千寿の楽しい歴史
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2017小野英二郎(オノ・ヨーコ祖父)米国から帰国まで・千寿の楽しい歴史
小野英二郎(オノ・ヨーコ祖父)米国から帰国まで

柳川藩立花家中列伝 原達郎著 P106~P111

藩主立花家から家臣たちが屋敷を拝領し、集中して住んだ城内地区は「御家中」と呼ばれ、その中に20家の小野家が認められる。

各小野家は祖先を同一にするものと考えられ、宗家は柳川藩筆頭家老の小野和泉守家だが、新外町にあるのが100石の小野英二郎((第4代日本興業銀行総裁)家である。

英二郎の祖父平三郎は奥頭分で会計方の大阪外聞役兼御試番、父の作十郎は藩御能方などを務めて400坪の屋敷を拝領していた。

小野英二郎は元治元(1864)年に誕生し、明治維新の時は4歳であった。やがて藩校の後身である中学伝習館から同志社英学校(現在の同志社大学)2年に転学。創始者である新島襄から洗礼を受けて、5年生のとき中退して内村鑑三と同船で渡米する。

オハイオ州のオベリン大学文学科に入学した英二郎は、卒業後の明治20(1887)年にミシガン大学大学院へと進み、著名な財政学者であるHC・アダムスに師事して、経済学、財政学を修めた。

父の作十郎


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小野家の明治3年頃の石高

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英二郎(米国から帰国まで)

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続きます。




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by kusennjyu | 2017-08-23 19:40 | 柳川・大牟田・大川の歴史散策 | Comments(0) |Topに戻る
2017オノ・ヨーコの生き方(テレビ)・千寿の楽しい歴史
オノ・ヨーコの生き方

テレビ ファミリーヒストリー

平成29年8月18日放送

オノ・ヨーコ(Yoko Ono, 本名:ヨーコ・オノ・レノン、Yoko Ono Lennon, 日本名:小野 洋子、1933年2月18日 - )は日本・東京出身のアメリカで活動する芸術家、音楽家。

ビートルズのメンバーであり夫であるジョン・レノンと共に平和活動を行ったことや音楽面でも創作活動を行い共作を行ったことが知られている。ジョンの暗殺後も自らの音楽作品を発表し続けている。また著名な前衛芸術家の1人として、多くの前衛作品やパフォーマンスを世に送り出した。息子にミュージシャンのショーン・レノンがいる。

1959年から、ニューヨークを拠点に、前衛芸術家として活動を開始。1966年、活動の拠点をイギリス、ロンドンに移す。同年11月に個展を開催、その会場でジョン・レノンと出会い、1969年結婚。1960年代後半から1970年代にかけて、レノンとともに数々の創作活動や平和運動を行なう。

レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、世界各地で個展を行なうほか、ダンス/クラブ・プレイの分野ではビルボード・チャート1位に12曲を送り込み、この分野で最も活躍しているアーティストの1人である。1981年グラミー賞にてアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞、2009年6月、現代美術の世界的祭典、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレで、生涯業績部門の金獅子賞を受賞した。ニューヨーク在住。

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芸術


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by kusennjyu | 2017-08-22 14:14 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017タイの民芸布展(旧大内邸)・千寿の楽しい歴史
風の道タイの民芸布展

平成29年8月19日(土)~27日(日)

八女市立花町白木 旧大内邸

大内家の歴史


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風の道 タイの民芸布展

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販売 日々の暮らしに活きる布

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by kusennjyu | 2017-08-21 21:39 | 出来事・生活 | Comments(0) |Topに戻る
2017田尻区民の集い・千寿の楽しい歴史
田尻区民の集い

平成29年8月19日(土)午後5時から

消火訓練

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日本舞踊(幸若流)

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ひょっとこ踊り(ひょっとこ愛好会)

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炭坑節と総おどり「ソレソレみやま」

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お楽しみ福引  

私はブドウ1箱(4房)が当たる。有難うございました。

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お疲れ様でした。





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by kusennjyu | 2017-08-20 16:54 | みやま市の今 | Comments(0) |Topに戻る
2017「お酢」活用術・千寿の楽しい歴史
「お酢」活用術

