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千寿の楽しい歴史
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2010みやま市高田町の民話と伝説 6(千寿の楽しい歴史)
高田町の民話と伝説 6

⑱ 苦楽橋の由来  黒崎開

黒崎開の地先に続く三十丁開は元禄13年(1700)の干拓である。続いて永治開は文化9年(1812)から12年間かけて、樺島斗一が精魂かたむけて干拓したところで文政3年(1824)に完成させたと伝えられている。
この永治のことを、干拓者の名前をとって「斗一開」とか、堤防の形が指矩(曲尺)に似ているところから「矩手(かねんて)開」の別名で呼ばれている。

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これらの干拓地には潮止めと排水のために樋門が設けてある。その当時は、干拓工事のすべてが人の労働力によってなされていたので、干潮のわずかな時間に作業をしなければならず、樋門の幅も充分でなかったし、敷高も高くて排水が悪く、いつも悪水が停滞していた。その上8年毎に樋門の修理をしなければならず費用もかかり、修理中に風潮、怒涛に出会うこともあった。中でも排水不足のため洪水による全村の被害が一番の問題であった。

開村長の藤田又六をはじめ主だった人達は、この苦難を救済するために種々対策を講じて、一大水門を新築することに決心した。これが現在残されている「矩手水門」であり、明治29年(1896)のことである。

明治31年5月(1898)愈々矩手水門の工事にとりかかったが、現場は有明海に面した所であり、波浪に流されることも度々であったという。又、この場所の地盤が軟弱で、岸壁の重さに耐えきれず傾いてしまうこともあったという。

今日のように土木機械のない時代であり、干潮のわずかな時間に人力に頼る工事であり、その苦労は一通りのことではなかった。
開村民は全員が力を合わせて難工事を遂行し、水門の完成も近まった時、その喜びも束の間で、地盤軟弱のため石垣が少しづつ内側に傾きはじめたのである。村長はじめ村民たちは顔面蒼白となった。遂に県の援助を求めて指導監督を受けることにした。

その結果、水門両岸の堤防石垣の間に橋をかけて、内側へ傾くのを支え、更に道路としても利用されるようにした。現存する赤煉瓦作りの眼鏡橋がそれである。明治32年3月(1899)矩手水門の難工事は完成し、開村発展の基礎はここに定まったのである。

開拓以来、永い間苦労をしてきた開村、特に矩手水門工事は苦労が多かった開村。これからは今迄の苦労にかわって開村も住みよく楽になるぞ、という村民の願い込めて赤煉瓦の眼鏡橋を「苦楽橋」と命名した。橋の要石に刻字してその名を残している。

あれから百年経過した今日、この地先には国営干拓による農地が広がっているが、矩手水門の苦楽橋の美しい姿は昔のままに、寸分の狂いもなく技術の優秀さを今日に誇っている。
この苦楽橋のすぐ隣には、記念碑があり矩手水門の由来が刻してある。

⑲ 三十丁開の人柱 黒崎開字三十丁

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黒崎山公園の北麓を流れる隈川を挟んで三十丁の田圃が広がっている。
ここは元禄13年(1700)に干拓されたものであるが、干拓工事の際に人柱に立った人があったという伝説が残っている。

三十丁干拓は、隈川の河口であり、地盤が軟弱な場所であった為に、工事には大へんな苦労があった。
いよいよ最後の潮止めに当たって、工事の無事完了と、干拓地の平穏を願い海神に祈りを挙げて男女一組が人身御供になったという。家庭の安定には男と女が夫婦として揃うことが条件であるという考えに基付いているそうな。

村人達は二人の霊を慰めるために、堤防上に松の苗5、6本を植えて目印にした。 松樹は年毎に成長し、根はあたかも堤防を抱きかかえるように四方に張って、がっちりと堤防を波浪から守っていた。
矩手水門改築(明治32年)後に、水門近くの番家に住んでおられた塚本繁吉さんの息子塚本 実さん(大正2年生、79歳、現在南永治に居住)は、昔のことを思い出して次のように話された。

「昭和16年まで、水門のそばの一軒家で水門番(管理者)ばしとりました。
そん頃、堤防の上に一抱えぐらいある松の5、6本植わっとったばんも。人柱に立ちなはった人の記念ち言われとりました。

一軒家で電気もなし、大風の時は海の飛沫(しぶき)が堤防ば打ち越して、家まで来て雨戸にザァザァッと当たって家の揺るる時は、ほんなこてえすかったばんも。
もし、堤防が危ない時は松の枝に吊るしてある半鐘ば鳴らして村中に知らすっとですたい。
人柱の松は、西からの海風にこなされて曲がった枝振りのかっこうは何ち言われんごと美しかったばん・・・」
昭和25、26年頃から黒崎山一帯に松喰虫の被害が拡がり、三十丁の堤防松も枯れてしまい、人柱の伝説もいつとはなしに薄らいでしまった。

おわりに
福岡県民話集には、それぞれの地域に根ざした話が残され、親から子へ、子から孫へと語り継がれている。その中には誰でも聞いたことのある有名な話もあれば、初めて聞いたというその土地だけに伝えられている無名な話もある。

有名、無名のちがいはあっても、民話がその地に誕生したことを考えると、その土地の生活、人情、歴史等から発祥しその土地でなければ語れない貴重な価値があり、優劣つけがたいものがある。

福岡県みやま市山川町の民話と伝承へリンクします。

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by kusennjyu | 2010-03-26 15:12 | みやま市の民話と伝説
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