厳島神社(いつくしまじんじゃ) 所在 高田町大字黒崎開1285
元禄6年(1693年)柳川藩3代藩主立花鑑虎(あきとら)公(英山)が社殿を創立する。その後、広島県の厳島神社を勧請し、現在に至る。
天保12年の刻銘のある石の鳥居を入り、神社をくぐると拝殿の背後に本殿が建っているのが見える。拝殿も本殿も嘉永2年(1849年)に建てられたものと伝えられる。
拝殿は桁行3間、梁行2間の入母屋(いりもや)つくりである。身謝(みしゃ)柱は総円柱で、背面中央を除いて、四手先斗 (してさきますぐみ)で支える飛勾欄付(前方)の切目縁を廻らす。
総円柱で造られ、手先斗 (てさきますぐみ)で支える拝殿は県内でも珍しいものである。
本殿も特色があり屋根を寄棟(よせむね)とし、妻入りしている。寄棟造りは寺院建築に使われており、神社建築では珍しいものである。
竹飯(たけい)八幡宮の鳥居 所在 高田町大字竹飯1476~1 竹飯八幡宮
筑後地方には、大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮等に肥前型鳥居があり、それぞれ文化財に指定されている。竹飯八幡宮の鳥居もこの肥前型鳥居の携帯の古い形を示している。
普通の鳥居は笠木(かさぎ)が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と貫(ぬき)のあいだが狭く、笠石はずん胴型で二段あるいは三段の継ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘っ建て式になっている。
肥前には砥川(とがわ)の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名もなく、造立年月日等の銘文はいっさいない。いつ、誰が作ったかは明らかでないが、竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮であるからには、田尻氏の寄進とも考えることができる。いずれにしても、当地方における唯一の肥前型鳥居で材質は杵島地方の安山岩である。
田尻氏の足跡を訪ねてへ 歴史講座現地見学会 1 ( 平成21年10月24日)に写真と説明があります。
阿蘇神社の鳥居(あそじんじゃのとりい)
所在 高田町大字海津1642 阿蘇神社
延元2年(1337年)多々良ヶ浜の合戦に敗れた阿蘇小二郎惟澄(これずみ)が、ようやくたどりついた筑後大木の里で、大木城主壹岐守貞守(さだもり)の手厚いもてなしを受け、暫く滞在して休養をとった。
惟澄は城主の誘いもあって、海津古川の木の下郷に阿蘇神社の分霊を奉祀し、子孫代々神社に奉仕して村民の信仰を集めた。
下って、元和8年(1622年)海津北阿蘇田の現在地に移転し、南北海津の氏神として今日に至っている。
この神社の第一鳥居の両脚に次の刻銘がある。
元禄十三年巳三月吉辰(1700年)
此肥之阿蘇建社干海津
神徳大光被萬福降干民 氏子中
祠宮 木下宮内烝菅原基清
庄屋 宮原左一郎右衛門藤原道久
瀬戸一郎左衛門 藤原種勝
阿蘇神社(左)で海津御田植祭(無形民俗文化財)が行われます。