最古の調味料「お酢」の歴史を辿る

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お酢を上手に活用しよう。

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夏にうしい黒酢の健康パワー。


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夏に負けない体をつくる。





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by kusennjyu | 2017-08-18 09:34 | 健康食品つくり | Comments(0) |Topに戻る
2017京都五山送り火(テレビより)・千寿の楽しい歴史
京都五山送り火(テレビより)

平成29年8月16日午後8時より順次点火

天気 晴れ

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大文字

(如意ケ嶽)約400m(五山中一番高い山)

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妙法(日蓮宗)

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船形

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左大文字

大文字の半分の大きさ。

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鳥居形

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明治初期のもの

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昭和16年 竹に鈴

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有難うございました。





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by kusennjyu | 2017-08-17 11:50 | 旅行記 | Comments(0) |Topに戻る
2017大牟田の中に荒尾飛び地・千寿の楽しい歴史
大牟田の中に荒尾飛び地

「大牟田どがしこでん」より

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荒尾市民40人が暮らす

大牟田市内に3カ所の荒尾市があるのをご存じでしょうか。周りの家や土地がみんな大牟田なのに、そこだけ荒尾!・・・これを荒尾の『飛び地』といいます。

今回は、小規模ながらおよそ400年も延々と続いてきたこの「飛び地」の話です。

飛び地そのものは全国にいくつもあります。中には村全体が他県の飛び地だったり、飛び地の中に飛び地があったり、小さな飛び地がびっしり集まっていたりと様々、でも「県境をまたいだ飛び地は日本全国に幾つかあるものの、とりわけ市街地にあり気軽に訪れることができる飛び地は、中国地方以西の西日本ではここ(大牟田・荒尾)しか無い」と、飛び地マニアは語っています。

税金は荒尾に、サービスは大牟田から

荒尾市役所によると、大牟田市内にある荒尾市の飛び地は3カ所。面積は合計およそ1万6千平方メートルあまり。40人が住んでいます(2012年の国勢調査)。

さてそんな飛び地に住む人は、れっきとした荒尾市民。しかしちょっと変です。

飛び地に住む人は住民税や固定資産税は荒尾市に払っています。選挙も荒尾市や熊本県。行政から届くのは「広報あらお」や荒尾・熊本の選挙公報。

ところが水道は大牟田市水道局から、し尿、ごみも大牟田市からと多くの行政サービスは大牟田市から受けているのです。小中学校は本来荒尾市内の学校に通うことになっていますが、希望届を出せば大牟田の学校に通うことができます。

緊急通報したら、どっちが出動?

固定電話の市外局番は「0944」で大牟田と同じ。119番通報すれば救急車や消防車は大牟田市消防本部から出動。110番は福岡県警に通じ、熊本県警を経て荒尾署警察官が駆け付けます。郵便物は荒尾郵便局からの配達です。

ま、ややこしい限りです。でも当の飛び地の住民は、大きな不便を感じている気配はありません。

大牟田市藤田町に囲まれた荒尾の飛び地(荒尾市本井手)に住むMJさんは言います。

「荒尾は、選挙と税金だけですたいなぁ。あとは水道も、くみ取りも、ごみ袋も、全部大牟田」。「私しゃ荒尾の原万田生まれですから、そこん親戚とかに電話するときゃ市外局番ば回さんといかんですたい。おんなじ荒尾ばってんね」。

娘さんが小学生の頃に予防注射を受けるとき、荒尾市役所まで承諾書をもらいにいく必要があったなど、多少面倒なことはあったものの、「別に困ることは、なーんなかですよ。だけん、こんままでよか」と言います。

大牟田市船津町内にある飛び地(荒尾市上井手)に自宅が建つ家の主婦。

「玄関先の駐車場から向こうが大牟田市ですから、家の住所も大牟田市にしました。固定資産税?はい、面積に応じて荒尾と大牟田に払っとります。以前はそれぞれ払いに行っていました。今は通帳からの引き落としだから、不便はないですね」

