飯江川(10・海津橋から高田堰)

海津の水害
海津は元は港であった。従って標高4メ-トル程の低地であった。昔から「海津は蛙の小便しても大水がでる」程の洪水の常習地帯であった。それは飯江川と大根川に挟まれ、クリ-クが縦横に走っているためである。昭和10年頃までは学童の通学や緊急事態に備え小船が置かれ、人々はハンギリ・バンコ・材木等を利用して筏を組み連絡用にしていた。
更に飯江川下流にある高田堰の開閉権が別記のとおり下流側にあるため高田堰よりせき止められた河水が、上流域に押し上げ洪水を深刻なものにしていた。
昭和47年の大洪水に例にとれば、
海津郷土史に次のように記述されている。
昭和47年7月大洪水
1・気象状況 7月3日の12時には梅雨前線が九州北部に姿を現し、前線の南側に向かって東より南にむけ湿潤な大気を送り込み、九州北部に強い雨が降りはじめ、4日6時~12時に筑後平野南部地域で、柳川を中心に強烈な雨が降り、柳川では6時~10時の5時間に344ミリの降雨を記録し、大被害 をもたらした。
2・出水状況 局地的な異常降雨に、昭和28年・37年の洪水に次ぐ出水であった。7月3日から6日までの雨量は次のとおり 柳川 565ミリ・瀬高 486ミリ・山川 389ミリ。
3・被害状況 特に被害の大きかった飯江川は堤防が海津地区で数ケ所決壊し、高田町は被害発生による災害救助法の適用を受けた。
今回の出水は昭和28年以来のもので、特に海津地区の被害は昭和28年洪水以上であった。
飯江川は両岸数ケ所決壊し、海津は洪水により孤立し全くの孤島と化すこと数日に亘った。5日には災害救助法の適用を受け、自衛隊出動を要請、決壊箇所応急修復、老人子供は船によっ台地にある竹海小学校に避難させた。死亡者や重症者が出なかったことは幸せであった。
家屋は殆ど浸水し多くは床上まで浸水、道路は自衛隊の鉄船の交通路となった。
農作物は6月下旬田植えを終わった直後であり、飯江川の堤防決壊による水田の流失埋没と、濁流による冠水に苗が枯死する等のため、植え替えを要するもの多く、補植のため他市町村より救援苗の拠出を依頼した。
国・県は災害の根本原因が、飯江川・大根川に挟まれた地であること、排水施設が不備であることを再認識し、緊急対策として両河川の大改修工事が進められ、現在ではこれら工事の完成により、大災害から免れるようになった。
広報たかた平成14年6月17日号より
浸水被害を防止するために~大根川排水機場が完成

大根川水門
大根川と飯江川の合流部に排水機場が設置され5月19日、同排水機場で高田、瀬高、山川町の3町長出席のもと竣工式が行われました。
大根川流域は飯江川流域と比べて川底が低くなっており、排水時にはこの合流部から大根川が氾濫し、浸水被害が出ていました。これを防止するため大根川河川改修事業として、平成7年度から平成13年度までの7年間かけて建設されたもので、毎秒10トンの排水能力を持ち、地元の念願がかない、地域の浸水被害の発生防止に期待が寄せられています。
広報せたか平成14年6月号より
待望の「大根川排水機場」完成
長島地区に大根川排水機場が完成士、5月19日、落成式が行われました。
大根川は毎年梅雨時期にになると、広い範囲で浸水被害が発生するなど、地域住民の悩みの種でした。平成2年7月の大洪水は、皆さんの記憶にも新しいはずです。この時は、5時間に230ミリという記録的な集中豪雨により、流域周辺地域で244軒の床上浸水・927軒の床下浸水が発生するなど、多大な被害を受けました。
今回の排水機場は、毎秒10トンもの排水機能を持ち、水害発生を防ぐ「守護神」として大きな期待が寄せられています。
高田堰
今の高田堰は昭和51年3月、旧高田堰のすこし下流に建設されました。
受益面積は710ヘクタ-ル余りで、旧高田堰と同じ面積です。
高田堰によって湛えられる水量は莫大で、飯江川においては海津橋近くまで。
高田堰の上流で合流する大根川においては築切(ツイキリ)橋まで湛水します。飯江川においてはその間、数ケ所の取水口があり、岩津方面の水田をうるほし、堰よりの導水は開・江浦方面700ヘクタ-ル余の水田に感慨します。
大根川は山川町河原内方面の山地より山川町・高田町・瀬高町地内を流れ下り高田堰の上流にて飯江川に合流します。合流点には巨大な開閉水門が、昭和54年に建設されました。海津橋と高田堰の間の橋は安手橋・古賀橋の二橋が岩津から瀬高方面に至る町道に架かっています。
大根川の合流点より下流は、左岸が高田町、右岸が瀬高町です。むかし秋になるとこの巨大な湛水が、堰を開けて放流され、高田ん井手のあかる日として、人々が川魚とりに蝟集したものです。
高田堰の建設について、
高田町誌に次のように記載されています。
土木水利篇に
高田井堰は高田村潅漑用水のかなめである。飯江川と楠田川の自然流水によって農耕ができた時代には相当に長年月である。しかし埋立工事によって水田が拡張するに従って水不足となり、山谷を利用して溜め池を作り、必要に応じて開拓地に送った。
