千寿の楽しい歴史
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家庭菜園(千寿の楽しい日々)
家庭菜園

玉ネギ苗植え 10日 八女市のべんがら村(温泉)から玉ネギ苗を買う。
           早生200本・普通200本(野菜玉ネギと赤玉ネギは置いてなかった。)
       14日 マルチ(黒ビニール)を剥いで草取りをする。
       15日 耕運機で耕す。→ ムネを作る。→ マルチを張る。→ 玉ネギを植える。

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畑の収穫物

上段の左から大根・白菜・カンラン・  下段の左からほうれん草・人参・大ネギ

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豆の収穫   上段は黒豆と小豆の大と小  下段は黒豆と大豆

豆の葉の写真は小豆の大です。普通の小豆より殻も長く一回り粒が大きい物がなります。
今年は普通の小豆と思い植えたものが、殻が大きくなんだろうと思っていました。
ビールのつまみの枝豆は美味しいですね。しかし、黒豆の枝豆が粒が大きく甘味があります。

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# by kusennjyu | 2009-11-16 22:08 | 家庭菜園と花 | Comments(0) |Topに戻る
佐賀の紅葉(千寿の楽しい日々)
11月12日 2人で紅葉を見るため午前8時30分に家を出発する。
日吉神社は紅葉ではないが、菊花の観賞に立ち寄る。

日吉神社の菊花展(柳川市)

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シチメンソウ(東与賀海岸)
a0137997_10595065.jpgシチメンソウは西日本の干潟に群生するアカザ科の一年草で、
北海道のアッケシソウと並ぶ塩生植物。
11月頃に紅紫色になることから海の紅葉と呼ばれている。
12月下旬に芽吹き、秋の紅葉までの色の変化を七面鳥の顔色変化にたとえて名づけられた。

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九年庵 (神崎市的)

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 仁比山神社の参道を登りつめると風雅な藁葺き屋根の旧伊谷家別荘、通称九年庵があります。庭一面に広がる苔の緑と紅葉のコントラスが見事なこの庭園は、平成7年に国の名所にしていされました。
 九年庵の名前の由来は、庭園が九年の歳月を費やして築造されたことにあります。
 毎年、紅葉の時期に9日間、一般公開されます。
 今年は15日から23日までです。

 今日(12日)は、人が少なく車を神社境内の傍に駐車しました。しかし、観光バスがくる、紅葉の期間は、下の水車の里に駐車して歩くことになります。神社への道路は離合には狭いですね。

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 神埼水車(群)の由来
 明治30年頃、(小渕、仁比山、的地区)60基の水車が群れをなし、製粉業等が盛んでした。
 神埼水車は、直径4mで、落差を利用し、7馬力から10馬力を出力し、製粉、精米、製材など幅広く活用され、なかでも、水車で製粉された良質の小麦粉はを原料とした神崎素麺は、全国にしられるところです。
 
 昼食
 昼食は水車の里を400mほど先に行き、「ほたる」でしました。採れたて野菜のバイキングで90分,1人1500円で食べ放題です。
 土曜日、日曜日は1時間待ちとのことです。私たちは、すぐに席につきました。
 特に、「ゆば」と「豆腐」はお勧めします。座敷に10席ありますが、男性、はわたし1人でした。
 
 1時間で次の「吉野ヶ里温泉」で湯に入り、ゆったり疲れを取って帰ってきました。

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# by kusennjyu | 2009-11-13 12:07 | 旅行記 | Comments(1) |Topに戻る
薩摩街道を歩こう(松崎~府中)千寿の楽しい日々
薩摩街道を歩こう(松崎~府中)

⑨筑後川の神代(くましろ)渡し

 バスの中から史跡の石柱と説明文を見る。

 説明文と「元寇史跡・神代浮橋の跡」
 文永11(1274)年、鎌倉幕府の執権北条時宗は、元と高麗(こうらい)の連合軍の襲来にあたり、南九州の御家人に出兵を命じた。
 久留米の豪族神代良忠は、筑後川に舟を並べて浮橋(舟橋)をつくり、博多の警固に赴く薩摩・大隈・日向・肥後の御家人たちを対岸に渡した。幕府は、神代良忠の功績を讃え,感状を送った。
 江戸期、旅人は、川舟で筑後川を渡った。薩摩街道筋の神代渡しは、人々の往来でにぎわった。

⑩府中宿

府中宿では久留米ボランティア会員の方から説明を受けました。
a0137997_1712661.jpga0137997_175328.jpg 府中宿は、筑後国一宮高良玉垂宮(高良大社)の門前町であるとともに薩摩街道の宿場町でもある。松崎・羽犬塚とともに筑後久留米藩の「三宿(さんしゅく)」と呼ばれた。
 宝永年間(1704~11年)の町の規模は96件、町数4町14間(約461m)である。
 町の南北には構口が設けられたが、松崎宿や羽犬塚宿のような鈎(かぎ)の手になっていない。
 町は北から上町・中町・下町と呼ばれた。

鳥居は、1655年に2代藩主有馬忠頼公の寄進によるもので国の重要文化財に指定されております。

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 薩摩や人吉・熊本・島原・柳川・三池などの大名が、参勤交代の時などに宿泊もしくは休憩する。
 御茶屋(本陣)及び脇本陣が設けられた。お茶屋は、現在の御井小学校の敷地であり、遺構として「井勢(いせ)の井」と呼ばれた本陣井戸が残っている。脇本陣は、上町の薩摩屋と小松屋であったという。
 府中宿には人足15人、馬10疋が置かれていたが、寛保2(1742)年には駕籠10挺も設置された。享和元(1801)年、府中宿に入った名古屋の呉服商菱屋平七は「人家二百軒計。茶屋・宿屋多く、本陣あり」と紀行文『筑紫(つくし)紀行』に記している。






 

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# by kusennjyu | 2009-11-11 17:24 | 薩摩街道 | Comments(1) |Topに戻る