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児童と涙の別れ

明治のこと、駛馬村役場に勤めていた人の話が残っています。村内に荒尾の飛び地があったことから、荒尾の子どもが沢山駛馬南小学校に通っていました。その人は、ある日、村議会に呼ばれてこのことでひどく叱られました。

翌朝からその人は、荒尾から来る児童を捕まえるため、県境での張り込みを始めたのです。税金は荒尾に納め、学校教育は駛馬村でというのは、村の経済が許さなかったのです。

児童は捕まえようとすれば逃げ出し、捕まえたら泣きだすで、その人もほとほと弱ったようです。しかしとうとう50数名の児童が荒尾に転校することになりました。教え子と別れることになった学校の先生は、みな涙を流したそうです。捕まえる役となった役場の人も、その後、児童の通学風景を見るたびにつらくなったといいます。

飛び地をかかえる地域だからこそ、胸が痛む出来事があったのです。

起源は戦国の世か?

ではどうして“ややこしい”飛び地ができたのか。

大牟田市史や郷土史料によると、荒尾の飛び地に関する記述が文献に出てくるのは江戸時代初期の寛文13(1673)年6月付けの三池藩家老と細川藩役人の間で交わされた覚書が最初だそうです。

内容を現代文に直せば、おおよそ次の通りです。

「(三池藩領)藤田村は(細川藩領)井手村深瀬堰からの取水の代償として、前々からの堰料一町、溝料五反の替地を継続するが、堰は井手村に属していること。併せて井手村は藤田村への用水に支障を起こさないことを両村で取り決めをかわす・・・・」。

つまり三池藩内の水田に諏訪川の水を供給するため、細川藩内に堰と水路をもうけ、その代償として三池藩内の土地を細川藩に提供するという交換契約。

今から344年前の覚書ですが、「前々からの」とあるわけですから、起源はさらに遡るのは確かです。「戦国時代から」とか「安土桃山時代から」とする郷土史家もいます。そうなると400年もの歴史を持つことになります。

弘化3(1846)年10月にもほぼ同内容の取り決め文を交わしています。何度も争いが起こったのでしょう。その度にこのような取り決めを幾度も重ね、明治を迎えます。

そもそも明治以前の日本は米本位の経済。各藩のいわば国家予算も、三池藩一万石などと米で換算します。その米作の基本をなす灌漑用水は、藩にとっては最重要事項。農家にとっては文字通り命そのものだったのです。

つまり貴重な水をめぐる幾度もの争いを解決してきた先人の知恵と努力の跡こそが、大牟田にある荒尾の飛び地なのです。

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終止符を打ったのは三池炭鉱

堰と溝はその後どうなったでしょう。問題の根本は諏訪川の水利問題なのですが、ここに三池炭鉱が関係してきます。

三井鉱山は炭鉱や工場の拡張・拡大と増加する社宅用の水の確保が必要となったため、明治40(1907)年、県の許可を得て諏訪川のから取水を始めました。ところが夏の間は藤田地区などの灌漑用水が不足します。そこで三井鉱山と水田耕作者が話し合いを持ち、三井鉱山が万田坑から汲み上げる地下水を水田用に提供すること、耕作者に補償金を支払うことで合意しました。

この合意により、昭和17(1942)年までに諏訪川の堰は取り除かれました。堰の水が通っていた溝の役割も終わったのです。代わりに万田坑から水田に送水するための溝が新たに作られました。

争いをやめ、譲り合い、支えあった証

水をめぐる長い長い歴史を物語るものとして、飛び地、そして堰からの溝、万田坑からの溝は、目立たないながらもひっそりと残っています。それは大牟田と荒尾の人々が、命の水をめぐり争うことを止めて協力しあい、譲りあい、支えあった証だと思います。

飛び地の問題について大牟田市と荒尾市は、特に現状を変える必要はないと考えています。住民からも飛び地の解消を求める要望はないようです。


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2010大牟田市に荒尾市の飛び地があること知っている?・千寿の楽しい歴史

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2017中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内2・千寿の楽しい歴史
中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内2 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P466~469より

