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千寿の楽しい歴史
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2010矢部川の歴史(千寿の楽しい歴史)
矢部川の歴史   

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1・矢部川水系

「矢部川」の上流から下流までを統一的に呼ぶようになったのは明治時代に入ってからではないかと思います。それまでは、矢部川と呼ぶのは矢部村の地域だけ、上妻地方の人々は上妻川、瀬高では瀬高川、河口の大和町では中島川などで地域によって呼び名が異なっておりました。

藩政時代は矢部川の両岸は久留米・柳川と藩を異にして対立していました。そのため、利水の井堰工事、或いは矢部地方から下流に向かう道路もそれぞれ両岸に修築されるなど不合理な工事が行われ、両岸とも不便に悩まされてきました。

八女市祈祷院の矢部川河岸にある水天宮と五霊宮に参詣したことがあります。その境内に水天宮奉祀五十年祭之碑があり、碑文は大略次の通りです。「大正10年6月17日に大洪水があり、堤防が決潰して大被害が起きそうになったとき、対岸の堤防が決潰して難を免れた。」

2・本流

本流は八女の釈迦岳(1231メ-トル)に発し、西流して高田町、大和町の境となり有明海に注ぎます。

川口には有明海に深く坑道をもつ有明炭鉱の坑口があります。長さ61粁。ちなみに筑後川の長さは123粁。

川の長さは分水界から河口までということですから、源は釈迦岳の頂上ということになります。
有明海は潟が沖に四粁も広がり、干潮時は矢部川が海の中に延長されます。マボロシの川、すなわち「みを」です。

矢部川の上、中、下流とはどの地域を指すのでしょう。
矢部川が完全に九州山地を抜け出る立花町の山下付近までが上流ではないかと思います。山下付近にはまだ河床に基盤岸が露出し侵食が行われているからです。

下流とは瀬高橋南方太田井堰からです。そこからは勾配はゆるやかになり、急に蛇行を始め、そこまでは海水が侵入しているからです。

川の一地点から上流、下流は決められるが、川全体としての上、中、下流の決定はむずかしい。そして強いて矢部川中流の始まりを求れば流路制御のため人工堤防の修築を開始する田形付近ではないかということです。

3・分流

分流には山ノ井川(18.3粁)、花宗川(13.4粁)、沖ノ端川(14粁)、塩塚川(6.0粁)などがあります。

山ノ井川は星野川から。
花宗川は矢部川本流から分流するのですが下流は筑後川に注ぎますので筑後川の支流ともいえそうです。
山ノ井川、花宗川は筑後川に注ぎます。

塩塚川の下流は堂々たる河川で漁港となり海苔舟が櫛比しております。
沖端川の岩神井堰より分流しております。三橋町役場付近から川巾も広くなります。

花宗川、山ノ井川、塩塚川は平常においては本流の水の配分を受けながら、洪水時ともなれば樋門を閉ざし洪水の水は拒絶して責任を負わない勝手なものです。

沖端川は、分流口に樋門はなく、洪水時にも本流の濁水を受け入れ本流に協力してからです。
花宗川、山ノ井川は自然の川というより、人工による潅漑水路であり、塩塚川はデルタ地帯の排水溝が川に昇格したものでしょう。

4・支流

 主なるものだけ簡単に紹介しましょう。
 
楠田川~高田町大谷に源を発し、下楠田で唐川と合流します。それから北流し、さらに西折して三開水門で江湖となり本流に注ぎます。長さ6粁。

飯江川~山川町真弓を源流として北流し、高田町舞鶴で向きを西方に転じます。下流は瀬高町、高田町の境界となり江の浦で本流に流れ込みます。高田井堰から下流は海水の侵入する江湖となります。長さ9.9粁。

白木川~立花町矢部谷峠を発し、白木谷を貫流し、鞍懸峡谷を抜けて山下で本流に合流します。長さ10粁。

辺春川~小栗峠を源流とし、松尾川、高須田川などの小支流を入れ兼松で山地を抜けると山裾を西流に転じ、下流では唐ノ瀬回水路の水をも併せて野広尾で本流に注ぎます。本流と山地の間にはやや広い肥沃な扇状地平野を形成しています。長さ14.3粁。
※ 流域に百田紙の発祥地の百田部落があります。現在は百田紙の歴史を知る人はいません。

