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千寿の楽しい歴史
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みやま市高田町の民話と伝説 3(千寿の楽しい歴史)
高田町の民話と伝説 3
⑪ 濃施の北向き地蔵さん   濃施 
JR渡瀬駅の東側に、鹿児島本線と平行して昔ながらの狭い道が南北に通じている。その道端に一坪余りの小さなお堂が建っている。その奥に棚が造ってあり、胸掛をした石作りの地蔵さんが中央に安置してあり、その左にお観音さん、右にゴロゴロさんが合祀してある。
みやま市高田町の民話と伝説 3(千寿の楽しい歴史)_a0137997_2254236.jpgここの地蔵さんは、北方を向いておられるが、北向きの地蔵さんは大へん珍しくほとんどの地蔵さんは西や南を向いて立っているとのことである。
なぜ北向きに立っておられるかは明らかではないが、大へん御利益があり霊験あらたかとのことである。

お堂の近くのおばあちゃんを訪ねると、次のような話をしてくださった。
「瀬高に嫁っとる娘が、産まれてまだ小まかな頃は、そらあ塩涎(よだ)れのひどかったんも。着物の襟(えり)はいっでんジュクジュクしとったたんも。洗濯すると襟のところが一番に破れてしまうごつひどかった。顎(あご)んにきゃ、塩涎でふやけてくさんも、赤白うなって、そりが痛せ泣こったたんも。
「あんまりむぞかったけん、神さんに拝ってもろたらお告げがあったたんも。」
「あなたの近所に地蔵さんが祀ってあるはず。その地蔵さんの胸当てを借りて、子どもさんに当てさせなさい。さすればきっと塩涎れは全治するでしょう。」

「早速、北向き地蔵さんの胸当ば借ってきて、子どもに着けとったたんも。そして毎日地蔵さんに子ば連れておまいりしとったたんも。そしたら自然と塩涎ればくらんごつなったたんも。そっでけん、花柄の胸当ば作っ地蔵さんにお礼まいりばしたたんも。こん地蔵さんな、とても御利益のあっとばんも。ほんに有難かばんも・・・・」

この霊験あらたかな地蔵尊の右隣に「ゴロゴロさん」がお祀りしてある。
四角の台石で中央がへこみ、そこに直径20糎余の石塊がのっている。石を動かすと、台石と石塊がすれあって、ゴロゴロと音を出すのである。音が丁度、雷の音に似ているところから「ごろごろさん」と呼ぶようになったらしい。

⑫ 溝尻の北向き地蔵さん   溝尻
みやま市高田町の民話と伝説 3(千寿の楽しい歴史)_a0137997_22132146.jpgこの地蔵さんについては、溝尻地方に次のような伝説が残っている。
天保4年(1833)は全国に大飢饉がおこり、餓死する人もあった程のきびしい年であった。その頃この地方にも飢饉の苦しみに追い打ちをかけるように、伝染病が江ノ浦溝尻の町外れ、三池街道の一角に小さな地蔵堂が川端に建っていて、二体の地蔵さんが祀ってある。

向かって右側の地蔵さんは台石に「天保四年」とあり、「三界万霊」と刻くしてある。頭の部分は石が欠けて顔面も明確ではない。又、首が落ちたのを、継いだ痕跡が残っている。流行して大勢の人が病に倒れ、死者が出て一家全滅の家もあったそうな。
なかでも抵抗力の弱い幼い子ほど病にかかり、次から次へと死んでいったそうな。

今日のように衛生思想の普及していない昔のこととて、伝染病を防ぐ手段もわからず、ただただ恐れおののくばかりであった。村人たちは幾度となく集まっては、何かよい手段はないものかと話し合い、地蔵さんをお祀りする事になった。やがて伝染病も治まり、溝尻出店も以前の賑わいをとりもどしてきた。それからは毎年8月24日を地蔵さん祭りの日と決めて、村をあげてのお祭りをするようになったそうな。この地蔵さんは「南無延命地蔵願王菩薩」で、二体の地蔵さんを並べてお祀りしてあり、溝尻の村人たちの信仰を集めている。

それからは平和な年が過ぎたが、ある年のこと大事件が起きたそうな。大切な地蔵さんの首がなくなっていた。村人たちは不吉な予感におそわれ、恐ろしいことが起きはしないかと地蔵さんの探しをはじめたそうな。
地蔵堂の横の川を探していた村人が丸い石を拾い上げて見ると、地蔵さんの首であるが、顔の部分は欠けて、前後の見境いもはっきりしない形であったそうな。

仁業寺の和尚さんに相談して、頭の部分を胴に接いでもらったそうな。村人たちは安堵してこの件は一件落着となったということだ。この件があって以来、村人たちは以前にも増して地蔵さんに対する信仰を厚くしていった。
その後、平穏な年が幾年かすぎて、再度地蔵さんの首がなくなった。村人が総出で探したが、とうとう探し出すことが出来なかった。

