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千寿の楽しい歴史
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薩摩街道の旅(山家宿~南関宿)千寿の楽しい歴史
薩摩街道の旅(山家宿~南関宿)  半田隆夫先生の文書より(平成19年11月11日資料)
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筑後地方では、長崎街道(大里・小倉~長崎)の山家宿(筑紫野市)と鹿児島城下あるいは坊津(ぼうのつ)を結ぶ九州の縦断道を『薩摩街道」あるいは「坊津街道」と呼ぶ。
しかし、肥後玉名地方では、大里・小倉~小屋瀬~山家ー松崎ー府中ー羽犬塚ー瀬高ー山川ー南関~植木~熊本城下のルートを「豊前街道」あるいは「小倉路」と呼び、熊本~水俣~出水~川内~鹿児島城下・坊津のルートを「薩摩街道」と呼んでいる。
このように、地域によって街道の呼称に差異があるが、ここでは、次ぎのコースを福岡県域の「薩摩街道」とする。

山家宿ー石櫃(いしびつ)ー干潟(ひかた)-松崎宿ー光行(みつゆき)茶屋ー古賀(こがん)茶屋ー府中宿ー一条ー羽犬塚宿ー尾島ー本郷ー瀬高上庄宿ー原町宿ー北関ー(南関宿)

長崎街道の筑前六宿の一つの山家宿(筑紫野市)は、福岡藩主黒田長政の命により、慶長16(1611)年に代官桐山孫兵衛によって町立された(恵比寿石神像銘)。寛永15(1638)年正月元日、天草島原の乱鎮圧に向かう上使戸田氏鉄が止宿。また、長崎奉行や福岡・佐賀・久留米・柳川・熊本・薩摩藩主らの本陣・脇本陣にあたる中の茶屋(長崎屋)・下の茶屋(薩摩屋)などの御茶屋・町茶屋があった。

山家宿を起点とする薩摩街道を少し南下すると、石櫃の追分に至る。ここには山家宿の問屋武作が世話人となって建てた「右肥後・薩摩道」 「左豊後・秋月・甘木道」と刻まれた追分石がある。馬市と乙隈の中程に「従是北筑前國」 「従是南筑後國」という二つの国境石が街道筋に立っている。

寛文8(1668)年、有馬豊範(とよのり)が久留米藩主有馬頼元(よりもと)より御原郡19ケ村1万石の分知を受け、松崎藩が成立した。豊範は初め横隈町に在館したが、寛文13(1673)年に松崎館が完成すると移転、その東の松崎宿を整備し、延宝6(1678)年に松崎街道(薩摩街道)が完成した。
本陣・脇本陣・人馬継所など、宿駅の機能がさらに整備され、宝永年間(1704~11年)の町の規模は106軒、町数5町46間(628メートル)で、1・6の六日市が立った(「啓忘録抜粋」)。

現在も松崎宿の北と南の構口や枡形道の遺構・御茶屋・西郷隆盛が宿泊したという旅籠油屋などが残っている。
松崎宿を南下し、光行茶屋・古賀茶屋を過ぎ、筑後川を渡ると、高良大社の門前町「府中宿」に至る。

宝永年間(1704~11年)の町並みは96軒、4町22間(476メートル)で、御茶屋(本陣)・人馬継所などが置かれた。宿場町府中を出ると、薩摩街道は羽犬塚へと向かう。

明治初期、荒尾(熊本県玉名郡)の福島養拙(ようせつ)は、紀行文「宰府参りの道の記」の中で「一條村、爰(ここ)にもかすり多く、紺屋も多し。かすりのかせ(裃・綛)見事なり」 「程なく熊野村を通るに家毎にしもばたにてかすりを織。12、3の娘も上手也。 (略) 赤坂」焼とて土鍋抔(など)多く出来る。道わきにかま(釜)も三つ見ゆる」と書いている。

羽犬塚は、「原町」とも呼ばれた宿場町で、松崎・府中と共に、久留米藩の三宿と呼ばれた時期があった。柳川藩との藩境の今寺村には久留米藩の穀留番所が置かれた。

柳川藩領域の薩摩街道は、元禄11(1698)年以前は羽犬塚ー尾島ー小田村唐尾ー本吉ー野町の「本吉越」、以後は羽犬塚¥-尾島ー本郷ー瀬高上庄ー瀬高下庄ー野町の「瀬高通り」が手道となり、そして野町ー原町ー北関を経由し、肥後の国境の宿場町南関へと続いた。

久留米藩や柳川藩の参勤交代は、当初」、秋月街道(石櫃-秋月ー千手(せんず)-大隈ー猪膝(いのひざ)-香春(かわら)-呼野ー小倉)を通っていたが、延宝6(1678)年に松崎街道が開通すると、松崎ー石櫃ー山家を経て長崎街道に乗り、小倉へ至る参府道が主道となった。
元禄元(1688)年に熊本藩主も初めてこのコースを通過している。

しかし、」幕末、長州戦争にあたり、長州藩が自領に関所を設けたり、関門海峡の航行船を砲撃したりして中国路の情勢が緊迫化し、通行が困難になると、佐賀・久留米・柳川藩の参勤交代の道は、薩摩街道の府中ー羽犬塚ー瀬高ー原町ー南関ー山鹿のコースから豊後街道の大津ー内牧ー久住ー野津原(のつはら)ー鶴崎のコースを通った。

慶応2(1866)年8月1日、長州戦争で敗北した小笠原藩は、小倉城を自焼、幼い藩主豊千代丸(忠忱-ただのぶ)は母に連れられ、家臣や商人・農民らおよそ1万人とともに肥後細川氏を頼って秋月街道から薩摩街道を府中ー羽犬塚ー瀬高ー原町ー南関と南下し、家臣の一部と商人・農民らは玉名郡内に分宿、藩主らは豊後街道筋の内牧御茶屋へ3ケ月間居留した。

一旦熊本城下へ出た豊千代丸らは、細川氏に謝意を伝え、翌年4月、多くの小倉落人とともに香春へと帰って行った。薩摩街道は<歴史の道>でもあった。


「薩摩から江戸へ」(篤姫の辿った道)  半田隆夫著書   海鳥社・平成20年12月1日発行
読まれるようにお勧めします。

半田先生は「薩摩街道歩く会」の顧問で会員の指導・案内・説明などをされています。
by kusennjyu | 2010-04-22 20:35 | 薩摩街道
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