2010薩摩街道を歩こう 3(みやま市山川~南関)千寿の楽しい歴史
薩摩街道を歩こう(山川宿~南関宿)
大牟田市湯谷
四箇の移りかわり
大津山氏が城主となる。
足利尊氏は大納言 日野資名(すけな)の子、日野資基(すけもと)に領地として肥後国玉名郡大津山一帯を与える。大永2(1395)年、直ちに大津山に城を築き、日野姓を大津山に改める。領地は大津山一帯で300町余、石高は約1万石でした。四箇村もその中に入っていました。
四箇村は筑後領となる。
元亀1(1570)6代目資秋(すけあき)の娘恵牟(えん)と、隣の筑後国三池今山城の城主三池鎮照(しげてる)(鎮実しげざねとも言う)との間に結婚がすすめられ、化粧田として持たせました。
立花宗茂の領地となる。
天正15(1587)年、三池鎮実は、豊臣秀吉が九州を平定した時に、三瀦郡の領地と立花宗茂の領地と領地替えになり、両家の話し合いで四箇村変換の約束が出来ていました。
しかし、その年大津山家稜は隈本城主(現熊本)として赴任してきた佐々成政に忙殺され、200年続いた大津山家は滅亡し、四箇村は立花宗茂の領地となりました。
慶長5(1600)年、田中吉政の領地となる。
元和6(1620)年、立花宗茂が領地を復し、もとの宗茂領となる。
明行寺

大牟田市四箇字湯谷 写真は楼門(文政4年・1821年建立)。
本尊は阿弥陀如来で真宗本派本願寺派です。この寺の創立は、元肥後国大津山8代城主家稜(いえかど)の重臣であった福山出雲が、大津山氏が滅亡した後、断髪して号を了雲と改め、元和6(1620)年に筑後国北関(山川町)に寺を創建して、明行寺と号しました。 その後寛永年間(1630年頃)現在地に移転しました。
湯谷の国境石


大牟田市湯谷に筑後柳河領と肥後熊本領の国境を示すために建てられた境界石があります。
「従是西北筑後の国柳河領 従柳河札辻 四里二十町余」と刻まれて道路の両側に立っています。
古い方は江戸時代初期にたてられましたが三つに折れ、中段と下段が残っており、新しい方は、古い方が折れたため江戸時代末期に取替えられたものと思われる。