矢部川(瀬高町2) 高柳

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明治の地図の上部から左側にかけて川に沿って緑色の帯がありますが、矢部川の改修工事により川側は削られて川になっています。
高柳の日吉神社
1.前書き
高柳日吉神社は、瀬高町西端に片寄った矢部川左岸に位置する北、南高柳集落の産土神の2社です。その2社の代表として北高柳の日吉神社(旧村社)に的を当てて紹介して行きます。
A, 高柳日吉神社の直接の母社と考えられるのが柳河の日吉神社でしょう。この柳河の日吉神社は、筑後土着の蒲池氏の創建です。その後、田中氏、立花氏が後を継ぎ崇敬を重ね、手厚い庇護をして今日に至っています。
柳川日吉神社は、その後柳河城内の産土神、さらには立花氏の氏神の様相を呈し、旧立花藩内では格式最も高く、一般藩民の信仰も吸収して来ました。
B、高柳の北・南集落は古来稲作の中心的存在のみならず上代には渡来人の上陸拠点の一つで縄文人・倭人の交流、すなわち日本民族形成の重要拠点として、筑後川岸の小保、沖端川流域の柳河、磯鳥などの河港と連携を保ちながら文化流入の窓口の役割を果たして来たのです。
C, 高柳舟三太夫事件などから類推できるように高柳の住人は誠実、勤勉、忍耐強い一面と勇敢にして、蒲池氏・立花氏から一目置かれていたふしがあったのです。
大正末期から昭和時代にかけて、高柳に発生した小作争議を垣間見て参考にしましょう。その当時、農民が立ち上がり団結して地主を相手として、警察まで巻き込んで闘った破天荒な事件を考えて下さい。
このことは高柳の人々が、往時から勇敢にして正義を愛した性格を物語るにふさわしい事件と判断してよいと思います。
D 瀬高町役場の地籍図による地名、或は古い寺院、神社の痕跡などからして、高柳には秘められた歴史が隠見されるからです。
2.柳川日吉神社
「柳川総鎮守日吉神社は42代伏見天皇の御代正応3年(1290)山門郡・社村の農長森山和左ェ門先祖が大江国滋賀郡坂本「山王大権現」を奉護し、社村に帰り清浄の地に鎮護、産土神として崇敬してより数百年を経て後、柏原天皇(1501~1519)の御代文亀、永正の頃、蒲池筑後守治久が社村の地内に出城(後の柳川城)を築き山王宮を柳河宋惣廟として崇敬した。
山王権現とは神仏習合時代の総本社日吉神社の呼称です。
「942年天慶5年には筑後国夜明庄の蒲池城に蒲池氏初祖がかまえ平戸松浦党と縁を結び1274年の文永の役には諸豪とともに功を立てている。
蒲池氏は筑後土着の豪族としての地位にあり、したがって先に見た森山和左ェ門なる人物は蒲池氏の一家来で、蒲池氏の意を受けて滋賀県の山王権現の分身を奉護して来たものでしょう。
蒲池治久(1501~1519)柏原天皇時代、現在の立花町の矢部川左岸の険阻な山上に山下城も築いているのです。
蒲池氏は筑後地方の経済基盤となる稲作には筑後川、矢部川下流の氾濫原(デルタ地帯)、灌漑水です。
蒲池氏はそうした大自然の恵に感謝と敬虔な祈りを捧げるべく日吉神社創建を思いついたのです。
3.瀬高の清水寺と柳川日吉神社
本吉の清水寺は伝教大師の開基とされております。
現在の清水寺三重塔の南面に向って建っているのが地主神です。この神様の機能は延暦寺と日吉総本社との関係に相似をなすもので、清水寺と周囲の山域の鎮護でしょう。
4.高柳の日吉神社
A.高柳村の由来と高柳日吉神社
矢部川地方も縄文時代末期から稲作開始とともに一挙に文明が進み、七・八世紀頃は堀切の八歳神社、芳司の汐井神社の周囲が河港として動きを見せるのです。その中間にある高柳村も河港として或は稲作の中心地として重要視されて来ました。
高柳の日吉神社の御神体とともに祭られている千珠、万珠の玉は潮の干満を司る神、航海安全を護ってくれる神に捧げられたものです。遠い国から船が碇を下していたのです。村内には現在でも「
碇」という地名が残っています。
B.地名と高柳村
漁法の梁(ヤナ)に関係した地名です。梁とは、川の瀬などで、杭を打ち並べ水が一ヵ所だけ流れるようにして、斜めに張った木や竹の篭で魚を受け捕らえる仕掛で、こんな「ヤナ」がこの地帯に多く仕掛けられていたので、この地名がおこったのです。このヤナの材料には柳の木枝を利用したかも知れません。
高柳村北辺の矢部川河岸に「
竜臥―りゅうが」の地名があります。竜は水神の意味です
高柳村にはその頃から、学問の僧が文化のい一端に尽力していたのでしょうか。
聖町、本坊、大工給、仏生、京田町などの地名、さらには「
角源蔵―カクゲンゾウ」の地名は真言宗の元三大師(ケンゾウダイシ)にあやかったのでしょう。
真言宗寺院の所在した証として、下庄元町の松尾神社創建(1633年)があります。
「寛永年間喜野(熊本県)より松尾宮の分霊を授かり背負うて瀬高に来て、一時高柳に奉安し社殿が出来上がった後に遷座になったのが現在の松尾神社である。そして木野(喜野)より神様を背負うて来た」人が不動院さんという人で社殿の右側の小さい祠に祀ってある」とあります。
高柳の養安寺境内、北辺の角に高さ40Cm程の23夜塔が苔生して、暖かい冬日を受けてはうるが寂しそうに立っていました。
高柳を中心とした集落の婦人方の月待の名残です。瀬高町では高柳だけです.