みやま市教育委員会発行


大木城跡 瀬高町大広園

大木城跡については『筑後将士軍談』によると(文献10)、「蒲池鎮連の臣大木兵部少輔拠る」とあります。『旧柳川藩志』では、「大木に在城した大木主計頭」と称す。南北朝の頃落城す。降って資綱を大木の旧城に居らしむ。天正年間、蒲池氏滅ぶや城主大木兵部少輔開城肥前に赴き・・・」とあります(文献1)。『旧柳川藩志』の柳川偉人伝(六)には、城主は知長・政長・久輝・親光・資光・統光(政光、知光)と続きます(文献1)。大木兵部少輔がこの統光にあたります。
 さて、大木城のことですが、瀬高町北大木の八幡神社辺りにあって、宇都宮頼綱が治承(1180年頃)年代に、西下し大木に城を築いたといいます(文献1)。城は東西1町20間(160m)南北50間(90m)で、今も大木ノ内(本丸か)、陣畑やキンド(城戸)、寺屋敷(菩提寺跡か)の地名が残っています。城は粘土質が強くて深い薬研堀の濠の内濠を巡らし、両濠の土を高く盛り上げて造った土塁が取り巻いていたようです。防塁は幅13間(23m)、さらに本丸を囲んで濠が見られます。

堀切城跡 瀬高町河内

堀切城跡は、「田尻氏の臣福山藍物守る。鷹尾城の砦。」とあり(文献10)、天正6(1587)年ごろのことでしょう。また堀切城のことは、島津氏の北上にともなう一次資料である薩摩の武将の『上井覚兼日記』下(文献8)の天正13(1585)年9月6日条から9月19日条には「江之浦」・「堀切」の記載があり、江浦城とともに堀切城が当時は存在したことがわかります。また、『旧柳川藩志』の古城址の項には、「島津の将山田有信等筑後に出て掘切城を攻めて(大友氏の属将、平井)鎮経を破り、三池鎮実・蒲池鑑広を降す。其の後廃城たり。」との記述があります(文献1)。付近には、玉垂神社があります。

浜田城跡 瀬高町浜田

浜田城跡は、「田尻氏の臣田尻大蔵拠る。」とあり(文献10)、『旧柳川藩志』によれば、「東西10間5合、南北21間半地より高きこと1間半なり。・・・天正年中田尻氏の家臣田尻大蔵之が城番たり鷹尾の田尻氏滅びて廃城となり」と記述しています(文献1)。付近には浜田南の天満神社があり、すぐ西側には高まりが見られて浜田城の跡かと推定できます。

瀬高庄城 瀬高町上庄

瀬高庄城は、「太平記理尽抄・筑後志、黒木兵庫の臣守る」とあります(文献10)。また、『旧柳川藩志』によれば、「瀬高町大字上庄にあり。天正12(1584)年黒木兵庫頭の臣某之に拠ると。未だその所在を詳にせず。一に上の庄の西北に牛御前森あり。森中一碑石あり。是れ即ち此の城跡なりと。或は云ふこの森は古戦場なりと。其の創築廃頽は未だ詳かならず。」とし、上庄の牛御前森を城跡ないし古戦場にあてています(文献1)。しかし、確たる証はなく、瀬高庄城について詳細はわかりません。

竹井館跡 高田町竹飯

『筑後将士軍談』によると、高田町では、竹井村館跡ほか5か所の城館の記載があります(文献10)。竹井館跡は「牡丹長者屋敷跡(長者原)とあり」とあります(文献10)。伝承の域を出ず、実体がはっきりしません。しかし、現場に立つと、小高い丘陵に明らかに土塁などの遺構と思しきものがあることがわかります。近年には長者原遺跡の範囲確認調査にともなって、7・8世紀須恵器の杯蓋が数点出土しています(文献12)。西海道のルート上にある狩道駅の推定地でしょうか。その居館が中世まで豪族の館として存在していたのでしょう。また、次に述べる舞鶴城については「牡丹長者」との関連で捉えられることもあります。

