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千寿の楽しい歴史
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みやま市高田町の民話と伝説 5(千寿の楽しい歴史)
高田町の民話と伝説 5

⑯ 江浦揚の宇佐八幡宮由来    江浦
みやま市高田町の民話と伝説 5(千寿の楽しい歴史)_a0137997_14254277.jpg壇ノ浦の戦いに敗れた平家が、最後の決戦場と飯江川をはさんで宇津付近と、要川をはさんで戦ったがいずれも敗れて、主力は肥後五木方面へ逃れ、一部は沖ノ端、江浦の地に逃れたと伝えられている。

文治年間(1185)頃、江浦の揚の地に長井十郎藤原正明という人が住んでいた。 まだ寒気の抜けきらない3月のはじめ、有明海に出て漁をはじめたそうな。 寒いせいか今朝は漁獲も少なく、今日はこれまでと最後の網を入れて引き上げたときに青色に輝く3個の石がかかってきたそうな。

「不思議な石だなあ。」とひとり言をいいながら海に捨てて家路についた。
その晩のこと、寝入っている正明の夢枕に一人の白髪の老人が立たれて「お前が日海で捨てた石は、恐れ多くも宇佐八幡宮の分身出あるぞ。早速明日に持ち帰り、村の中を持ち廻り重きに耐えきれず置きたる処に社地を設けて奉祀せよ。

わしは、長島釣殿宮に仕える高瀬毘沙丸である。腹赤の貢上物を朝廷に献上する役務の者である。ゆめ夢疑うことなかれ。」と告げて姿は消えてしまったそうな。
正明は、夜が明けるのももどかしく早速に霊石を持ち帰り、お告げのとおりにして村人の加勢により霊石を置いた処に社殿を設けたそうな。

これが江浦揚のお宮のはじまりと伝えられている。時に文治3年3月3日(1187)であったそうな。
このお宮の神事の一つに「粥占御試祭」というのがある。
粥に発生するカビで、その年の気象、農漁業等を予測する伝統行事である。昨年収穫された御初穂(稲)を1升2合(12ケ月)、正月に神前にお供えする。その米を1月15日に粥に炊いて方位を印した銅盤に入れて神殿に1ケ月間安置しておく。

1ケ月が過ぎた2月15日、神事お祓いをして銅盤を持ち出し蓋が開けられる。粥の表面に発生したカビの色彩、形状、位置(方位)等を占師によって慎重に判定し、その年の気象、作柄等が知らされるのである。
藩政時代には、粥占の結果は直ちに柳川藩庁へ使者を走らせて報告がされ、柳川藩では、粥占いの結果を参考にしてその年の藩政方針をたてていたそうである。
今日でも神社の氏子には粥占いの結果を印刷して報告されている。

⑰ 江浦の恩人「道庵さん」  江浦
みやま市高田町の民話と伝説 5(千寿の楽しい歴史)_a0137997_14325265.jpg江浦の徳永は、矢部川の河口にあって藩政時代には「番所」が置かれ、矢部川を上り下りする舟の検問をしていた。又、天草や島原方面から海産物を荷揚げして、商売をする港としても大へん繁盛したところである。

徳永開は寛永14年(1637)に干拓され、その後、その外側に古開、内縫、外縫、川崎開、高木開と次から次へ干拓がすすみ、農地も広がり人口も増加していった。 しかし、只ひとつだけ農民にとって大きな悩みがあった。それは毎年雨期になると、きまって河川が氾濫して田畑が冠水し、時には堤防が決壊して一面が泥海となり、ひどい洪水になることであった。

その頃、徳永に道庵という人がいた。小さい頃から頭がよくて、川の流れに特に心を持ち、成長するにつれて学問に励み、土木工事の技術に学問的理論を加え、すぐれた才能と技術を持つまでに成長していった。
毎年被害を受ける徳永、江浦地区の様子に心を痛め、堤防工事の工夫、流水に対する工夫など色々と研究をかさねて、矢部川堤防の再構築に取り組んだ。長い間の苦労のすえ、堤防改修は終わった。その後は、雨期になっても洪水に見舞われることもなく、農民は安心して農業に励み収穫も増加して、江浦地区は、次第に豊かになっていった。

道庵の没後、里人たちは矢部川の見える堤防上に石造りの社を建立して江浦地区の恩人として祀ったのである。道庵社の建立が何時だったか、年月は不明であるが、今も矢部川の流れを見つめながら堤防上に社がある。

江浦小学校の春の歓迎遠足は、決まって学童、保護者が打ち揃って道庵社詣う出も兼ねて矢部川堤防に遠足するのが習慣になっている。矢部川の引き潮に乗って下る漁舟に手を振りながら、家族毎に車座に陣取って弁当を食べるのどかな春の一日である。

この春の年中行事の意味するところは、今日の江浦地区の繁栄と安住があるのは、道庵さんの骨身を削る思いで堤防工事に尽力されたお陰であると、住民の感謝の心のあらわれではなかったろうか。
 先人の苦労は決して忘れてはならないのである。
by kusennjyu | 2010-03-26 14:38 | みやま市の民話と伝説
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