・・中略・・柳川藩内で干拓工事のうち、黒崎開は最も広い面積である。これは藩の直営であった。飯江川の水をせき止めて溝を掘り、江浦方面に流入させてた。これが高田いび・高田なめしである。それでも水不足であった。それで遂に郷土の潅漑用水を矢部川に仰ぐことになった。
瀬高町大江の布引川を小川に延長し、長島(オサジマ)にて飯江川に合流させ、井堰も高田井堰と改称した。
ここに矢部川の水と飯江川の水が合流して615町8反歩の水田に恩恵を与えることとなった。
高田井堰の名称をもって五ケ村合併の新町名とし、高田村とつけたのはまことに故あることである。高田井堰について、柳川藩土木台帳に「三池郡高田井手掛理、寛政4年9月」戸あり、この年に高田井堰は建造されたものであろう。
更に農地開発篇に
高田井堰は飯江川と高田村今福から瀬高町河内え締切り左岸に取り入れる。
そもそも
高田村の名は堰のある小字高田に由来し、今は人口2万人の村の名称である。この一事で村民のこの堰に対する関心の程がうかがわれる。
高田堰の創設年代は不明である。柳川藩の「御領分汐土居間数覚」には、今福高田樋(イビ)とあるから、黒崎開起工以前からあったことは確かである。
高田井堰の用水たる山門郡内新川水利権交渉の顛末の概要には、黒崎開の開拓は、飯江川筋え高田堰を築造し、その用水潅漑区域を定める以後であるとしているが、其の典拠を示いていない。
と黒崎開の干拓に必要な用水の確保のため高田井堰をつくった、と記載した上で・・・海面の埋立て干拓が拡大するにつれて高田井堰・高田なめしを造ったが、まだ水が足りない、それで矢部川のみずを引くため広瀬堰の水を布引川・小川を経て長島にて飯江川に落とした。・・・・と記し、更に高田井堰の下流側と上流側が水利権による紛争が起こったようで、その経緯について高田堰の上流には、海津・小川・古島・長島・岩津など海との因縁浅からぬ地名がある。
実際にこれら地域のおよそ二百町歩は、かって海であり地盤の標高が低くて排水不良になりやすい土地である。高田堰を設ける際の上下流側の契約については何もない。
堰の開閉権は一切下流側が掌握していた。洪水の時に堰を開放しなければ上流は増水のため被害を蒙る。こういう場合上流側に全然発言権が、ないことは例外である。 これは藩営で黒崎開の干拓が行われ、更に下流にお手作があり、封建領主の権威により上流側の苦情は封殺されたと解釈すべきであろう。
実際に昭和8年、高田堰を現在の捲上扉に改修するまでは洪水の度ごとに上流側から堰の開放を懇願されても下流側では、開放しなければ堰自体が、破損する恐れがあると認めなければ開放しなかった云々。
次に高田堰の改修について
明治末期ごろ高田堰の左岸に上流側が小川井堰(又は二丁井堰とも言った)を設け、大正5年に高田堰の右岸に放水路をつくった。昭和8年に高田堰の堰体を鉄筋コンクリ-トとし、堰を人力操作扉に改造した。
これは県の半額補助事業で半額は瀬高町よりの寄付金と高田村の負担で、この改造により、洪水時には堰を開放し、減水時には閉鎖することが容易となり、多年に亘る懸案は解決した。
昭和20年に堰の管理を県に移管し、操作は高田村が行うことになった。
飯江川の水利潅漑は高田井堰で終わります。堰の下流にある飯江川橋より下流は、有明海の満潮時には塩水が、逆流しますので井堰はありません。蛇行しながら高田町と瀬高町の境をゆっくり流れ、江浦・徳永の地にて矢部川に合流します。
河口付近の船だまりを洗い、静かに矢部川に流れ入る様は長い旅路に使命を終えた安堵のようなものを感じます。
おわりに
飯江川改修はほぼ完了しました。両岸のコンクリ-ト護岸、嵩上げされた強固な橋、洪水時には水圧によって開放される可動堰、人々と耕地を守るこれら工事により、安全と便利さは確保されました。
水稲耕作が伝えられた弥生の昔から、人々は川水の利用を様々に行ってきました。堤防もない自然流下の時代から、堤防を築き堰をつくり、導水路を設ける等の努力が続けられてきました。飯江川にまつわる伝承や、現在まで行われてきた諸工事の状況等について、各集落の年長の方々、高田町建設課の課長さんや利水にたずさわった方々、このレポ-トをまとめるにあたって協力して下さった浦川さん等々、皆さんありがとう、ございました。
人類は太古の昔から常に進歩を求め続け、今日の文明を築き上げました。特に昭和30年代以降の発展は驚くばかりであります。しかしその反面私達が失ったものも少なくありません。除草剤や農薬の普及で魚や蛙や虫類に至るまでたくさんのものが姿を消したり、減少しました。河川工事による生息条件の変化で、川は魚の棲みにくい条件にあります。以前は枦並木が続き、初夏になると川べりは蛍が乱舞していました。今はそのころの自然はありません。最近はそういう状況の反省から、進歩と環境をいかに調和させるかが、地球規模で問題になっているようです。
堺 勝 文書より
飯江川(1~10)を編集しましたが、民話と伝説が7編ふくまれています。
堺勝さんの文書に写真を挿入しています。井堰については除外しているものが多くあります。