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千寿の楽しい歴史
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2010文化みやま(創刊号)みやま市文化協会
文化みやま(創刊号)  

平成22年3月24日 雨

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郷土史部  平成21年度各町の活動状況紹介
当面は3町独自の活動を続けていくことにしました。郷土史会は各町の活動状況には違いがあり、同一歩調の研究は無理であるという理由から、当面は従来の活動を続け、連絡を蜜にして、連携すべきところは連携していくということです。

高田町郷土史会  現会員 26名 
高田町に文化協会が設立されたのが昭和52年です。郷土史部は当初、部員5名の発足だったそうです。今年で32年目になります。
具体的な事業は町内外の史跡探訪、文化祭への参加展示、歴史(郷土史)講座への積極的受講、町外との交流です。

町内史跡探訪として、校区毎に年1回、史跡巡りをしています。今までに6校区2回以上は巡っているようです。他に近隣市町の文化財史跡の現地探訪や歴史講座への参加をしてきました。
年1回は大型貸切バスでの史跡探訪をしています。部費の大部分をこれに当てていて、部員以外の方も、格安なので喜んで参加されています。県内の史跡は勿論のこと、佐賀県、熊本県、大分県、長崎県へと足をのばして見学しています。

瀬高郷土史の歩み  
本会は昭和32年、邪馬台国郷土史会と称して、瀬高・柳川・大和町の有志により結成されました。
昭和46年、九州縦貫自動車道の建設にともなう大道端の発掘調査を機に新たな瀬高郷土史会が発足し現在に至りました。同年瀬高文化協会が創立され、本会も「社会科学部の郷土史部」として加入し、以後毎年の産業文化祭には公民館ロビーを会場に郷土史展を開催し大いに町民の関心を集めました。

平成10年、町立図書館と郷土史資料館及び企画展示室が完成し、展示会企画も企画展示室に移り、平成19年のみやま市に至る間の歩みを見てみます。

平成10年は瀬高の年中行事、11年は九州の神籠石、12年は瀬高の石造物、13年は瀬高の絵馬・天井絵・彫刻、14年は和紙の紙すきと矢箇部新左衛門展、15年は薩摩街道と周辺の史跡展、16年は成合寺谷装飾1号墳と古墳展、17年は瀬高の民俗史料展、18年は瀬高の文化財展を展示してきました。

平成19年に3町合併により「みやま市」が誕生し、文化協会も「みやま市文化協会」となり新しい企画のもとで開催されることでしょう。

山川町郷土史会  現会員  21名
山川町郷土史会が発足したのは昭和59年8月24日で25年前のことです。
平成21年8月23日に25周年記念行事を山川市民センターで開催しました。記念事業として、「25年のあゆみ」を会員のみに配布しました。記念講演として、天台宗清水寺住職に「清水寺に関すること」をお話していただきました。みやま市を中心に大牟田、柳川からも参加していただき感謝しています。
同時に「與田準一と牡丹長者の屋敷跡展」も開催し、多くの人々の関心をよんだようであります。

定例行事としては月1回の会議・年2回の日帰り研修・年1回の1泊研修・近隣の探訪を年1~3回実施しています。平成21年の日帰り研修は7月に吉野ヶ里へ、2回目は2月に実施予定です。
1泊研修は11月に広島県竹原市行きを計画しています。近隣探訪としては中村祐興ゆかりの地を尋ねました。
研修のみでなく懇親も目的としていて、4月の花見の宴、12月の忘年会を行い親睦を深めています。

終りに
現在の日本は過去の積み重なりの上になりたっているという認識です。自分の原点に触れてみませんか。

中村祐興
文政12(1829)年7月10日、現山川町原町に生まれる。慶応元年、長崎の操練伝習所へ遊学の後、明治元年に徴士となって大津県(現在の滋賀県)の権判事に就任。明治3年に大津県が大洪水にみまわれた際、祐興の責任において国の公金を救助金として緊急に支出し、多くの県民を救った。
また、中央官と地方官の意志の疎通と地方の実状にあった政策を行うことを目的とした「地方官会議建白」をし、明治7年の大蔵省主催の「地方官会議」に発展した。地方官として活躍した後、明治3年に大蔵省に転身して監督正(現在の会計検査院の長)に任じられ、日本で初めての官営模範工場となる富岡製糸場に関わった。
明治7年、当時の大蔵省紙幣寮初代抄紙部長に任じられ、紙幣用紙の開発に取り組んで透かし入れに最適な「中村紙」を開発。幕末から明治への新旧交替の時代、贋札造りの横行や旧幕府以来の各種硬貨・藩札などの流通による混乱の中で、弊制の統一・近代化に貢献した。その後、明治31年に官を辞して福岡に隠棲。

明治33年に中村紙の開発と紙幣用紙の改良が評価されて正五位勲四等瑞宝章を受け、明治42年10月14日に82才で没した。

郷土の人物  リンクします。    
  
中村天風(なかむらてんぷう)(中村祐興の息子)
1876年、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として現東京都北区王子で出生。
父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。
王子村(現北区王子)や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。
立花家伝の随変流の剣術と居合も修行した。
幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能になる。
柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で相手を刺殺(ただし正当防衛は認められた)、修猷館を退学になる。
その頃、玄洋社の頭山満の知遇を得る。

16歳の時に頭山満の紹介で陸軍の軍事探偵(特殊工作員)となり、満州へ赴く。
軍事探偵として活躍し「人斬り天風」と呼ばれたという。
1904年(明治37年)3月21日コサック兵にとらわれた三郎は銃殺刑に処せられるところであったが、ギリギリの瞬間に部下に救出された。
113名いた軍事探偵のうち日露戦争から生還したわずか9名のうちの1人。

日露戦争後30歳にして、奔馬性結核を発病。
33歳の時、病気のために弱くなった心を強くする方法を求め、アメリカへ密航する。
途中アメリカでは自らの病の原因を尋ねてコロンビア大学で自律神経系の研究を行ったとされる。
イギリスに渡った後、フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候し、各界の著名人に会う機会を得るが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった。
1911年日本への帰国の途上、カイロにてインドのヨーガの聖人、カリアッパ師と邂逅。
そのまま弟子入りし、ヒマラヤ第3の高峰、カンチェンジュンガのふもとで2年半修行を行う。

1913年日本へ帰国途上、中国で孫文の第2次辛亥革命に「中華民国最高顧問」として協力。
その謝礼として財産を得た。
東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任、実業界で活躍する。

1919年突然感じるところがあり、一切の社会的身分、財産を処分し、「統一哲医学会」を創設。
街頭にて教えを説き始める。
政財界の実力者が数多く入会するようになり、会は発展していく。
1940年「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年国の認可により「財団法人天風会」となる。

1968年12月1日死去。享年92。

by kusennjyu | 2010-03-24 18:33 | みやま市の功績者
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