飯江村城跡(舞鶴城) 高田町舞鶴

飯江村城跡については、『筑後将士軍談』では「花山院の時武智源太春倫拠る。後田尻氏」とあります(文献10)。また、『旧柳川藩志』に同様の記述がなされており、「降って天正年間田尻氏肥後(肥前か)軍を防ぐため之を築いて支堡とす。址は山川村飯江にあり。」としています(文献1)。『旧柳川藩志』には、舞鶴城址の記述があって、「飯江村にあり往昔牡丹長者の居城なり。孤立する山嶺の上にあり。」として、牡丹長者と関連性があることを述べています(文献1)。『筑後将士軍談』にも同様の記述があることから飯江城と同一のものかと推定できます。「後田尻伯耆守鑑種肥後(肥前か)軍の来襲を恐れ厳重なる砦を築造せりと云ふ。」とあります。

縄張りは主郭など四郭あって帯曲輪や堀切が残っていて、階段状遺構が東側に見られるといいます。白峯神社(琴平さん)が頂上付近にあります(文献7)。

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竹井城跡・竹井今城跡 高田町竹飯

竹井城跡は、「菊池の住人西原石見守天文15(1546)年に来住す」とあります(文献4)。これは『旧柳川藩志』の「竹井の今城址」の項の記述と同一のもので(文献1)、「肥後菊池の住人西原石見守武雄天文15(1546)年正月晦日筑後に来りて北の関竹井海津を押領し仝年(同年)今城を築く」と一致するものです。「萱津の城址」は別に項目があり、竹井萱津の城について述べています。

今福城跡 高田町今福

今福城跡については、「正治元(1199)年摂津守築く。三池氏の臣小山左衛門尉守る」とあり(文献10)、同様のことが『旧柳川藩志』にも記述があります(文献1)。『高田町の文化財』(文献4)の「今福城址」の項には鎌倉時代に三池南郷の地頭として三池氏が入部したのがはじまりで、北郷にある今福に居館を構えたのは疑問が残ることとしています。戦国時代には、三池氏の出城として、田尻氏と対峙した三池氏の臣小山山城守の記述が「田尻家文書」に見られます(文献8)。このことから、今福城は三池氏の北辺の備えで三池城の防衛線であったでしょう。いまでも今福公民館の裏山には、「城ノ山」や「城ノ下」などの字名が残って土塁なども見られるといわれ、城地跡には水天宮が祀られています。

田尻城跡 高田町田尻

田尻城跡は、『筑後将士軍談』では「田尻氏代々の居城、永禄中鷹尾城に移る」とあります(文献10)。『旧柳川藩志』によると、田尻飛塚城址の項には「当城水乏しく多衆を籠め難し。故に大友宗麟(義鑑の誤りか)の命を受け永禄年中田尻親種山門郡鷹尾城に移る。仍ってその臣田尻左京をして此の城番とす。田尻氏は原田の一族なり。」としています(文献1)。『田尻文書』では天文17(1548)年ごろ、田尻親種が大友義鑑から鷹尾に250町の知行を得て、鷹尾城を築き移ったといいます。森山八幡宮は城地の一角にあって「龍造寺文書」によると、田尻鑑種が龍造寺に差し出した起請文に「氏神森山大明神」とあり、田尻氏が崇敬していたことがわかります(文献4)。縄張りは主郭や帯曲輪が見られるということですが、後世の開墾などで明瞭ではないようです。なお、境内地の小字は「陣内」といわれています(文献7)。

