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千寿の楽しい歴史
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2010矢部川(瀬高町文広)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町文広)  

平成22年7月23日 快晴

左~大和堰(上庄) 右~案内板。

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大和堰は旧国鉄佐賀線鉄道橋のすぐ上流にある。
この堰の上をどんきゃんきゃん祭の行列が通る。文広の廣田八幡神社から矢部川を渡り本郷の聖母へ行く祭。 

左~千出樋管(上庄)  右~樋管(対岸は文広)

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千出樋管(上庄)から岩神堰、二ツ川堰、磯鳥堰から柳川市三橋町へ分流している。

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地図をクリックすると拡大します。

芳司(ほうじ)→文広(あやひろ)(大字名)(行政区名)

芳司の地名は古墳、奈良、平安時代にわたり、この集落で土師器(はじき)を造る窯場(かまば)があったことに起因するといわれている。
平安朝、白河院政の頃ですが、荘園制度が次第に朝廷の財政を圧迫していきます。その対策として、朝廷側は、在地領主を公権的にひきつける為の徴税機関としての「」を成立し、その役人を「保司(ほじ)」と言った。

その役所が一時、今の文広に置かれ、その役人の保司に広田氏が就任したと思われる。その保司が芳司になったのだと思います。

文広(あやひろ)とは、保の役所のことを公文(くもん)と呼び、その公文の文と広田の広をとって文広ができたと思っています。文広は大字名で明治9年吉岡村と合併してできたものです。

その頃の保または公文と呼ばれる役所の所在の証明となるのが、文広の印鑰(いんやく)神社です。印はいんかん、鐱は鍵で、役所を象徴する言葉です。
                     
故鶴記一郎文書より。

by kusennjyu | 2010-07-24 14:43 | 矢部川 |Topに戻る