村内(中)の地名、
宮手、宮司町、亀ノ石(神の石の変化したもの)神社との関係地名でしょう。
C、その後の日吉神社までの経緯
「冶承2(1178)年7月5日付筑鷹尾宮後掃除役差定写には、瀬高下荘鎮守鷹尾八幡宮の掃除役奉仕人に高柳村から二郎、藤三郎、多次、士人道、小藤太、本司貫、高別当の7名が挙げられている。他に池里7名、吉原1名の計15家があり・・・・。同社に掃除役を勤仕する社人を出しており瀬高下荘に属した荘園
部落としては矢部川沿いの舟運に最も便な地理的環境にある」。 前文にある掃除役などは一見端役で重要な職務ではありませんが、その職務には人力、器具、舟などに経済力が必要で、当時としては無雑作に出来るものではなかったのです。
その職務の見返りとして、いろいろな報酬があったものと推察されます。その頃の鷹尾付近はまだ開拓が開始されたばかり、人家は稀で、神社の掃除などに従事する余裕がなく、従って既存集落で経済的に余裕のある村から応援に出労したことになったものです。
高柳村をはじめ付近の村からも新開地の開拓に従事していたのです。
高柳村は、その頃の矢部川畔開拓地速成の前進基地の様相を帯び活気を呈しておりました。そんなことから、村の中心となる神社を中心に結束し、名主が神官を兼務、神社は威勢を握っていたのでした。その頃の名主が、次第に頭角を現して鷹尾神社の支配権に迫って行ったのです。
「承久元(1219)年9月9日行事の勤仕人に高柳上三郎大宮司、同冬大使に高柳舟三太夫の如きが見え(鷹尾社礼記録・筑後鷹尾文書)、舟三太夫は建保4(1216)に商人勝陳房等と結び、高良社神人と争っている。(同前)年貢等水上輸送に関連する商業的活動活発であったと推測される」。
高柳の「団結」と表現しているのは、美辞麗句ではありません。当時の政府は弱体化して法律は有名無
実です。庶民、農民の団結の力は事を運ぶ上に不可欠な要素だったのです。
「瀬高」の条に「寛喜3(1231)年8月30日の六波羅裁許状には、瀬高下荘内の年貢送進・新開田をめぐって鷹尾別符政所と地頭大友秀直との間に相論が起っている。相論対象の中には律料、倉敷料のことも見え、瀬高下荘域が矢部川水運による文物の集散地であったことがうかがえる」とあり、瀬高地方の開拓と商業の盛んだった様子がうかがえ、このことは当時の高柳村を中心とした舟運、開拓にふれたものでしょう。
「建武元(1334)年6月27日付沙弥某名主職充行状には「高柳四郎入道□□」瀬高下庄内熊丸名々主職を宛行
われた記事が見える(鷹尾神社文書)」とあります。前文にある高柳入道なる人物は不純な動機で名主職が宛行われた様子です。
高柳村の資料は16世紀に移り、「立花宗茂の一族立花三太夫が、北高柳の地で知行一千石を拝領する。彼の手で文禄3(1594)年日吉神社を再建山王十禅師権現御社の祈願棟木板の記録が残っている」とあります。この神社が、現在の日吉神社として続いている神社と考えています。
文禄3(1594)年はじめて、日吉神社という名称で従来の神社に代って改建されたと思います。「産土神、字河後町にある。・・・祭神は久富祖神である」ということで、従来の神様は、久富祖神とする久富家の氏神か、地域神(産土神)の混じり合ったもので、真言宗と神仏習合した神社だったと思います。
立花藩内で他の多くの日吉神社創建は既に見たように正応3(1290)
年社村の農長森山知左エ門が滋賀県坂本村から、日吉神社奉護して来て鎮護した前後か、さらに降って16・17世紀に創建されているからです。
注 立花藩内にも正応3(1290)年より早期の創建も少しあります。それは西浜武の日吉神社(1204年)・田脇の(1190~1198年)・野田日吉神社(1234年)があります。
徳川の藩政時代を迎えると凄惨な戦争は終止符を打たれたが、農民は厳しい幕府と藩政の掟に縛られることになりました。高柳村も中世の俤は既になく、稲作に励み、平和ではあるが地味な生活を送り明治時代の夜明けを待つことになりました。
日吉神社は産土神としての使命は果して来たが、村人の楽しみとなり活気を与えたのは養安寺で行われた年2回の祭礼(おこぼうさん)ではなかったでしょうか。
故鶴記一郎著 「瀬高町神社と幸若舞の横顔」から。 平成19年4月18日 千寿
文章中の
赤字の地名は高柳村に存在しています。