與田準一記念館訪問 3月24日 雨
上京から”赤い鳥社”退社まで。
與田準一は大正12(1923)年4月に初めて雑誌「赤い鳥」に投稿した童謡が入選して以来、この雑誌の常連投稿者として活躍しはじめた。偶然にも「赤い鳥」の投稿童謡の選者は、同郷の詩人・北原白秋であった。
與田は、生涯師事することになる白秋に才能を見出され、白秋の勧めで昭和3(1928)年に上京することになる。
上京後は、北原家に寄食し、長男隆太郎の家庭教師をしながら「白秋全集」の校正を手伝うなど、公私にわたって白秋の身辺に仕えていたこともあり、最愛の弟子と言われた。
この頃、作曲家の細谷一郎も音楽の家庭教師として北原家に寄食していた。
子供の読み物に限らず、出版会全体が不景気を迎えていた昭和4(1929)年に一度帰郷したものの、書き手としての情熱に背中を押されるようにして、翌年再び上京し、白秋の後ろ盾を得て昭和5(1930)年・同人雑誌「乳樹」(のち「チチノキ」と改題)を発刊する。
同じ年、「赤い鳥」出身の書き手としてすでに才能を認められていた與田は休刊していた「赤い鳥」復刊のために主催者である鈴木三重吉の要請で、8月に”赤い鳥社”に入社し、昭和8(1933)年2月に退社するまで平塚武二らと編集にたずさわることとなった。この間毎号のように新美南吉の童謡が掲載され、その後、南吉も「チチノキ」の同人に参加した。

活躍期 書き手として、児童文学の開拓者として
與田準一は、雑誌「赤い鳥」の出版母体であった”赤い鳥社”退社後の昭和8(1933)年6月に、処女童謡集
「旗・蜂・雲」を自費出版する。序文を寄せた白秋は「わたくしはつくづく思ふが、わたくしの周囲にあって、わたくしの童謡の種々相を理解し感光する者は、彼を措いて先ず他に無いであろう」と、彼の創作に対する貪欲な姿勢や真面目な性格をたたえた。
この頃までは、白秋のもとでのびのびと創作に励むことが可能であったが、いよいよ子どもを対象にした読み物の売れ行きが衰退の一途をたどるようになると、ほとんどの発表機関が失われ、白秋の後ろ盾も細々と続けていた「チチノキ」のみとなった。
しかしながら、「チチノキ」時代は、童謡の他にも少年詩の創作や、時代にあった詩の創作を試みるなど、書き手としての今後を見据える機会となった。
昭和11(1936)に鈴木三重吉が亡くなると、多くの子どもを対象として、一大センセーションを起こした雑誌「赤い鳥」もついに終刊し、児童文学冬の時代を迎えることとなる。「コドモアハヒ」や「コドモノクニ」に細々と発表の機会を得ていた昭和14(1939)年に、帝国教育会出版部の依嘱により「コドモノヒカリ」の編集のみならず、出版物の企画にかかわるようになると、自作ばかりでなく、多くの子どもの読み物の書き手たちに出版の機会を与え、比較的戦時色の薄い良質な著書の出版に尽力した。その中には、新美南吉の「ごん狐」を収めた童話集「花のき村と盗人たち」も含まれている。
昭和15(1940)年に
「山羊とお皿」で第一回児童文化賞を受賞するなど、書き手としても高く評価されていた。このときの審査員からは「単なる児童文学の世界ではなく、遥かに高い芸術の世界である」と絶賛された。なお、審査委員の1人には、小川未明がいた。
與田は言葉のリズムに誰よりも敏感で、白秋や西條八十、野口雨情たちによって拓かれた童謡をさらに洗練させ、芸術としての童謡、あるいは、少年詩として読むに耐えうる
うたへと高めることに心血を注いだ。
童謡から出発した與田は、その後童話の創作へと関心を広げ、「父の手紙」や「小さな町の六」、代表作となる「五十一番目のザボン」や「十二のきりかぶ」などを発表した。
昭和25(1950)年に日本女子大学児童科の講師に就任してからは、後進の指導にも力を注ぎ、岩崎京子、あまんきみこ、生源寺美子(しょうげんじ はるこ)、宮川ひろなどの多くの書き手を育てた。さらに、日本文学者協会会長に就任し、小学館文化賞や野間文学大賞の審査委員や、児童文学の講演者として全国各地をまわった。平成2(1990)には長年の業績により、モービル児童文化賞を受賞した。
児童文学というジャンルの開拓や確立のために晩年まで力をつくした與田準一は、鈴木三重吉や坪田譲治などとともに日本の児童文学史上に不滅の足跡を残した書き手であった。彼の遺品や、葉書・書簡からは、文学仲間との幅広い交流や几帳面でありつつも温厚な人柄が偲ばれる。なお、彼の詩には、当時の著名な作曲家によって曲がつけられ、今でも子ども達に歌われているものが数多くある。
パンフレットより
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