江浦城跡 高田町江浦町

江浦城跡は、「永江勘解由・田尻了哲守る。天正15(1587)年高橋統増入城」と『筑後将士軍談』に記載があります(文献10)。『旧柳川藩志』によれば、「土豪永江氏代々の居城なり。天文19(1550)年田尻鑑種之に拠る。天正12(1584)年永江勘解由・田尻了哲二氏之に居る。鷹尾城の支堡たり。天正15(1587)年高橋統増三池郡を賜はり、之に居る。田中吉政の代其の臣田中河内守城番たり。田中氏滅びて城廃す。」とあります(文献1)。江浦城は、田尻親種が築いた山門郡鷹尾城を本城とした総構えの一つで、江浦・浜田・堀切・津留の四支城からなっています。類型としては平城タイプの範疇といえます(文献3)。田尻鑑種(城番田尻了哲)は龍造寺軍の攻囲のなか1年間籠城したことから堅固な要害であったようです(文献4)。その後、高橋統増(後の三池藩主立花直茂)が居城とし永江氏は家臣に編入され、田中吉政の代に田中主水正が城番を勤め、その後田中河内が入城し、元和年間には廃城となりました(文献6)。「慶長7(1602)年台所入之掟」では、吉政から櫓や門の普請が指図されたといいます(文献3)。今もなお、本丸や二ノ丸などの小字名が残っていることから、縄張りは「本丸」が現在水路で囲われた南北120m、東西160mの方形の曲輪で、水路は水堀の跡としています。今では、淀姫神社が城郭跡の一角にあります。

北関城跡 山川町北関

北関城跡は、『筑後将士軍談』によれば、所在地不明とされ(文献10)、『旧柳川藩志』北の関城址によれば、「山川村大字北の関にあり。今之を城山と称す。高さ50丈周廻り30丁、山脈孤立す。樹木茂生し登路一条あり。北の関字瀬戸の坂よりのぼれば3丁余にして山嶺に達す。天文13(1544)年小田山城守親元菊池義武に与し此の城を構へ大友氏に抗す。高橋鑑種(中略)城主小田氏以下一族郎党数10人奮戦して死す。城因って陥る。」とあります(文献1)。小田氏なる人物が北肥地域の国衆に連なるのかについてはまだ詳らkぁではありません。所在地不明というよりは城としての機能である堀切などが確認できていないのではないでしょうか。また、正式な調査は行われていません。

続きます。






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by kusennjyu | 2017-08-16 07:57 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内1・千寿の楽しい歴史
中世城館(ちゅうせいじょうかん)みやま市内1 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P465~471より

みやま市教育委員会発行


中世の城館は、中世城館としては南北朝内乱期以降に出現します。それ以前は館(タチ・ヤカタ)として存在します。)竹井城(竹井萱津城・溝口禅院城は中世の城郭です。

竹井城・竹井萱津城  高田町竹井

竹井城あるいは竹井萱津城は同じものと見られ、萱津は竹井と隣接する高田町海津のことでしょうか。竹井城合戦は康永2(1343)年に始終しています(文献1)。合戦に関例した軍忠状は15点ほどあって、それらによるとかなりの激戦であったといいます。竹井城に立て籠った武将は、中院侍従義定・菊池武茂・大城藤次(草野一族)らの南朝勢力です。ちなみに、竹井には「大手畠」「土井ノ内」など中世の城館に関連する小字がありますが、南北朝期の竹井城に由来するものなのか『南筑明覧』(文献4)に記載がある西原石見守武雄の居城跡と伝える戦国期の竹井今城にあたるものなのかは断定できません。

溝口禅院城 瀬高町広瀬

また、南北朝の溝口氏が籠る溝口禅院城は、竹井城合戦の開始直前に、焼き討ちで落城しています。溝口禅院城は、矢部川中流、城の左岸にある廣瀬禅院地区にあると推定できます。

室町から戦国期の筑後は、国人領主が割拠していましたが、城館は、みやま市域では田尻親種以前(鷹尾移住以前)の田尻城のみです。田尻城以外は、すべて国人(田尻氏・上下蒲池氏・溝口氏・三池氏)の支城で、城将や城番が配置されて支城化されています。

矢野一貞が幕末に著した『筑後将士軍談』(文献10)では、瀬高町内では、本郷村城跡を含めて10か所、高田町内では6か所の城館の記載があります。

本郷城跡 瀬高町本郷

本郷城跡は、「蒲池鑑広の臣壇大炊助守る」(文献10)とあり、また天正12(1584)年に山下城主蒲池家恒(鑑運)に本郷城を築かせたとあります(文献10)。壇大炊助は後の立花宗茂の時代(天正15(1587)~慶長5(1600)年)には、本郷城の城番であったと思われます。平成の初めごろまで、本郷集落の西側にある堀を隔ててさらに西側には江戸時代に大庄屋を勤めた壇氏の住宅があり、この辺りが本郷城跡かと想定できます。

