副総裁、共立鉱業社長、昭和銀行創立委員などを兼務するなど、欧米経済通としても活躍。金融界の重鎮として重責をになった。

同年6月、高橋是清大蔵大臣が恐慌への対策を終えたとして辞職。三土忠造新大臣と交代したときの歓送迎会には、東京銀行倶楽部の会員約280名が出席したが、この会の委員長を務めたのが英二郎である。このときの写真が高橋是清直筆の署名入りで、小野家に伝えられている。

a0137997_1794769.jpg



a0137997_1710867.jpg



a0137997_17102423.jpg



a0137997_17104037.jpg



a0137997_17105448.jpg



三男の英輔は父の後を継ぐ。

a0137997_1713747.jpg



a0137997_17132433.jpg



a0137997_17134041.jpg



a0137997_171359100.jpg



昭和2(1927)年11月26日、63歳で逝去する。

a0137997_17142479.jpg



これらの激務が原因となったのだろうか。昭和2(1927)年11月16日、英二郎は鉱銀で執務中に倒れ、26日に逝去する。周囲から日銀総裁就任を期待された英二郎、志半ばの63歳であった。

東京の多摩霊園にある英二郎の墓の横に建つ顕彰碑には、次の文が刻まれている。

故日本興業銀行総裁小野英二郎君ハ柳河藩士小野作十郎君ノ長男元治元年六月廿三日筑後柳河ニに生ル明治十三年京都同志社ニ遊学シ後米国ニ赴キオヘリン及ミシガン両大学ニ経済財政ノ学ヲ専攻スルコト六年明治廿四年恩師新島先生ノ知遇ニ感ジテ同志社ノ教職ニ就ク明治廿九年川田日本銀行総裁ノ聘ニ応ジ日本銀行ニ入リ大阪支店長代理検査局長営業局長等ニ累進セリ又日露戦争後ヨリ六ケ年間代理店監査役トシテ紐育及ロンドンニ在勤ス大正二年日本興業銀行副総裁ニ任セラレ大正十二年総裁ニ陞任ス在職五年ニ満タントシテ突如疾ヲ獲テ遂ニ永眠ス実ニ昭和二年十一月廿六日享年六十有四従五位勲三等ニ追叙セラル総裁身ヲ財界ニ置コト三十年其学識ト経験ニ加ルニ精励篤誠ナル人格ヲ持テス隠然財界ノ重鎮タリ君温恭自ラ持ス然モ事ニ臨ミテハ奪フ可ラサルノ節アリ本行ノ要職就テ以後欧州大戦関東大震災並ニ昭和二年ニ勃発セル金融界ノ動揺等其界ノ波瀾ニ際会シテ国家ニ貢献スル所多大而シテ本行ノ業礎ヲ安定シ重キワ加ヘシタリ其経営ニ當リテハ常ニ全力ヲ傾注シ職務ヲ以ツテ快楽ト為スモノヽ如シ殊ニ最終数月ノ間励精奔走往々寝食ヲ忘レ遂ニ執務中総裁室ニ於テ発病起クサルニ至ル鳴呼悲天日本興業銀行全員ハ恩ヲ受クルコト多年追慕ノ情久フシテ念殷ナリ茲ニ一周忌辰ニ値リ相謀リテ此碑ヲ建テ以テ記念ト為ス   昭和三年十一月二十六日

この小野英二郎家からは多くの人材を輩出している。その詳細は『オノ・ヨーコの華麗な一族』を参照いただきたいが、今日、世界で一番有名な日本人といわれるオノ・ヨーコさんは、英二郎の3男である英輔(東京銀行常務)の長女である。

さらには長男・俊一の妻が日本バイオリン界の礎となった小野アンナで、3男の康平は足利赤十字病院創設院長。4女寿満子の夫が国際連合初代日本大使の加瀬俊一、その長男が外交評論家の加瀬英明である。

また英二郎の姉の宮川千代の次男・武はブリヂストン創業者である石橋正二郎の妹・直子と結婚してブリヂストン常務を務めている。

柳川に残る小野英二郎屋敷跡を「柳川ふるさと塾」が整備して、6年間の保存活用運動の結果、柳川市が購入。小野家やオノ・ヨーコ、ジョン・レノン夫妻を記念した公園として、海外からの観光客にも歓ばれるものになってほしいものである。


続きます。



みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-24 16:57 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2017小野英二郎(オノ・ヨーコ祖父)米国から帰国まで・千寿の楽しい歴史
小野英二郎(オノ・ヨーコ祖父)米国から帰国まで

