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千寿の楽しい歴史
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2010飯江川(8・みやま市高田町のふれあい橋から飯江橋)千寿の楽しい歴史
飯江川(8・ふれあい橋から飯江橋) 大字舞鶴及び飯江

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ふれあい橋

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旧大井手堰の廃止、川床の変更により出来た川と日当川にはさまれた土地に公園が整備され、舞鶴ふれあい公園と命名された。(平成6年11月の完成)

「一級河川飯江川河川災害復旧助成工事ふれあい公園完成記念碑 福岡県」
と記してある。木を植え藤棚をつくり、水道を引き休憩所や便所を設け、県道側より公園に渡るふれあい橋を架けた。

公園の東側を大きく湾曲して流れる日当川には、八竜橋が架けられ豆塚方面の道路に通じている。日当川は山川町立山方面より流れ下る小河川で、現在ふれあい公園の北端で飯江川に注ぐようになった。
日当川の下流域の集落を「ひやてご」という、日当川と書いて「ひやてご」と呼ぶが、川を「ご」と呼ぶのは飯江・山川地方の方言であろうか。北川を「きたご」・谷川を「たにご」・待居川を「まてご」というのである。
堺 勝 文書より

春日神社  

高田町飯江字宮越
  
鳥居の柱に山門郡飯江邑と彫られています。 合併前は三池郡高田町飯江である。

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伝説  地蔵渡し由来

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ころは天正9年(1581)肥前の竜造寺隆信は、薩摩の島津と親しくする柳川城主蒲池鎮並( しずなみ)を、佐賀へ呼び出して謀殺した。その上、城で留守をしていた妻や子供、一族を一人残らず殺害して蒲池一族を根絶やしにしてしまった。この残忍極まりない隆信の行為は、筑後の諸将たちを震え上がらせてしまった。

蒲池の赤星統家( むねいえ)は、妹が蒲池鎮並に嫁いでいるので、蒲池家とは親戚関係であり、当然のごとく隆信を恨み、一族の敵とにくんでいた。

これより先、天正7年に赤星統家は我が子新六郎(十才)を肥前竜造寺に人質として差し出していたので、いくら恨んでも子ども可愛さに反抗することも出来なかった。

天正11年、竜造寺隆信は蒲池氏に関係の深い蒲池の赤星統家に対して、再三にわたって佐賀へ参礼するように使者を出したが、統家は何かと理由をつけて佐賀行きを延ばしていた。2年前の義弟蒲池鎮並のこともあり、安易に出かけて命を落とす事を恐れたのである。

隆信は降伏した赤星に対して再三の誘いをかけても一度も佐賀へ伺候しないことに猜疑を抱くようになり、果ては赤星が隆信を恨んで兵を起こすのではないかという噂までが広がってきた。
いよいよ疑心をつのらせた隆信は、統家の本心を確かめるために再度使いを出し、きっと返事を持ち帰るよう厳命した。丁度その時赤星は狩に出て不在であったが、そのまま帰ることもならず、統家の代人として当時八才になる一人娘の安姫を人質として佐賀へ連れ帰った。

二人までも幼い子供を人質にとられた赤星一族の心情は如何ばかりであったろうか、察するに余りあるものがあった。

隆信は「赤星統家が再三の呼び出しにもかかわらず、姿を隠して伺候しないのはまさしく謀反の心ある証しである。」と激怒し、周囲の諸将へのしめしがつかないと、肥後と筑後の国境に近い飯江川の竹飯河原に引き出して、赤星統家の一子新六郎(十四才)、長女安姫(八才)と、その供人十二人を磔殺( たくさつ)するよう下知した。

この時代の磔殺は、長槍で刺し殺す刑罰で、キの字形に作った柱に、罪人の両手両足を上下の横木に荒縄でくくりつけ、首と腰部を柱にゆわえて身動きが出来ないように縛りあげる。更に罪人をくくりつけた角柱の基部を地中に埋めて、地上高々と観衆のさらし者にする。罪人の胸元から脇腹にかけて着物は押しひろげられて、突き出す槍が通りやすいようにしてある。

合図と同時に左右から脇腹めがけて長槍が突き出される。二回、三回と突槍を繰り返し、絶命するまで続けられる。更に、死体は三日三晩野ざらしにされるという。極めてむごたらしい極刑であった。
この時代の極刑には火刑、磔刑、打首などがあったということである。

話は赤星兄妹とその供人は、それぞれ十字架の柱に縛られ、刻々と処刑の時がせまって来た。立ち会いの武士たちもさすがに新六郎(十四才)、安姫(八才)の幼い童児を見るに忍び難く涙を流さぬ者はなかったという。武士たちは、二人を助けたかったのだが上司の命令に逆らえば、自分の命がなくなることが恐ろしくて、どうすることもできなかったのである。

西の方角に向けられた磔台の上から新六郎は警護の武士に向って声をかけた。 「われらの産まれ故郷は肥後であります。蒲池の赤星家はどのどの方角出あろうか。」警護の武士は涙顔を上げて「この方角です。」と、南の方角をだまって指さした。   「あ々、そうですか。」
かるくうなずいた新六郎は、じっと南の方角を眺めていたが、やがて次のような歌を詠んだ。