吉岡城跡  瀬高町吉岡

吉岡城跡は、「蒲池鑑広の臣吉岡加賀守拠る」(文献10)とあり、現在でも周辺には吉岡川が流れていて、当時の堀割りと関係したものでしょうか。『旧柳川藩志』(文献1)によると、「瀬高町大字吉岡の中央にあり。境界判然たらず。今僅かに東西3間半、南北3間位の不毛の地を存す。天正12(1584)年吉岡加賀守・・・肥前軍を防ぐため之を守る」とあります。古文書や絵図はなく詳細は分かりません。ただ、吉岡集落の中心地域には通称「ヤブノウチ」や西方には「アン」という地域があります。「アン」という地域には長宝寺なるものが所在していたといわれています。

小田城跡 瀬高町小田

小田城跡は「明応・文亀の頃(1500年前後)溝口常陸守・同帯刀拠る」(文献10)とあって、伊藤彝足が編集した『太宰管内志』によれば、南朝方として延元元(1336)年には「溝口太郎入道」、正平14(1359)年には「溝口丹後守」の名前が見えます。また、『旧柳川藩志』「古城跡」の項には「永正の頃(1504~21)溝口薩摩守領地五丁を有し之を守る。小田城跡にあり。一は小田の奥山あり。一は禅院山の城跡あり。それ或は上代の城墟ならんと察す。」とあり(文献1)、小田の山中の北西斜面には現在でも小田城があったと伝えられ、空堀の堀切などが残っているといわれています。

宮園城跡 瀬高町大広園

宮園城跡は、「蒲池鑑広の臣今村氏拠る」とあって、また『旧柳川藩志』「古城跡」の項には、「時に此城を設く。山下城滅して此城を廃す」とあります(文献1)。天正12(1584)年肥前龍造寺軍を防ぐため、蒲池鑑広の家臣今村某に守備させています。『瀬高町誌』によれば、「今は累濠を残し堀で隔てられた多くの島が寄り合って一つの要害を形成している」とし(文献13)、文中年間(1372~75)から応永年間(1394~1428)の初めごろまでに今村大隅なる人物を宮園の地に封じています。今でも、東照寺境内地の一角には「本丸」・「東二ノ丸」・「西二ノ丸」の地名が残っています。

松延城跡 瀬高町松田

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松延城跡は、『筑後将士軍談』によれば(文献10)、「蒲池鑑広の臣樺島式部拠る」とあり、『旧柳川藩志』では「東西50間、南北40間、楕円形をなす。櫓跡今猶認むべし。城濠は埋れて水田となり僅かに小溝を餘巣のみ。本丸・二ノ丸・三ノ丸の称は地名に存す。天正12(1584)年山下城主蒲池氏加勢のため、且つ肥前軍を防ぐため支堡とす。」とあります(文献1)。天正年間(1573~92)に樺島式部益運が拠り、その後、立花氏の城番として立花三郎右衛門が勤めています。関ヶ原の戦いを経て田中氏が筑後国主となると、松延城は支城として松野主馬重元(小早川氏鉄砲組頭であったが関ヶ原の戦いで主家と意見が合わず離脱)が寄合組頭になり、在勤しています。

