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千寿の楽しい歴史
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2010田尻十五人墓(みやま市高田町)・千寿の楽しい歴史
田尻十五人墓 

市指定有形民俗文化財  

平成12年7月28日指定

田尻字山本にあり、自然石に南無阿弥陀仏の名号と、元禄3年(1689)12月6日の紀名及び交名は現在では判読困難であるが、明治20年(1887)に建てられた隣接の顕彰碑により名前を判断することができる。

おそらく、阿弥陀如来信仰に結衆した人たちが、共同で建立した信仰の記念碑であろうと推察される。これは民俗資料的に貴重なものである。

地元では昔から「十五人墓」と称し、村吏某の貪虐を藩庁に訴えようとした田尻の農民達が、村吏の陰謀により処刑された供養塔であると伝えられている。

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三池郡誌 岩田村編P457からP458より。
元禄6年田尻百姓庄屋の苛政を建白して罰せられる。その墓は田尻村にある。

高田町誌P584より。

伝説によれば、元禄2年田尻村の村民、その庄屋と争論し、よって村民の首謀者十五人を斬罰に処す。これを十五人墓と云う。田尻の墓所には、2基の碑石あり。1基は南面し、1基は西面す。
南面した碑石の文章は次ぎのとおりです。(名前の次ぎは解読文を記載します。)

山下徳俊、塚本仁左ヱ門、塚本平助、宮本甚四郎、瀬戸甚蔵、瀬戸徳左ヱ門、松尾八左ヱ門、森山佐門、森山久左ヱ門、三由利右ヱ門、米石忠兵ヱ、米石又右ヱ門、岩永弥兵ヱ、平野仁右ヱ門、三池六三郎、

相伝によれば、徳俊等十五人は下級役人某の欲深くむごい仕打ちに憤がいし、藩に何回も役人入替をお願いした事を某が聞き大いに怒って藩役人の手助けによって殺した。時は元禄2年12月6日である。

我が子、武彦はその無実の罪を憐れみ、常に慰心あったが出来ぬまま、若死にたので私がその塚側に石を積みその志を云う成り。  明治20年12月6日。 村人 武藤徳蔵拱 以下解読した。
西面せる石碑は高さ5尺、横3尺3寸にて台石は三段積みなり。文字は解読いがたい。

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武藤徳蔵の履歴
第四回内国勧業博覧会(明治30年)入賞
武藤徳蔵は天保14年(1843)4月5日山門郡原町村松尾家に生まれ三池郡田尻村の武藤孫市の養子となる。
明治17年戸長を辞し、農業に専念、稲作、菜種の増収に抜群の成績を示した。

昭和60年5月10日、武藤渓泉(徳蔵の孫)氏が蔵を整理中に古文書(碑表建設願)を発見する。 

by kusennjyu | 2010-03-13 15:15 | 田尻の歴史 |Topに戻る