田代川~黒木町陣床峠を源とし、美事な杉の峡谷を流れ栗林で本流に入ります。長さ6.3粁。

剣持川~星原山に発し、冬野、高良篭、剣持の集落を過ぎ、小原で弓掛川を併せて本田で本流に注ぎます。長さ8.6粁。この川の流域も田代川と同じく杉林の峡谷、水量豊かです。

星野川~熊渡山を発し、十籠を過ぎ、北川内で横山川の支流を受け入れて八女市の祈祷院で本流に注ぎます。長さ28.5粁で、支流の中で最も長く、目下ダム建設で問題になっている川です。

笠原川~鹿子生に源を発し、西征将軍良成親王の墓地のある御側を流れて本流に注ぎます。長さ4粁。この支流が本流とも考えられます。

樅鶴川~御前岳付近の高地を発して中村で本流に合流します。長さ4粁。

5・源流

矢部村役場を後にして、矢部川の支流御側川を溯り、殊正寺、稗田、女鹿野、今村を過ぎて良成親王の墓地に伺いました。墓は山の中腹にあって、付近は公園化され石垣、階段は整いすぎて幽玄さに欠けている感じです。

御側という地名は良成親王の墓地のそばということで起名されたと土地の人は信じています。

御側を大杣とも書いてあることから森林の多い山に由来する地名と思います。杣とは植林して木を切り出す山と辞典にあり、またソバとは山の中腹で森林のあるところの意ですから地形語に違いありません。この地名は良成親王の墓が定められる以前からあったものです。

矢部川本流の源流と目される三国山に発する山口川を溯ることにしました。

虎伏木(コフシギ)、中伐畠(ナカキリバタケ)、山口の集落を過ぎるともう人家はありません。
山口川が矢部川本流たる再確認を求めると、そうではなく柴庵から東方に直線コ-スを取り、藩境をなしていた八知山川が本流というのです。山口川を本流と一般に信じられているがそうではないようです。

三国山は海抜994メ-トル、昔は三国の国境だったことから山名が起きたものです。山口とは山の入り口、中伐畠とは中国にある畑の意、虎伏木(コフシギ)は良成親王の居城の所在地だったところ。
コフシギのキは城の意味がありますから親王の居城に由来するのではないかと思われるからです。

三国山から発する山口川を本流とする人もあります。柳川からの里程標の1里石がこの川に沿って設けられていたからでしょう。
14里石は山口川と八知山渓谷の合流点の山口川南岸に現存し、続いて15里石、最後は肥後との藩境「御境木」となっておりました。

川の本流は流路の一番長い川を本流とすべきだと思います。そうでなければ川の長さは曖昧になるのです。ところが流路の最も長い御側川を本流としなければなりません。だが文献上や矢部村の人は御側川を支流としているようです。

福岡県の一資料では「矢部の釈迦岳に発し」とあるから、御側川が本流となっているようです。いずれにしても歴史的慣例によって八知山渓谷を源流にしておきましょう。旧柳川藩志の付録地図にも八知山渓谷と推定されます。

八知山渓谷を辿ることにしました。道なき杉林をくぐり抜けて八知山(ヤチヤマ)の集落に着きます。5、6戸の集落で山頂に案外広い水田があります。矢部村では山頂の水田は少ないとのことでした。ヤチとは、ヤダと同じく水田のあるところの意ですから、ここには相当古い時代から水田が開かれていたのでしょう。


昭和56年10月初版発行   

鶴 記一郎著書「矢部川の地名と旅」より

平成14年6月17日、「矢部川概観」の一部を採用する。 千寿

平成22年7月1日、亡鶴記一郎氏の長女(福岡市在住)から再度、掲載の許可をいただきました。


  
by kusennjyu | 2010-07-11 16:50 | 矢部川
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