縄張りについては、平城タイプの範疇です。明治20年代の「筑後国山門郡松田村絵図」・「筑後国山門郡山門村絵図」の旧地形図から推定している、木島孝之の研究「城郭の縄張り構造と大名権力」(文献3)や、字図・地籍図(図3)・米軍撮影空中写真(昭和23(1948)年ごろ)と圃場整備などによる調査結果『山門前田遺跡』所収「松延城跡について」によって復元されています(図3・文献2)。前掲の報告書によれば、発掘調査の成果として「築造時期は、16世紀前半に遡る可能性があるものの、廃城時期については文献の記載通り」としています。松延城の周辺には、「本丸」・「東二ノ丸」・「西二ノ丸」・「北三ノ丸」・「南三ノ丸」・「城内」といった小字名が残っています。主郭(本丸)は水田からの比高.2m、南北87m東西97m(台地上は南北60m東西60m)で南東部が突出した台地にあります(図一)。木島は虎口や累線の形状は不明とし、また前掲報告書(文献2)によれば「南北に虎口を設けるが、南側の虎口は食い違い虎口となるか」とその痕跡が後世の削平や耕作によって変形してわかりづらいようです。主郭分を取り囲む南北260m東西290mの方形の形状の曲輪(くるわ)があります。その南側には「今屋敷」・「掛畑」という小字名があって、「東西340m南北200mで南側の累線には横矢掛けが一ケ所に認められる」といいます。しかし、主郭や二ノ丸(曲輪)に比べると不明確な箇所も多くあるようです。また、発掘調査によって、城跡の北側には旧河川が貫流して堀の役目を果たしています。また、北側の旧河川との間には小さな水路(外堀の一部)があり、松田地区はしゅめどん(主馬殿)川、藤ノ尾地区は城川といったようです。「今屋敷」との境は馬入れ川と呼称したと伝えられています。また、城跡内では、石組と木枠を併用した井戸が発掘調査により確認されています。

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長尾良一氏作成地図を借用しています。

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続きます。







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by kusennjyu | 2017-08-14 17:29 | みやま市の歴史 | Comments(0) |Topに戻る
2017陣内遺跡(高田町上楠田)・千寿の楽しい歴史
陣内遺跡(じんないいせき) 高田町上楠田 

みやま市史資料編上巻(発行・平成29年3月)

P463~464より

みやま市教育委員会発行 
 

陣内遺跡は、二川地区圃場整備事業に伴い、平成3(1991)年に高田町教育委員会により発掘調査が行われました。

調査では、古墳時代の竪穴式住居跡1棟と土杭2基、奈良・平安時代の8世紀後半~10世紀前半の竪穴住居跡4棟と土杭2基、中世戦国期の空濠が検出されました。特に、9世紀後半~10世紀初頭に比定される3号竪穴住居跡からは鉄鏃をはじめ、ヘラ切りの須恵器坏が一括して出土し、本地域の標式資料となります。また、溝から8世紀ごろの縄目タタキの平瓦が出土しており、上楠田松浦・垣田遺跡の関連が注目されます(文献1)。 

戦国時代の空濠は2条あり、いずれも台地の北側を東北方向に、中央部をU字形に巡っています(図1・2)。空濠の中からは、出土遺物は出土しませんでした。

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空濠1は長さ約60m以上で、最大幅4.40mで最短の部分で2m、深さ1.6mを測り、断面はU字形を呈しています。出土遺物はありませんでした。

空濠2について平面形はU字形を横にした形で、長さ30mで折り返されます。幅4~8mが島状に残るもので、北側断面で見ると幅4.50m、深さ1m前後を測ります。南側断面を見ると幅が3.7mで北側に比べ若干狭くなっています。深さは南北とも約1mです。断面から2・3回ほど堀り直されています。出土遺物はありません。

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空濠は空濠2の前面に楠田川があるために、二重・三重の防衛線が構築され、守りやすく攻めにくいものと考えられます。北側は9世紀前半の溝状遺構の年代は文献などからこの空濠は15世紀後半~16世紀前半ごろの戦国時代の遺構と推定されますが、時期は確定できません。田尻家文書「田尻鑑種本領村数等覚書」によると、天正10(1582)年の田尻氏関係の城郭は34か所となっています(文献1)。この遺跡と田尻氏の関係については、天正3(1575)年に、田尻鑑種と龍造寺隆信が協力して大友方に組する三池鎮火実を攻めています。このときの詰城として当遺跡が存在した可能性があります。

背景として北側の山を越えた場所には田尻氏の本貫地があり、本遺跡は、三池氏に対する防衛要地であったのではないかと思われます。この遺跡は、田尻城の南に備えた出城の空濠の可能性が指摘されています。


続きます。





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