2010蒲池山ため池と田尻惣馬(みやま市の名所)千寿の楽しい歴史

蒲池山ため池 百選に決まる。
みやま市山川町河原内



蒲池山ため池は 、享保2(1717)年に柳川藩の水利土木事業で田尻惣馬が述べ7万6千人の手を要して完成されたといわれる。
今も地域の農地を潤す池は、山々に囲まれ、ミカンの産地などとして知られる自然豊かな場所にある。
現在は、山川町自然を守る会が、蒲池山ため池(大根川)の上流に廃棄物処理場建設問題に反対し、蛍が育つ環境造りに何年も努力した結果、蒲池山ため池(大根川)の上流に蛍が飛び交う環境になっている。
田尻惣馬と水利工事
「読本 旧柳川」P136より
田尻家は豊後の国(現在の大分県)藤という所に住んでいた。田尻河内守鎮春(かわちのかみしずはる)は戸次道雪(べっきどうせつ)に召出された。鎮春から6代目が総助惟貞(そうすけこれさだ)で、その次男が田尻惣馬惟信(そうまこれのぶ)である。母は村上家の人で、惣馬の幼名を又太郎と呼び、後に惚右衛門、惣馬、惣次と名をかえた。
元禄5(1692)年御書院番となり元禄14(1701)年病気のためお願いして役をやめて浪人となった。
宝永6(1709)年2月26日、病気が全快したので以前の通り扶持(ふち)を以って召出されて、御城内の普請役(ふしんやく)となった。
惣馬は幼いころ雨が降ると庭に出て雨水を川のように曲がりくねらせて流し、小石を積んで土をぬり木の葉を
流して、その流れ方を眺めて感心し工夫して、楽しんだという。彼の水利技術者としての、手腕は天才的であった。
惣馬の父惣助が普請役として、元禄8(1695)年北田に千間土居の長い堤防新設の時には、父惣助が主任となり、子の惣馬が助手役で完成した。彼は土木に対して天才的名才能を持っていたのは、この父の指導を多分に受けたためである。
惣馬は貞享、元禄より享保にかけて30余年間、水利土木にあるかぎりの力を注いだ。
第4代立花あきとら)公・第5代立花鑑任公の2君に仕えた。
彼の千間土居の工事は、昼夜兼行の突貫工事で、夫役(ふえき)の苦労は、なみなみならぬものがあった。
工事に着手する前に降雨の際は独り半切(はんぎり)を浮かべてそれに乗り、流れに任せて水流の緩急をよく調査した。水の勢いの激しい所には「はね」を築いてその水の流れる勢いを、対岸久留米領の堤防に激しく当たるように、新工夫を案出したという。
はねは矢部川のみやま市瀬高町小田字唐尾の南筑橋の東側の「唐尾ばね公園」にあり、見ることが出来ます。
こんな施設は隣の藩久留米領にとって、誠に迷惑を及ぼすことは明らかである。それだから危険を犯して、洪水の中を半切に乗って調査した事であろう。ことにこの工事中は数人の侍を変装させて、久留米領内に侵入させて、警戒を怠らなかったという。他藩に対する用心と仕事の難しさは生易しいものではなかった。
宝暦9(1759)年の大淵村某の日記に久留米領矢原村(現八女市)村里が免職になったのは対岸柳川藩のこの工事に着手するまで、うっかりして気付かなかったのは、無責任である、という理由である。
このような時であったから、惣馬は群集の悪口や罵りも無視して、ただ一筋に工事完成に邁進した。藩主鑑虎公に長老達がかわるがわる、惣馬の役柄を変えられるよう、願い出たけれども、きっぱりその願いを退けて、彼に大成功させられたことは、また当時の美談であるとともに、藩主の英断であった。
矢部川の上流山下から北田(現八女市立花町)に至る長い堤防には、青々と茂った樟(くす)の大木が高々と天にそびえ、その存観は驚く外ない。これは惣馬が築いた堤防に、樟の苗木を手植えしたもので、現在は我国有数の官有林になっている。この堤防があるがために洪水の災を受けることなく、住民は彼の偉業に心から敬意を表し感謝している。
正徳3(1713)年、大潮のため柳川藩内には大きな被害を受けたことがある。惣馬はこの時、黒崎開の御用掛となって、旧堤防を築いた。
享保2(1717年)、蒲池山溜池の構築も難工事であった。
東西260間、南北900間に余る貯水池である。
水田灌漑用水として恩恵に浴する事が多く、特に旱魃時にも水の涸れることはない。はじめ彼がこの工事に着手した時、樋管を埋めないで堤防を築き、水底から非常に高い所に樋管を置いたから、衆人は嘲笑したが、それが完成して、雨水のために流れてくる土砂が溜まって、樋の口に及んだので後世の人は、彼の先見に敬服した。
享保7(1722)年、瀬高川御掘替のとき御用掛を相勤め、その功績に対して銘刀「裕貞」を拝領した。
宝暦10(1760)年7月16日に死去した。瀬高町本郷の九品寺に葬(ほおむ)った。