飯江川(9・竹飯橋から海津橋)
竹飯橋上下流の井堰

竹飯橋をはさんで四っの堰があります。
浦田川河口の上流にあるのが苗代堰です。右岸一帯を潅漑する受益面積11町歩余り。平成5年3月に完成した可動堰です。浦田川河口のすぐ下流にある松ノ木堰、これは飯尾から田尻の一部に潅漑する、受益面積18町歩余りの堰です。
竹飯橋の下流に干渡堰があります。田尻から岩津にかけ受益面積121町歩余り、続いてその下流に海津堰があります。これは海津向田方面から岩津にかけて受益面積32町歩余り。これらの堰によって飯尾から岩津に至る広大な水田がうるほしています。 海津堰の下流、海津橋より下流はすべて高田堰の湛水区域になります。 旧合畝堰・旧代藤蔵堰・旧留佐堰は廃止になりました。
民話と伝説 邪馬台国古墳(ドルメン)

竹飯岩畑の江良祐通氏の畑地に、とてつもない大きな岩が一つポツンと放置されている。
縦 360㎝ 横 330㎝ 高さ 150㎝ 重さ 予見されず
この巨石の周囲には、素焼きの土器の破片が散乱し、高坏の破片らしきものもあって、古代の祭礼に使用されたものであろう。
むかし、村人がこの石を破砕しようと金鎚で打ったところ、巨石から血が流れ出したので、砕くのを中止したと伝えられている。又、小雨の降る静かな夜には、陰火が巨石のまわりをさまようように揺らぐと伝えられている。
この巨石は「ドルメン」の一種で、邪馬台国式古墳問い割れていて、この地方から山川町にかけて数ケ所にあり、他の地方にはない貴重な古代の遺跡である。
○飯尾 河野幸雄氏宅 屋敷神さん ○山川町中原 お岩さん
○山川町佐野 お岩さん ○山川町立山 巨石
古代には、これらの巨石の前に祭壇を設け、海の幸、山の幸、神酒を供え、一族が集まって祖先を祀り、安堵と繁栄を祈ったのではなかろうか。
開発造成が進められる時代になっても、わたしたちの先祖が残した遺跡として、それぞれの地域の人々によって大切に保存されることを祈るだけである。
民話と伝説 牡丹長者伝説

