千寿の楽しい歴史
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2017福津市の古墳(講師・西谷正氏)・千寿の楽しい歴史
西谷正氏講演会

講師 海の道むなかた館長 西谷正氏

とき 平成29年8月12日(土)午後2時~

場所 大川市酒見  風浪宮

宮地嶽古墳

現状で南北27m、東西34mの楕円形を呈する。本来は35m前後の円墳と推定されている。埋葬施設は全長23mの横穴式石室であり、全国第2位の長さである。石室奥が幅・天井高ともに狭まる構造に横口式石槨の影響が指摘されている。金銅透彫冠、頭椎大刀、金銅鏡板付轡(くつわ)、金銅製杏葉、金銅製壺鎧、金銅製鞍金具、ガラス板、ガラス玉、蓋付銅鋺、銅盤等が付近から出土したと伝えられており、副葬品と考えられている。唐草文で装飾された馬具、冠など国際色豊かな優れたものを含み国宝に指定されている。築造時期は7世紀前半から中頃と推定される。

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津屋崎古墳群

玄界灘に面した福津市北部の丘陵や台地上に、5世紀から7世紀にかけて築かれた古墳が、南北8km、東西2kmの範囲に分布しています。これらを総称して津屋崎古墳群と呼んでおり、前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基からなります。約200年にわたる地方豪族の首長墓群(しゅちょうぼぐん)であり、平成17年3月2日に国指定の史跡となりました。

古墳群の変遷

津屋崎古墳群では保存を前提としています。そのため埋葬施設を調査しているものが少なく、表面採集遺物によって年代推定しているものもあります。古墳築造時期の決定にはさらに詳細な調査を要しますが、大型前方後円墳に注目すると、5世紀に勝浦・奴山において築造が始まり、6世紀に須多田・在自に移ります。続いて宮司・手光に7世紀の古墳が築造されます。古墳群は大筋として北~南への変遷をみることができます。

胸形君一族

かつて津屋崎古墳群は広い入り海に面していました(地図参照)。古墳群を築いた人々は、天然の港を持ち、伝統的に培った航海技術で船舶を操り、時代の要請に応え対外交渉にも深く関わって活躍したと考えられます。

津屋崎古墳群の被葬者について、文字史料などの物証は出土していません。しかし、『古事記』や『日本書紀』に、三女神を祭る「筑紫の胸形君」という豪族が登場します。地理的状況や古墳群の規模、出土品などを考え合せると、沖ノ島祭祀に関わったと伝える胸形君一族(むなかたのきみいちぞく)の墳墓群である可能性が考えられます。また、『日本書紀』には、「胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)が女尼子娘(むすめあまこのいらつめ)を納(め)して、高市皇子命(たけちのみこのみこと)を生(な)しませり」とあり、「胸形君徳善」を宮地嶽古墳の被葬者に、近くで見つかった火葬墓の被葬者を尼子娘に当てる節もあります。

対象古墳の概要

津屋崎古墳群(第1図、2図)

津屋崎古墳群は、玄界灘に面した福岡県福津市北部の丘陵および台地上南北8km、東西2kmの範囲に分布する。北から勝浦井ノ浦古墳、勝浦峯ノ畑古墳、新原・奴山古墳群、生家大塚古墳、大石岡ノ谷古墳群、須多田古墳群、在自剣塚古墳、宮地嶽古墳などからなる。現存する古墳の総数は60基(前方後円墳16基、円墳43基、方墳1基)で、規模と密集度に関して九州北部における代表的な古墳群と言える。築造年代は5世紀から7世紀にわたり、大形墳に注目すると北から南への変遷が窺える。なお、本古墳群の臨む低地は近世に干拓が行われるまで、入海が深く入り込んでいたことが判っている。

これまでに調査された勝浦峯ノ畑古墳や新原・奴山古墳群では、朝鮮半島の影響を受けた特色ある埋葬施設が確認され、豊富な副葬品が出土している。なかでも宮地嶽古墳は奈良県石舞台古墳などと並ぶ我が国を代表する巨石を用いた横穴式石室(全長23m、全国第2位)を有し、国際色豊かで豪華な副葬品は国宝に指定されている。

本古墳群は、その規模から有力地方豪族が築いたとみられ、被葬者については地理的条件などから、『古事記』・『日本書紀』に三女神を祭る氏族として記される胸形君一族とする節がある(福津市教育委員会、2013)。

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1・勝浦峯ノ畑古墳

勝浦峯ノ畑古墳は、墳長100mの前方後円墳で埴輪と葺石を備える。1975年、道路建設に伴い発掘調査された。埋葬施設は中軸線上に2本の石柱を立てる横穴式石室で、国内に類例がない。内部の壁面から天井まで赤色顔料を塗る。築造時期は5世紀中頃と推定される。細線式獣帯鏡、画文帯同向式神獣鏡、内行花文鏡、獣像鏡、乳文鏡、金銅製冠帽、金銅製歩揺、金銅製花形飾金具、円環系有刻銅釧、ガラス玉(15427点)、翡翠製勾玉、琥珀製勾玉、琥珀製棗玉、丸玉、鹿角製装具付大刀(40振以上)、鹿角製装具付剣、鉄剣、銀製装具付素環頭大刀、鉄」鏃(285点)、短甲、小札、木心鉄板張輪鎧、柄杓形木心鉄板張壺鎧、刀子などが出土した。

