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千寿の楽しい歴史
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2010矢部川(瀬高町河内・泰仙寺・東津留)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町河内・泰仙寺・東津留)

川内樋管(河内)と矢部川大橋の風景

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泰仙寺橋と浜田排水機場

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泰仙寺(明治の地図)

旧河道の内側が泰仙寺と一致する。字名に内開・外ひらき(北端)と東開(東端)と上開・下開(南端)があり矢部川の内側で鷹尾と陸続きの集落であった。

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泰仙寺が鷹尾から分かれたのは、寛永15年(1638)に矢部川の改修が行われた時のことである。
したがって渡しはこの頃から始まったと思われる。それ以前は、泰仙寺と浜田の間に矢部川は流れていた。

泰仙寺の渡しも同様番小屋があり干潮時は船橋がかかり歩いて渡っていた。船も同じく平たく浅い渡し専用のものであった。渡し賃は村の各戸から米をぬいて渡し守に渡していたそうで1回1回金を払わなく渡っていたそうである。

その後泰仙寺橋が架けられたが、昭和39年(1964)に、船が衝突して中央部が崩れて通行できなくなり、渡し舟が人や自転車を運んでいました。

昭和47年5月に幅6m、長さ159mの鉄筋コンクリートの橋が完成した。

鷹尾城は泰仙寺橋を渡った(矢部川の西側)北側に位置する。

西津留(現在は大和町)は正保2年(1645)矢部川の流れ変更工事以前は津留村で東側である。
矢部川の東側(内側)は堀切城・浜田城・津留城・江浦城の4つの支城で固めている。

肥前の龍造寺軍は2万の大軍で鷹尾城を攻撃してきたから、田尻鎮種は、支城の江浦・浜田・津留・堀切の4つの城を一族で固めて篭城した。

天正10(1582)年、鑑種に対する疑いは解けず田尻鑑種は龍造寺と手を切り鷹尾城に籠城し鉄砲を撃ちかけ頑固に抵抗した。

肥前の龍造寺軍は2万の大軍で鷹尾城を攻撃してきたから、田尻鎮種は、支城の江浦・浜田・津留・堀切の4つの城を一族で固めて篭城した。

支城の江浦城・浜田城・津留城・堀切城の4城も必死に防戦し、籠城は500日に及んだ。

天正11年(1583)1月、島津勢の伊集院若狭守300人余の兵が兵糧を乗せて船で鷹尾城に着き一緒に戦う。肥前軍は鷹尾城の支城の江浦城も攻めるが奇略をもって肥前軍をなやます。

田尻氏は同じ大蔵の血をひく秋月種実の仲介で、蒲池鎮並の二の舞いになっては、せっかくの籠城も意味がない。それに鍋島信生は田尻氏のそれまでの軍功に対して亡びさせるのに忍びないので、田尻氏への和平を強く進めた。龍造寺と和議が整い、鑑種は鷹尾城から堀切城に移される。

東津留(明治の地図)~下側に泰仙寺がはいる。  右~東津留橋上流の現在の矢部川。

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江戸初期の藩主立花宗茂時代(1621~)は津留の渡しがあり、藩の家臣石橋重四六が津留の渡しの目付け役を仰せつかって東津留の柳瀬野(ヤナ城)に住んでいた。

渡しの東南が字柳瀬野である。

正保2年(1645)矢部川の流れ変更工事により津留村が二分され、東西にわかれた

昭和7年(1932)に長さ85間、幅2間半の木造の津留橋ができて渡しは廃止されたが、昭和28年の大洪水で流出した為、昭和33年11月の橋開通まで約5年間渡しが復活した。


 
by kusennjyu | 2010-07-12 10:08 | 矢部川
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