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千寿の楽しい歴史
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みやま市高田町の民話と伝説 4(千寿の楽しい歴史)
高田町の民話と伝説 4
⑭ 立石水門の人柱  江浦字立石
延宝年間(1673~1680)に干拓された黒崎開は柳川藩の大事業であった。
南は黒崎岬の麓から、北は三開水門に至る堤防の長さ4キロ、干拓面積約二百町歩に及ぶ大干拓地である。干潮のわずかな時間に、海中に4キロもの長い堤防を築いて潮止工事をすることは、当時の柳川藩にとっては大事業であり、役人も夫役に従事する農民にとっても作業は困難を極め、折角築いた堤防も、大潮の波に流されたり、一夜の雨で崩される事も度々であった。そのたびに心を引きしめて役人、農民は一丸となって工事に励んだのだった。

しかし、人の力には限りがあり、一年、二年と工事が続けられるうちに疲れが出て、怪我人や病人も出はじめて工事の進行も鈍りがちであった。
そんな或る日のこと、その日は朝からどんよりと雨雲がたちこめ、今にも雨が降りだしそうな天気であった。風が出てきて雲の流れが速くなった。海から寄せる波も次第に高くなり、波頭が白く泡立ってきた。時間が過ぎるにつれて折角築いた堤防に白波が大きく打ち寄せ、しぶきが堤防を越えて内側へ飛散するよえになり、とうとうこの地方一帯は暴風雨に襲われてしまった。

嵐の一夜が明けるのを待ちかねた農民たちは、工事現場の堤防に集まり、一言の言葉もなく、只呆然と立ちつくすのであった。
堤防のそこ、ここで土が崩れ落ち、今までの作業の苦労が元のもくあみになる程に荒れていた。
役人も農民もこの時程、大自然の力の前に人間の無力さと、自然の恐ろしさを感じたことはなかったろう。農民の中には、力がぬけてその場にへなへなと座り込む者もあった。

その時、農民の群れをかき分けるようにして一人の老人が進み出て、村人達に向いて言った。立花の長老「ソウマダイサク」である。「皆の衆、俺の話を聞いてくれ。
今度の堤防工事については、一度ならず二度、三度とひどい目に会ってきた。
折角ここまで仕上げてきたのに、又はじめからやりなおしだ。このままでは何時までたっても干拓を完成させることは出来ない。

怪我人や病人もだんだん多くなっている。このままでは我々立花は全滅してしまうかもしれない。俺はよその干拓工事で、我々と同じ苦労をした農民の話を聞いたことがある。海神の心を鎮めるために、農民の代表として誰かが人柱に立ったので工事が無事に進行したそうだ。

この黒崎干拓も人見御供によって工事の安堵を願ってはどうだろうか。」 ダイサクは、ここまで話してまわりを見渡した。
村人たちはお互いに顔を見合わせているが、誰一人返事をする者はなかった。
ダイサクは話を続けた。
「我等の代表として人柱に立ってもらう人は、皆の衆のなかで、今着ている着物のほこれを横縞の布で繕ってある者が、その大役を引き受けてもらうことにしてはどうだろうか。」

それを聞いて村人たちは、あわてて自分の着物を調べた。
「俺のは縦縞の布で繕ってあるぞ。」
「お前のはどうだ。」
みんなお互いに見くらべながら着物を調べたが、横縞の布を当て布にした者は誰一人いなかった。みんなは、ホッと胸をなでおろした。

ダイサクはやおら口を開いた。
「俺の着物が横縞の布で繕ってある。ほれ、この通りだ。」と着物の袖を高くさし上げた。
「俺が皆の衆に代って人柱に立とう。きっと海神も鎮まって下さるだろう。あとの工事は残った者で完成してくれ。」
村人の止めるのを振り切って、ソウマダイサクは従容(しょうよう)として生贄(いけにえ)となり堤防に埋まっていった。
この事があって以来、役人も農民も今まで以上に精を出して働き、工事は順調にすすんで貞亨元年(1684)黒崎開干拓はみごとに竣工したのである。

みやま市高田町の民話と伝説 4(千寿の楽しい歴史)_a0137997_22445971.jpg以来、今日まで三百年以上たっているが、二百町歩の黒崎干拓に黄金色に波打つ稲穂を見渡す立石堤防の上に、ダイサクの供養碑は立っている。
毎年、秋の社日祭と兼ねて今日でも八軒の農家が、黒崎宮の神官を呼んで感謝祭が行われている。

土地の人たちは、この小さな碑を「ソウマさん」と呼び、立石地区の恩人として感謝の念を持って大切にお祀りしている。又、黒崎開には、今日でも作業着とう破れを繕う場合には、決して横縞の布を使ってはならないと古老の言葉が残っている。

(注)「ソウマダイサク」の文字は、記録になく語り伝えであるためにカタカナで表現した。

 
⑮ 黒崎の無縁地蔵尊群  黒崎開

みやま市高田町の民話と伝説 4(千寿の楽しい歴史)_a0137997_22495325.jpg
高田町の開、江浦地方の殆どは人工による干拓地であるが、今日のように干拓が進む前(350年以上)の郷土は海であった。

その頃の地形は、甘木山の丘陵が有明海に長く伸びた半島で、その先端には一際高く黒崎山があった。
波打ち際には大小の奇岩、変岩が累々と連なり、山には老松が繁って白鷺が翼を休め、誠に風光明媚な場所であったという。

伝説によれば、その昔、武内宿弥が筑紫地方の観察の折、有明海の舟上から遠くこの景色を眺められ「あれに見ゆる黒の崎に舟を寄せよ」と仰せられたという。
宿弥の舟が近づくと白鷺がおどろいて一斉に空に舞い上がったという。
 
それから後、この地方を「黒崎」と呼ぶようになり、白鷺が飛び立った付近を「鷺山(さぎやま)」と呼んでいる。
さて、黒崎半島の地形は南麓はなだらかな斜面になっているが、北側はこれとは逆に傾斜がひどく、断崖になった地域もあり険しい地形になっている。地層構造からみて、黒崎山から鷺山にかけての地層は、陥没によって隈川の河口付近は深みになっていると考えられる。

有明海特有の干満の大きな潮流と、矢部川、筑後川、諏訪川等の流水と、黒崎半島の地形等の関係が相互に作用して、この地方の潮流に一定の法則のようなものが出来たのであろうかと思われる。海上の浮遊物は潮流に運ばれて黒崎半島の北麓に漂着していたのではなかろうか。特に治水工事の完備していない昔のこしであり、暴風雨のあしなどには、人馬の屍がこの海岸線に漂着した。村人は変わり果てた姿をあわれみ、ねんごろに弔いをして地蔵尊を建ててその霊を慰めたのであろうか。黒崎山の北麓を歩くと、あちこちの茂みの中に無縁仏の地蔵尊が祀ってあった。

昭和37、38年頃の大雨の時、この地域に地滑りがあり、地蔵尊群が地中に埋まったので、大牟田市の手で黒崎山公園の北側に移して祀ってある。
by kusennjyu | 2010-03-25 22:45 | みやま市の民話と伝説
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