今度は、新しく地蔵尊を刻んでお祀りすることにしたのである。昭和44年12月の再建である。
この二体の地蔵尊は北を向いてござる。南向きは多いが、北を向いた地蔵さんは大へん珍しく、霊験あらたかとのことである。子どもの涎を垂れるのを止めて下さるということで、今もお拝りにくる人が多いという。
 又、このお堂の横を流れる小川は、馬入れ川でもあり、農作業で泥にまみれた牛やうまを川に引き入れて洗っていた。農夫も田んぼの帰りに足や手を洗う場所であった。一方、近所の子ども達にとっては、水遊び場として夏は一日中、子どもの声で賑わっていたが地蔵さんのお陰で、今までに一人も溺死した者がないという。
村人にとって、大へん有難い霊験あらたかな「北向き地蔵さん」である。
今でも溝尻の子どもたちは、8月24日には自分達で地蔵さん祭りをして夏の一日を楽しく過ごしているのである。

⑬ 地蔵菩薩由来記
釈迦仏が入滅後、未来としての弥勒仏が出現するまでの56億7千万年の無仏の世に比丘(びく)形(修行僧の姿)を現わし、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の世界の中で苦しむ人々を、教化救済されたのが地蔵菩薩である。

地蔵信仰は、儀軌(ぎき)によれば「内に菩薩の行を秘し、外に比丘を現わし、左手に宝珠を持ち、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、千葉の青蓮華(しょうれんげ)に安住す。」地蔵菩薩の像はこれにもとづいて作られ、世の中に普及していったのである。

日本では、平安時代の後期頃から貴族のあいだで地蔵信仰が高まり、地獄、極楽の観念が一般に広まるにつれて「死者が冥土(めいど)へ行って地獄の閻魔(えんま)大王の裁を受け、ひどい苦しみにあうことから救済して下さるのが地蔵菩薩である。」と信じられた。

鎌倉時代になって、地蔵尊の姿が一定化してきた。そして、現実界と冥界との境にあって、冥界に行く死者を救済するという性格が強調され、阿弥陀、浄土信仰と結びついて民間に広く浸潤(しんじゅん)していったのである。
たとえば、道祖(どうそ)信仰の「境神(さえのかみ)」と結び付き、村や国境や辻などに建てられるようになったり、地蔵尊の顔形が童形であることから、特に子どもを救済するという信仰が流行していったこともある。中世以降の各地の伝説に「子安地蔵」など少年を救済する話が多く残っている。又、地蔵の文字の響きから「地神」と結び付き、地蔵尊がその土地に深く根をおろしたものであった。

こうしてあらゆる民間の願望を聞き入れてくれる菩薩として、ひろく崇信を集めてきたのである。
江戸時代には「延命地蔵」が流行している。今日でも「水子地蔵」、「交通安全地蔵」など、時代の世相を反映した地蔵信仰が根強く民間に広まっている。
 毎月の24日は地蔵講が各地で開かれ、地蔵尊をお祭りする行事や催しが地域の伝統行事になっているところも多い。
 ※ 六地蔵(諸仏地蔵)
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六つの世界の中で苦しむ人々を、六尊の地蔵によって救うために、六体の地蔵尊の姿を一つの石柱のまわりに彫刻して建立したものである。
 大定智悲地蔵・・・・・地獄界 清浄無垢地蔵・・・・・修羅界
大徳清浄地蔵・・・・・餓鬼界 大清浄地蔵・・・・・・人界
大光明地蔵・・・・・・畜生界 大堅固地蔵・・・・・・天界
※ 六地蔵の起源
「今昔(こんじゃく)物語集」似寄れば、周防(すおう)国(山口県)一の宮の玉祖惟高(たまつおやのこれたか)は、長徳4年(998)病没して冥途をさまよい向かう途中で、端厳(たんごん)なる姿をされた六人の僧に出会う。 それぞれ香炉を持ち、掌を合わせ、宝珠を持ち、錫杖を執り、花筥(はなかご)を持ち念珠を持っておられた。

最初の僧が、さまよう惟高に向かって「我々は六地蔵なり。六道に苦しむ衆生のために六種の形を現わせり。
汝は早々に本国に立ち帰り、六躯の形を顕し造って心をいたして恭敬すべし。」と命じた。
蘇生した惟高は、早速に冥土でみた通りの六地蔵尊を制作して、開眼(かいがん)供養をしたという。これが六地蔵の信仰の起こりだといわれている。
わたしたちの高田町にも、六地蔵の石造文化の遺跡物が数多く残され、その制作のちがいから、筑前型、肥後型に区分される。



 
by kusennjyu | 2010-03-25 22:21 | みやま市の民話と伝説
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