柳川藩立花家中列伝 原達郎著 P106~P111

藩主立花家から家臣たちが屋敷を拝領し、集中して住んだ城内地区は「御家中」と呼ばれ、その中に20家の小野家が認められる。

各小野家は祖先を同一にするものと考えられ、宗家は柳川藩筆頭家老の小野和泉守家だが、新外町にあるのが100石の小野英二郎((第4代日本興業銀行総裁)家である。

英二郎の祖父平三郎は奥頭分で会計方の大阪外聞役兼御試番、父の作十郎は藩御能方などを務めて400坪の屋敷を拝領していた。

小野英二郎は元治元(1864)年に誕生し、明治維新の時は4歳であった。やがて藩校の後身である中学伝習館から同志社英学校(現在の同志社大学)2年に転学。創始者である新島襄から洗礼を受けて、5年生のとき中退して内村鑑三と同船で渡米する。

オハイオ州のオベリン大学文学科に入学した英二郎は、卒業後の明治20(1887)年にミシガン大学大学院へと進み、著名な財政学者であるHC・アダムスに師事して、経済学、財政学を修めた。

父の作十郎


a0137997_19303732.jpg



a0137997_19315446.jpg



a0137997_1932167.jpg



a0137997_1932366.jpg



a0137997_1933084.jpg



a0137997_1933387.jpg



小野家の明治3年頃の石高

a0137997_19362779.jpg



a0137997_19372626.jpg



a0137997_19374485.jpg



a0137997_1938236.jpg



a0137997_19382484.jpg



英二郎(米国から帰国まで)

a0137997_1940351.jpg



a0137997_1945746.jpg



a0137997_19453558.jpg



a0137997_19455353.jpg



a0137997_1946874.jpg



a0137997_19462614.jpg



a0137997_19464436.jpg



a0137997_194705.jpg



a0137997_19471568.jpg



a0137997_19474288.jpg



a0137997_19475933.jpg



a0137997_19481820.jpg



a0137997_19483151.jpg



a0137997_19485196.jpg



a0137997_19491082.jpg



a0137997_19493368.jpg



a0137997_19495144.jpg



a0137997_19501552.jpg



a0137997_1950311.jpg



a0137997_19504871.jpg



a0137997_19511071.jpg



a0137997_1951263.jpg



続きます。




みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-23 19:40 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2017オノ・ヨーコの生き方(テレビ)・千寿の楽しい歴史
オノ・ヨーコの生き方

テレビ ファミリーヒストリー

平成29年8月18日放送

オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本・東京出身のアメリカで活動する芸術家、音楽家。

ビートルズのメンバーであり夫であるジョン・レノンと共に平和活動を行ったことや音楽面でも創作活動を行い共作を行ったことが知られている。ジョンの暗殺後も自らの音楽作品を発表し続けている。また著名な前衛芸術家の1人として、多くの前衛作品やパフォーマンスを世に送り出した。息子にミュージシャンのショーン・レノンがいる。

1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。

レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。

a0137997_1493262.jpg



a0137997_149588.jpg



a0137997_14102194.jpg



a0137997_14104184.jpg



芸術


a0137997_14123360.jpg



a0137997_14133180.jpg



a0137997_14192285.jpg



a0137997_1419599.jpg



a0137997_14204247.jpg



a0137997_142157.jpg



a0137997_14212233.jpg



a0137997_1421513.jpg



a0137997_14221615.jpg



a0137997_1422406.jpg



a0137997_14225575.jpg



a0137997_14231483.jpg



a0137997_14233826.jpg



a0137997_14235855.jpg



a0137997_14241492.jpg



a0137997_14243315.jpg



a0137997_14245270.jpg



a0137997_1425893.jpg



a0137997_14252550.jpg



a0137997_14254012.jpg



a0137997_14282133.jpg



a0137997_14284775.jpg



a0137997_142935.jpg



a0137997_14292069.jpg



a0137997_14294151.jpg



a0137997_14295570.jpg



a0137997_14301633.jpg



a0137997_14304815.jpg



a0137997_1431755.jpg



a0137997_14313069.jpg



a0137997_1431493.jpg



a0137997_1432948.jpg



a0137997_14335167.jpg



続きます。




みやまいいまち会  http://blog.goo.ne.jp/8350018    

クリックして見て下さい。


梅野家歴史資料館  みやま市瀬高町大草女山932

みやま市観光協会公式WEB3,51);">梅野家庭園  4月  5月  新緑  6月  11月 梅野家の紅葉   季節を楽しんで下さい。

梅野家歴史2(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史   白蓮さんの写真が載っています。

青輝園   御座敷梅ユリ展

私の目標   皆さんに感謝します。


by kusennjyu | 2017-08-22 14:14 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る