本古墳出土の金銅製装身具は細片となっていたが、近年、詳細な検討によって龍文透彫金銅製冠帽、銅釧の存在がほぼ確定し、金銅冠、垂飾付耳飾、金銅製帯金具が存在した可能性がある。このことから、本古墳の副葬品は熊本県江田船山古墳に相当する構成が想定されている。

金銅製冠帽は、漢城期百済からの舶載品と推定され、被葬者の対外交流を窺わせる資料と位置付けられている(福津市教育委員会、2011)。調査報告書で見ると、石室の天井石と奥壁および側壁の腰石が板状玄武岩と思われる。個々の板状玄武岩の重量は推定で1~5トン。総重量は16トンである。その他の石材は、主に柱状玄武岩である。試料採取した石材は、天井石(KTMN―①)である。

2・新原・奴山1号墳、21号墳、44号墳

新原・奴山古墳群は、東西800mの台地上に総数59基が確認されている。そのうち41基が現存し、内訳は前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基である。1975年以降、県道(現国道495号)改良工事や農協施設建設、圃場整備に伴い、9次にわたる発掘調査などが行われている。台地西寄りに22号墳など前方後円墳と大形円墳が分布し、その周辺に中小の古墳が分布する(第2b図)。これらは5世紀前半から6世紀後半にかけて築造されたと推定されている(津屋崎町教育委員会、1989)。ただし、保存を前提としているため未調査の埋葬施設も多く、年代や変遷については未解明な点がある。

有難うございました。





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# by kusennjyu | 2017-08-31 13:50 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島と朝鮮通信使・千寿の楽しい歴史
相島と朝鮮通信使

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

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藍嶋図(岩国藩の武士が描いた)

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朝鮮通信使行列

平成14年8月4日対馬厳原町アリアン祭にて

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1・朝鮮通信使

相島は、新宮港から海上約7.3kmの沖合にある東西に長い半月形の小島です。江戸時代には鎖国をしていましたが、朝鮮とだけは国交を結び、福岡藩ではその使節をここで接待し、文化交流の舞台となった島です。

朝鮮通信使は、徳川将軍の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝からの国書(信書)を持って訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者です。通信使とは、「信(よしみ)を通わす使節」の意味で、つまりお互いに信頼関係を深め合う使節で、12回来日しました。

第9次の来日記録が『海遊録(かいゆうろく)』(姜在彦著・平凡社)に詳しく記述されています。それによると、相島については「御馳走は、壱岐よりさらに倍する。諸物すべて華美で景色のよいこと神仙境である」と書かれています。

一行の経路は、首都漢陽(現在のソウル)を4月14日に出発し、6月20日釜山を出帆しました。対馬には22日間滞在、7月19日未明に次の寄港地壱岐へ向かい翌日、勝本に入港しました。7月24日台風来襲、12日間滞在しています。この台風で相島でも新築した宿泊施設や船・波止も一部壊れ水死者が出ました。代わりの船舶の準備、水夫の補充、宿舎や波止の修理などが大変だったようです。8月1日勝本を出帆し、福岡藩の領海に入ると相島から藩の迎護船が出てとも綱で曳航(えいこう)し、真夜中に相島に到着しています。

8月3日は早朝から暴風雨になり、停泊していた船は荒れ狂う波にほんろうされ、さらに東風のため出帆することができませんでした。

『黒田家譜』によると、8月10日相島を出帆、次の寄港地赤間関に向きましたが、芦屋沖で北風に阻まれ航海中3回目の大風雨に遭遇、緊急時の避難地である地島に引き返しました。8月18日出帆、小倉藩に迎護を引き継いでい、ます。一行が福岡藩領を通過するのに17日かかっています。

一行と案内警護役の対馬藩士合せれば1200~1300人の集団となり、通信使一行の接待に藩は膨大な費用と労力を掛けました。一方通信使も第9次では、日数にして285日間の長旅で、その苦労も大変だったと思われます。

江戸時代の朝鮮通信使往来一覧表

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朝鮮通信使行列

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朝鮮通信使旅程図

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2・朝鮮通信使客館

通信使一行300~500人を迎えるため毎回新しく官人小屋(かんじんこや・客館)を新築し、帰国後に取り壊しています。第10次来島時を描いた藍嶋図には、官人小屋は板葺きで棟数は大小40ほどと記録されています。寛永元年(1624年)の記録「東槎録(とうさろく)」には、「官舎は新築し、軒・柱・梁・垂木・垣根に至るまで皆竹で作り」とあり、青々とした竹が大変美しかったようです。『黒田家文書』では、畳数931畳半を新調したと書かれています。藍嶋図に基づき平成7年に官人小屋の場所と思われる畑の発掘を行ったところ、江戸時代の建物跡や井戸跡、漆椀、陶磁器などが見つかりました。