長者伝説は全国各地に語り伝えられているが、そのうちの一つに高田町に伝わる牡丹長者伝説がある。
奈良に都が定められ、地方に国司、群司を設けて地方を治める制度が始まった頃、竹飯には、駅舎、駅馬が設けられ、九州の南北を結ぶ陸上交通の要衡として人の往来が多かった。又、海津は有明海を交易する舟の港として繁栄していた。このように竹飯地方は陸海の交通、交易の要地であったが、その首長として統治していたのが「牡丹長者」であったということである。
長者とは、その地を治める行政長官であり、その他に分限者と呼ばれて勢力をもつ大金持ちを指すのである。竹飯の長者原という地に、屋敷の遺構がある。屋敷の周囲にめぐらしていた土塀の一部が約50米の直線状に、小高い丘陵として残っている。この土塀の長さから長者屋敷の全体の広大さが想像され、当時の権力の偉大さがしのばれる。
その広い屋敷の一隅に「長者の手洗鉢」と呼ばれている、細長い形をした石があり、葛がからんで放置されている。
牡丹長者は、外敵に対する守備のために、すぐ後ろにある山頂に城を築き防衛に気を配った。その城の美しさは、丁度、大空に舞う鶴の姿に似ていたので、人呼んで舞鶴城と名付けたという。今もこの地方を「舞鶴」という。
又、長者は信仰心が厚くて清水観音を祭り、菩提寺(萬願時)を建立して深く神仏を敬った。毎年の清水観音の祭礼準備には、竹飯村の信者が出かけて行ったとのことである。竹海小学校の春の遠足は、最近まで清水山へ行っていたのも、これと何等かの関係があったのではなかろうか。
竹飯の萬願寺の裏手の墓地に「牡丹長者の墓」と伝えられている五輪塔が三基、一段小高くなったところに蔦にからまれて静かに立っている。
最近の専門的調査では、この三基の五輪塔は年代的には不明であり、形が不安定なことである。
又、墓石ではなくて、供養塔であろうと予測されている。しかし、竹飯地方に残る者の伝説は「伝説」として、その土地の人々の心のよりどころとして、これからも残していきたいものである。
この五輪塔を中心に、南北朝時代の年号の塔や、歴代住職の墓石が薮の中に静かに建っている。
海津橋と水天宮
海津地区は標高4メ-トルの低地で、飯江川と大根川にはさまれた地形のため水害の常習地帯でありました。明治15年旧2月大洪水があり、飯江川に架かった海津橋が流失し、堤防は決壊して一面濁流の海となり、住家の6割程は床上まで浸水しました。
海津村では村会を開き洪水の後始末について審議し、海津橋流失現場において水流の状況等調査するとなり、青年数名を泳いで飯江川を横ぎらせた。そのうち一人が流されて水死し人柱となった。そのような事情から、水天宮の勧請を決め、翌明治16年5月5日、全国水天宮の総本宮である久留米市瀬の下水天宮の分霊を受けて、村の中央海門の地に社殿を建立して水難の守護神として奉祀しました。
海津郷土史・水天宮の項に
「年々村内男女・子供水難に会うこと絶えざるを以て、この機に3月弥生村内数十名の有志発議して、久留米瀬ノ下水天宮を奉祀し、その御神徳 を以て守護祈願のため、現在地に社殿を造営し水難の守護神とする。」
とあり、まいとし5月5日を例祭日とし、神事が行われ家々では客を招待し酒宴が開かれてきました。
海津橋は災害の都度修復を繰り返してきましたが、昭和53年海津から田尻に至る町道が県道に格上げされ、堤防の強化と共に、鉄筋コンクリ-ト橋として竣工し、その後の災害復旧工事による護岸工事が飯江川・大根川共に強固に行われ、水害から免れることになりました。
竹飯と海津の平家落人伝説
要川の合戦に敗れた平家の女官達7人が7霊の滝に入水して果てましたが、その内2体が田鶴の瀬川(むかしは飯江川を田鶴の瀬川と呼んでいた)を流れ下り、1体は竹井の堰に、1体は海津の下井手に流れつきました。村人はそれぞれ7霊宮を建て、女官の霊を祀りました。
海津郷土史(昭和53年編集)に大要次のような記述があります。
海津の歴史の上に、源平の合戦が生々しくきざみつけられているのは茂出の極応寺のある辺り一帯である。壽永年間平家は壇の浦に於いて源氏と戦い、利あらずして壊滅的打撃を受け、晨くも安徳天皇は二位の尼にいだかれて海底に没し給い、名ある高位・高官の将士たちは殆ど戦死してしまった。残党の中に、或いは 四国に、或いは九州に逃れ、山中に身をひそめ、或いは海浜で漁夫に変じて身の安全を計った。筑後路に入った平家の一族は水の駅貝の浦(海津の旧名)に来り、戦いの疲れをいやし、ここに戦陣立て直しを計った。激しい戦いに見も心も共に さいなまれて憔悴の極に達した公達は、海辺の波の音を耳にして過ぎし日の修羅
の巷を夢に見て、ここにしばしの休息をした。そして病におかされ、或いは深手の傷が因となって一命を落とし、此の地に葬られた人々もかなりの数にのぼった。
其の人々の塚が転々と残って、在りし日の事実を物語っている。数十日の休息にて、精気を取り戻した平家の武士達は川に沿って、上流小萩、ゆすりの付近、要川の地にて源氏の追撃を待った。
・・中略・・残った者は肥後五ケ荘・五位軒谷・デ-ラ・沖端などに逃れ、再び海津茂出の土地を踏んだ者達は、ここに薬師如来堂を建立し、戦いの傷を神仏に祈った。又当時の野戦病院が設けられ、数十隻の船は脱出せんとする人々のために近くの海につながれていた。
要川の近く中原の瀑布に身を投じた7人の女官の霊は、瀑布近くに七霊神社と して奉祀され、村民の尊崇を受けている。7人のうち、1人は竹飯の堰に、1人
は海津の下井手の付近で拾い上げられ、竹飯では門前に、海津では北阿蘇神社横に一堂宇を設けて奉祀した。村民これを厚くうやまって年々の祭りを絶したこと はない。
茂出地区・佐戸八蔵氏の先祖は敬神の念厚くして、此の七霊神社に神田として、 海津前田2番地8畝17歩を寄進している。茂出地区と源平戦いとの密接な関係がここにも物語られている。
民話と伝説 なまずを喰わぬ海津

南北朝の頃、南朝後醍醐天皇に味方した肥後の菊池、阿蘇一族は、足利尊氏と多々良浜で激戦のすえ破れて肥後に帰る途中、阿蘇惟次は瀬高大木の里宮園城主大木貞久の手厚いもてなしを受けて、しばらく休息をした。惟次は、城主のすすめで古川の地に阿蘇大神の分霊を祀った。ときに延元2年(1327)であった。後に元和8年(1623)江戸初期に現在地に社殿を移し、海津氏子の産土神として今日に至っている。
大昔のことである。阿蘇五岳の周囲は外輪山にかこまれた大口湖であったという。ある日、健磐竜命が阿蘇外輪山をお斬りになった。その時、大口湖の水が激流となって有明海へ流れ出した。命が激流におし流されて、あわやという時に何処からともなく大きな鯰があらわれて、命をお助けしたという。それ以来阿蘇神社系の氏子は鯰を喰わぬようになったということである。又、こんな伝説もある。
大昔、地震がおきるのは、地中の深くに大きな鯰が住んでいて、時々体を動かすので地震がおきるのだと信じられていた。
阿蘇山は大昔、巨大な火山であり、外輪山の中は旧火口であった。その後阿蘇五岳が火山として残り、現在は中岳だけが噴煙を空高く噴き上げ、時々爆発を起こしている。
昔の里人は、あまりの恐ろしさに阿蘇神社に集まって鯰の怒りを静めるために一心にお祈りを続けた。
鯰の心を和らげるために氏子のあいだでは喰べないという習慣が、阿蘇神社信仰と一つになって今日まで続いているのである。火の国阿蘇から分霊した海津阿蘇神社の氏子も又鯰を喰べないのは当然のことであろう。