楠田川 4月18日 晴れ
鶴記一郎文書より
1・概要
楠田川はもともと、矢部川の支流ではなく、独立して直接有明海に注いでいました。ところが黒崎開(1677年完成)、文久開(1863年完成)が矢部川本流に沿うて出現すると、それだけ矢部川の流路は延長され、楠田川は新しく一支流となり、矢部川水系の家族となったのです。
上楠田字大谷 大池溜池
この川は標高百メ-トル程の低山地大谷付近を原流とし、大字楠田の集落を潤します。この辺では3メ-トル程の巾で川というより溝にすぎません。渡瀬で唐川の支流を併せ山地を抜けて沖積地の平野を流れます。渡瀬の西方では急に川巾を30メ-トル程に拡げて堂々たる川らしくなります。これは水量が増えたのではなく、洪水調節のためです。三開水門で潅漑の使命を終え、その下流は海水の侵入する江湖となり、西流して本流に注ぎます。
新幹線トンネル入口
左(西から撮る) 右(東から撮る) 上楠田から田尻へ北側トンネル入口の写真です。

帝釈寺 上楠田字垣田

帝釈寺の石塔婆(考古資料)
民話 帝釈寺の子授け地蔵さん
楠田川は全長6KMの短い流れですが、流域の山地は老年谷で山陵は角が取れ、案外広い谷底平野を形成しています。辺春、矢部、星野方面の深い谷とは異なっています。そのため水田が多く当然潅漑水が不足します。それで大きいのに上楠田の後山下溜池をはしめ七ケ所も溜池があるのも珍しいことです。山地の水田用の水さえ不足するのに、近世に至って沖積地は干拓されて水田がドンドン造成されて行きました。
その水の補足は隣の飯江川と瀬高町の余り水を利用することになりました。その水を調整するのが飯江川に設けられた高田井堰です。この井堰はもと田方井堰と呼ばれていたもので寛政4(1792)年に完成したものです。高田町の生命の水がこの井堰から引水されるので、町名は井堰と関係があるのでしょうか。
2・丘陵地帯
上楠田天満宮と大藤 上楠田

上楠田天満宮の大藤 町指定 天然記念物 平成7年1月10日指定
上楠田天満宮の大藤は菅原道真を祀る天満宮の境内正面右側に「坂口酒造」の祈願成就に植えられたもので、東西約21.3m、南北約7.5mに達する藤棚です。
花は枝先から20cmから90cmの花房が垂れて咲くが、年によっては1mを越え、4月の終りから5月にかけて美しい淡紫色の小花が穂状に咲き壮観である。
樹齢は約300年と推定され、幹回り1.1mにもなる。
藤はマメ科のつる性の落葉樹で、山野に生え、他の木などに巻きついてのぼり、茎は右巻きである。
楠田川(クスダガワ)の川名楠田はこの辺の大字名でもあります。この地名は上楠田の地にある石神山で有名な天満宮の社名を探ることによって解明できそうです。この天満宮は当初栗栖田(クリスダ)神社と呼んで石神山に葬られた豪族を祀っていたものらしく、一族の氏神だったのです。
ところで、天満宮はこの辺一帯の産土神で規模の大きいものですが、この神社の権威を高めたのは、藩政時代に立花藩の大庄屋樺島家が付近に居を構え、面倒をみて来たからでしょう。樺島家は立花藩に忠節を致したことによって、庄屋の職は本郷の檀家とともに世襲という破格の待遇で明治初年まで続き、その後は大地主として当地一帯に君臨して来ました。
現在の樺島家の住居は天保15年の火災によって再築されたもので、当時としては豪壮なものだったのでしょう。現在では土蔵の大半は崩れ落ち、廃墟に帰しています。それでも山麓を利用した堅固な石垣による広い屋敷跡は小さな城の感があり、ありし日の栄光を偲ぶことができます。
大注連縄送り 上楠田天満宮(無形民俗文化財) 見て下さい。
石人山古墳と石棺 上楠田

武装石人と石棺3基(参考資料)
民話・石人山の温石
一般には石人といわれますが、土地の人は石神として畏敬して来ました。石神にふれると祟りがあると伝えられ、明治15年古墳から天満宮境内に移したところ、疫病が流行したので再び現位置に復したというのです。
この石神は高地の先端、標高70メ-トル、眺望絶佳の地、円墳と石棺とともに発見されました。石神像は凝灰岩に刻まれたり立体、武装したもので高さ1メ-トル余。
浜田博士は石神を次の様に説明しています。
「此等の甲ちゅうの具合は、埴輪土偶にも多少現れているが、此の石神程明瞭ではない。・・・・神功皇后、武内宿彌の如きは正にこの様な武者振で、韓国と戦争あらせられたであろう。」
この石神のある古墳は、三毛国の国造の墳墓といわれ、八女吉田、一条の石人と同時代のものと推測されるそうです。してみると、この石神は、大和朝廷を凌ぐ勢いを張っていた磐井王国と関連するものでしょうか。
石人山の東方に垣田(カキダ)、平原、陣内などの集落があります。垣田は谷戸、峡戸(カイト)と同類の谷間の小平地か、古刹帝釈寺の領地としての「垣田」の意でしょう。陣内はこの集落の北方に中世の山城があっことから集落名戸なり、城の前、馬場の上の地名も城との関係と思います。
垣田にある帝釈寺は、黄檗宗で弘仁2年(810)の創建で古い寺です。往古は七堂伽藍があり、規模の大きい建物があったそうです。
帝釈寺の東方山地に椎原の地名があり、そこの一角に姥ケ懐(ウバガフトコロ)という面白い地名があります。土地の人は
バカツクラと呼んでおります。
ツクラとはふところの意で、ここは古い窯場があり、その窯場の空洞をツクラと呼んだのでしょう。バカとはハケすなわち崖のことです。また、ハカは墓で付近に古墳があったのではないかと考えられます。バカツクラ窯跡を探索に出かけましたが、発見できませんでした。楠田地方は古来から陶業が行われていたらしく、それは大陸との交易による文化の流入か、あるいは帰化人によって始まったという人もあります。
因に黒崎開が出現するまでは、石神山の西方2粁のところまでは海で帆前船が盛んに出入りしていました。その港のあったところは現在は市場(現大牟田市倉永・西鉄渡瀬駅の西側)という集落になっておりますから、古い時代は大陸と関係あったことが首肯できます。
楠田川の支流に唐川(カラコガワ)があり、その流域に唐川(カラコ)、唐川原(カラコバル)の集落があります。辞典によると「カラコ」とは大陸からの帰化人の入植地ということですから大陸関係の地名と考えられます。また、カラ、ガラなどは小石、砂利のことですから石ころの多い川原につけた地名ともいえます。唐川原集落には古墳が点在し、中には大きい石室のあるものがあって農家の納屋に使用されていました。