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千寿の楽しい歴史
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2010瀬高に手すき道具の残る家(千寿の楽しい歴史)
瀬高に手すき道具の残る家   

瀬高町小田字唐尾の坂田家訪問

平成22年7月13日  雨

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瀬高の和紙製造の歴史

矢固部新左衛門記念碑   

瀬高町広瀬の禅院への入口に建立されている。

筑後の和紙と日源和尚、文禄の初め、越前(福井県)僧日源は船小屋の少し上流の溝口に来て廃寺となっていた福王寺を再興した。

たまたま矢部川の清流が紙すきに適していることを知り、郷里から弟3人を連れて来て製紙業をはじめた。
これが九州和紙製造の元祖である。

文禄4(1595)年には柳川藩御用紙造りを命じられた。
宗茂・田中吉政にこれを奨励したので柳川紙の名、江戸で名声を博した。

元和6(1620)年、溝口は久留米領となったので、日源の弟の矢ケ部新左衛門は柳川藩内の小田村字唐尾に住居を移し製紙業を創めた。
矢ケ部新左衛門の弟新右衛門は溝口で、その弟新之丞は肥後宮圮村で製紙業をはじめている。

矢ケ部新左衛門は寛文9(1669)年、正月26日に死亡し小田村の墓地に葬られている。(矢ケ部家記録)

明治30(1897)年、当時の小田村の村長甲木鎮衛氏の発起で広瀬井堰に矢固部新左衛門の碑が立てられた。

左~坂田家に残る簀桁(手すき道具のすげた)  右~紙に押す印
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坂田さんの父の表彰状
昭和49年9月21日

坂田さんの話
父は昭和50年代まで主に障子紙を製造していました。
横が父の兄の家で、2人で協力して製紙業をやり、父は手すきのところからしていました。
私の子供の頃は手伝いをしていました。
今は手すきの道具だけしか残っていません。紙を切る包丁は判りません。
私の家は唐尾で最後まで残っていました。

日源上人(筑後市溝口の福王寺)へ
八女手すき和紙資料館へ(工程が判ります。)

八女手すき和紙の歴史 リンクします。

by kusennjyu | 2010-07-14 08:52 | 郷土唐尾 |Topに戻る