朝鮮通信使客館は、若宮神社横から南西の位置にあり、その敷地は東西65間(約117m)、南北70間(約126m)でありました。発掘調査は、今は畑に戻され案内板だけが目印となっています。

写真は細長い廊下状の建物の柱の跡です。この建物跡は島の中心部に向かってまだ続いていますが、部分的にしか確認できていません。

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3・供応食と食材の準備

幕府は、沿道の各藩に対し通信使を手厚く接待するよう通達しました。官位によって献立の基準を示し、信使と上々官に対しては儀式用の『七五三の膳』と食べるための『引き替え膳』を出すように指示しています。

写真は『引き替え膳』です。食材は、山海の珍味を集め、華やかに飾って出しました。特に珍しい食材では、いりこ(ナマコの乾物)、キジ、ウズラ、ウス(鯨の心臓)、コササイコクシ(菓子の膳のサザエを串にさしたもの。小栄螺小串)、博多そうめんなどで、食器やさかずきなどは全て新調し、金銀を塗っています。

一行に提供する食材は、米・酒・味噌・醤油・酢など1人1日に渡す量が指示されていました。魚・肉(豚・猪)・鶏・鳥(キジ・五位サギ)・山菜・野菜・果物・菓子など種類も量も多く、食器や器などは1年前から準備しました。夏に来日したときは、料理に使う「生魚」の集め方や鮮度保持に大変苦労したようです。往復時に相島で使った食料費の総費用は、第7次来日記録を現在の人件費で試算してみると約8億6800万円と膨大な額になっています。

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4・航海と通信

通信使は正使船・従事船とそれぞれの供船6隻を中心に、将軍に献上する馬や鷹を積んだ5隻の献上船や長老船・荷物船で、合計13席で来島しました。これらの船に福岡藩の迎守船団がそれぞれえい航船団としてつけられました。

通信使の連絡には、烽火(のろし)を使いました。福岡藩では、各地の島に火立て所を設けました。通信使一行の船影が見えたら、小呂島―姫島―玄海島―藍島(相島)-残島(能古島)-荒戸山(現在西公園)と、次々に烽火を掲げ藍島と福岡城に知らせるようにしました。藍島では2カ所に烽火台が設けられ、草や生の松葉をくすぶらせ、煙によって島々と連絡を取り合いました。

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烽火(のろし)図

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5・通信使関係の史跡

通信使を迎える準備として、福岡藩では天和2年(1682年)3月4日波止場の構築に取りかかり、島民が述べ3850人の約2ケ月間で先波止と前波止2つの波止場を造りました。前波止は現在町営渡船「しんぐう」の船着き場で、対馬藩主や随行者が上陸しました。先波止からは通信使一行が上陸しました。

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享保4年(1719年)7月24日、第9次通信使が来日の折、その準備をしていた相島に台風が来襲しました。そのため多くの被害を出し、迎護船40隻余が破損し、藩士12名、浦水夫49名が亡くなりました。

墓碑拓本は平成7年の相島積石塚群調査時に発見され、刻まれている内容がその時のものだということが確認されました。

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相島は、深い山や大きな川もなく、用水の確保も大変でした。水が不足しないように以前からあった4つの井戸のほかに、用水のため丸井戸6ケ所と、角井戸6ヶ所を掘りました。現在は2ケ所残っています。


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続きます。





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# by kusennjyu | 2017-08-30 08:26 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る
2017相島の積石塚群3・千寿の楽しい歴史
相島の積石塚群3

とき 平成29年8月26日(土)午後

場所 新宮町相島

120号墳

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北群1号墳(最北)

一部、墳丘面が崩れているところがあるが、方墳として捉えている古墳である。1辺が約8mを測る。斜面に築造してあるため墳高は約2~3mを測る。天井石は無くなっており、主体部いっぱいに石が崩落していた。

主体部は横穴式石室である。長軸約2m、短軸約1.5mを測る。そして、長さ1.3m程度、巾0.7m程度の羨道(羨道)部を持つ。

玄室は、羨道部から見て左側が直線に、右側が胴張り気味というように左右の壁面の造りに違いがみられるおもしろい造りをしている。

出土遺物は、落石により破片となっている鉄剣?片、鉄鏃(やじり)片、刀子(とうし)片、金銅製の耳環(みみわ)が3個、水晶製の切子玉が1個、須恵器が数個体、それに人骨片である。

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北群のその他墳

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南群と朝鮮通信使関連墓地

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鼻栗瀬(めがね岩)

島の東300mの海上にそそり立ち、全体が玄武岩でできています。

鷹さ20m、周囲100mで海食洞があり絶好の釣り場となっています。


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続きます。





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# by kusennjyu | 2017-08-29 17:06 | 歴史学習会 | Comments(0) |Topに戻る