 「わが面(おもて) 西にな向いそ赤星の 親に後(うしろ)を みせじと思へば」

わたしの顔を西に向けないで下さい。せめて故郷にいる両親の方を向いて死にたい。と親を慕い恋しく思う心情に、武士も群衆も涙せぬものはなかった。そんな周囲の同情を無視するかのように、竜造寺隆信は無慈悲にも刑の執行を厳しく下知したのである。

村人たちは河原の刑場の露と消えた幼い二人をあわれみ、 「さぞかし親元へ帰りたかったろう。」
「飯江川を渡って南へ行きたかったろう。」と心情を思いやって、向う岸に二体の地蔵尊を祀って供養を営んだ。 それから後、誰云うとなくこの地を「地蔵渡し」と呼ぶようになり、今日に及んでいるという。

肥後赤星家にとっては、人質にとられた上に非業の死を遂げた二人の愛児の憾みは骨髄に達し、必ずや竜造寺隆信を倒すことを心に誓ったのである。

時は流れ、地蔵尊は飯江川をはさんで幾度か移動されたらしいが、今日もなお村人の手によって季節の美しい花が供えられ、川面を渡るそよ風にゆれている。

追  記
二人の愛児を殺害された赤星統家は、度重なる竜造寺の仕打ちに烈火の如く怒り、薩摩の島津義久と手を結んだ。天正12年(1584)3月24日、島津家久の統いる薩摩軍と、竜造寺隆信の肥前軍が島原の地で戦った。

赤星肥後守統家はこの時とばかりに先陣を願い出た。主従50余騎は妹の仇、愛児の仇とばかりに勇猛果敢に突進し、雑兵どもをけちらして本陣にせまり、竜造寺隆信の首を切って美事仇討ちを遂げることが出来たのである。さしもの隆信も54才を最後に島原の地に散ったのである。

高田町の地蔵伝説の他にも幼い二人の兄弟の霊を慰める地蔵尊が山川町北関にもおまつりしてあるそうだ。

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民話と伝説  アジカのお観音さま

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むかし、飯江村朝日谷の「アジカ」というところに、大きな樹木の間に見え隠れする七堂伽藍の建物がある壮大な観音さまを祀るお寺があった。アジカというところに建っていたので、誰云うともなく「アジカ観音さま」と呼んだ。

この観音さまにお参りすると大へん御利益があるというので、近郷からの参拝人で祭礼の日などは大へんな人手で賑わっていたそうな。

ところが、ある日のこと突然に肥前の竜造寺軍が攻め寄せて、田や畑を踏み荒し民家といわず、寺院といわず見さかいもなく火を付けて焼き払ってしまった。

アジカ観音堂にも火が付けられ、めらめらと炎が出はじめた時、信者の一人が燃える本堂に駆け込み、素早くご本尊を背負ってやっとのことで近くの山中へ運び出すことができたそうな。

竜造寺軍の乱暴な行動によって、これまで繁栄していたアジカ一帯は、一夜のうちに焼ケ野原になってしまったそうな。

時移り流れて幾歳霜。今、アジカの竹林の中の曲がりくねっただらだら坂を登った処に小さなしっかりした御堂がある。その中央に安置してある観音さまは、顔の部分が黒く焼けて目鼻の区別がつきにくい。これは、昔の焼き打ちの時にやけどをなさった痕だということだそうな。

北風の吹く寒い雨の夜には、何処からともなく「ゴ-ン、ゴ-ン」とかすかな鐘の音が響いてくる。きっと観音さまが、むかしの繁栄していた頃を偲ばれて悲しんでおられるのであろうと、里人は話しているそうな。

アジカの一帯は、今でも田や畑を耕していると、石塔や瓦の一部らしい破片が掘り出されることがある。里人はそれらの破片を観音堂の境内に運んで、粗末にならぬようにしている。

又、アジカ観音さまにまつわるこんな話もある。
瀬高清水山の観音と、アジカ観音像は同じ一本の「ほうの木」で刻まれている。一の枝で清水観音像、二の枝で京都清水寺観音像、三の枝でアジカ観音像がつくられているそうな。清水が兄で、アジカが弟ということになる。

兄二人の観音さまが遠来の信者を集めて、大へんな繁盛をされているので、弟のアジカ観音さまは、信者の奪い合や争いを好まれず、飯江の竹林に籠って静かに見守っておられるのだと里人は伝えている。

竹飯八幡宮の最初の鎮座

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竹飯八幡宮の創建は平安時代の仁和2(886)年です。その最初の鎮座が飯江にあります。八幡宮の例祭の時は、この最初の鎮座地でも神事が行われます。ここには「竹飯八幡宮の最初の鎮座」と刻まれた碑が立っています。

八幡宮が何時、何の理由でこの地から竹飯の現在地に移転されたのか、記録がないので不明です。

例祭には煙火(花火)、稚児風流があります。

by kusennjyu | 2010-03-25 10:28 | 飯江川
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