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千寿の楽しい歴史
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2010矢部川(瀬高町本郷)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町本郷)

大化の改新の地方制度として「およそ五十戸を里となし、里ごとに長を一人をおく」の里は霊亀元(715)年、郷に改められました。

本郷の郷も大化の改新に由来するものです。沖端川の北岸は条理制の実施をみた所です。柳川藩志によれば仁和年間(885-888)、本郷村に岩神将監なるものが居城したとあるから、その頃から、本郷の地名は、定着していたのでしょう。
いずれにしても「本郷」とは元の村の意味であるから、付近では重要な役割を果たしていた集落であったろう。

明治13(1880)年、下妻郡のうち、山中、広瀬、小田、長田、坂田、文広、本郷を山門郡に編入されました。

幸作橋の下流。 左~名鶴堰  右~八幡神社

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幸作橋の上流。 左~松原堰  右~矢部川の松原跡

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明治初期の地図

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江戸時代は沖端川が主流の交通路であったため、松原堰で沖端川に水流を流しています。

朝鮮松原付近が本郷の渡しで、木橋がありました。

本郷から橋を渡り下長田を通過して、壇ノ池(瀬高町下長田)~小田村唐尾(瀬高町)~山下町(立花町)~黒木町~矢部村(柳川藩領)の矢部往還が利用されていた。矢部村周辺では柳川城に通じることから柳川街道と呼ばれた。


沖端川の行基橋の下流右岸に柳川藩最後の家老、壱岐立花の本郷邸跡があり、記念碑が建っています。

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立花壱岐の句碑   

堰落ちる 水に渦巻く 曼玉沙華 

立花壱岐は、幕末明治の激動期において、柳川藩家老として卓越した指導力を発揮した人物である。

また、熊本の横小楠や福井の橋本左内らと国事に奔走し開国通商を唱え、明治維新機には岩倉具視に対して新しい国家体制についてさまざまな提言を行なった。

晩年はこの岩神の旧居で悠々自適な生涯を送った。  平成10年9月建立。

文久元(1861)年3月4日、31歳の時に再び発熱し、文久2(1862)年9月15日、32歳の時に全権を辞職した。これ以降、隠居して療養に専念することとなった。

隠居期間中、「胖亭(はんてい)」あるいは「髑髏(どくろ)」と称して、政治の第一線から身を退いていたが、ひそかにその思想に磨きをかけ、明治維新に先立って、藩を解体した統一国家構想、能力主義による人材の登用、身分制度の撤廃などを骨子とする政治思想を有するに至った。

その一方で「逆枝(さかえ)の柳」など多くの大衆向けの小説を書いた。

by kusennjyu | 2010-07-25 16:17 | 矢部川
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