人気ブログランキング | 話題のタグを見る
千寿の楽しい歴史
kusennjyu.exblog.jp
ブログトップ
2010矢部川(瀬高町広瀬)千寿の楽しい歴史
矢部川(瀬高町広瀬)

2010矢部川(瀬高町広瀬)千寿の楽しい歴史_a0137997_11411572.jpg



2010矢部川(瀬高町広瀬)千寿の楽しい歴史_a0137997_1144790.jpg



広瀬の渡し
みやま市での矢部川の最上流部の位置にある広瀬の渡しです。
文禄4(1596)年、行脚僧の日源上人が溝口(筑後市)で和紙製造を始めて栄えましたが、和紙材料のコウゾウを対岸の溝口へ、また木蝋の原料の櫨の実を広瀬へ運搬するのにも重要な渡しでした。

元和6(1620)年、筑後藩主田中家が断絶し、久留米藩・柳川藩に分藩され、再び立花宗茂が柳川藩主になると、自分の藩領、山中・唐尾に和紙製造を移し90軒の家内工業を造り全国に名をはせ栄えた。

また広瀬堰から取り入れた用水は、瀬高町の北東隅から南西へ縦に貫く「広瀬水路」によって配分され瀬高町の水田に重要な役割をしています。

矢部川の治水事業(千間土居を築いた田尻惣馬)

1・柳河藩の生命線だった矢部川
矢部川は、八女郡の矢部村からみやま市高田町と柳川市大和町の境界に流れる河川で、福岡県内では、筑後川、遠賀川につぐ、第三の長流です。

江戸時代には、この矢部川が久留米藩と柳河藩の境界となっていました。そこでこのかわは「御境川」ともよばれました。当時は両藩の間でしばしば水争いがあり、交互に堰を造り、回水路を開削して、おのおの自藩領内に水を引いていました。とくに、柳河藩の場合は他に頼りとなる水源がありませんでしたので、矢部川の水利は何ごとにもまして重要なことでした。

柳河藩と矢部川との関係について、有名な伝承があります。
元和6(1620)年に立花宗茂が再び南筑後の大名に返り咲いたときに、石高の減少は覚悟の上で、三潴郡の水田地帯(関ケ原の戦い以前には、柳河藩に属していた地域)と、矢部川の最上流である矢部・黒木地方の山岳地帯や川の左岸の地域との交換を幕府に願いでて許され、矢部川全水域にわたる完全な水利権を確保した、というものです。

この伝承については、立花氏が関ケ原の戦い以前に支配している点や、この再封に際してもそのまま完全に認められるということを前提にしている点や、この再封に先立って、筑後一国を仮に支配していた幕府の上使衆が示した「上妻郡割り定の事」という指示の中で、川(矢部川)の中央を藩の境にすべきことをはっきり命じている点などから、内容的には充分な吟味を要するものですが、柳河藩にとって矢部川がいかに大事な川であったかはよくわかると思います。

このように、矢部川は柳河藩にとってまさに「聖なる川」であったわけですが、一方ではとても困ったこともありました。それは洪水です。藩は水資源を大事に活用していくとともに、しばしば洪水を起こすこの川と闘っていかなければなりませんでした。

2・千間土居の苛酷な大工事
昔の矢部川の堤防は、あまり高く築かれたものではなかったので、大雨が降るごとに川が氾濫をおこし、被害が出ました。

今の八女市に位置する北山地区もそのような地域の一つでした。北山の矢部川沿岸の北70町歩(約70ヘクタ-ル)は、大雨が降ると出水して、水の底になってしまうのです。

柳河藩は元禄8(1695)年、曲松(よごまつ)から山下(立花町)までの約千三百間(約2364メ-トル)の堤防を築き、川成の荒れ地を良田とする計画をたて、実行に移しました。この堤防のことを一般には「千間土居」とよんでいます。この千間土居の工事の責任者となったのは、当時、藩の普請役(普請奉行)であった田尻惣助惟貞という人で、この惣助の次男惣馬惟信がその助手を務めました。

藩が千間土居の工事を命じたのは子の惣馬の方であったという伝承も残っているようですが、田尻氏が藩に提出した系図などを見るかぎり、工事の総責任者は父親の惣助だったようです。惣馬が築堤を命ぜられたという誤解は、実際の工事で惣馬がめざましいかつやくを示したことや、あとで触れるように惣馬が藩内随一の水利土木の名人として有名な人物であったことなどによるものと考えられます。実際、この千間土居の工事について、現在まで伝えられる話は子の田尻惣馬の働きぶりに関するものばかりです。それらを紹介してみましょう。

惣馬は、まず川の流れを調べるため、大雨の降るたびに半切(タライのようなもの)に乗って渦巻く激流を下って、流勢を見きわめました。このほかにもいろいろな事前の調査を、綿密におこなったようです。実際の工事が始まると、これは昼も夜も続けられる突貫工事でした。これは最初にも述べたように、矢部川が柳河藩と久留米藩との「御境川」であり、利害関係のある久留米藩の側から抗議が出る以前に、すべての工事を終わられておく必要があったからです。実は惣馬は水勢の激しいところには、堤防にかくして「羽根」を造り、洪水に備えました。この羽根というものを造ることによって、堤防を完全にし、水の勢いを転じて、対岸の久留米藩領に向けることになります。このような工事が発覚すれば、久留米藩から工事中止の抗議がおこなわれることは明白です。そこで、惣馬はことさらに工事を急いだわけです。また、彼は数名の部下を久留米藩領内に潜入させて、警戒を怠らなかったといいます。

多くの農民たちが人夫として徴発されましたが、かれらの苦労は大変なものでした。惣馬は工事を急ぐため、かれらをこれ以上ないほど駆り立てました。人夫たちを食事と用便のほかは一切休ませませんでした。そこで人夫たちは疲れると、他人の大便の上にかがみこみ、用便中のふりをして休みをとるようなこともありました。しかし、しばらくして、農民たちのそうした抵抗がばれると、今度は便の新旧までも調べるというような厳しい態度で人夫たちの仕事ぶりを監督しています。すべてにこんなふうでしたので、惣馬は「鬼奉行」と農民や人夫たちから恐れられ「切るときは木六、竹八、葭九月、惣馬の首は今が切りどき」などと怒りをこめた唄までつくられる始末でした。しかし、惣馬には工事を敏速にそして完璧に終了させようという信念があったのです。

惣馬についての悪評は藩主立花鑑虎の耳にまで達しており、家老たちのなかにも、惣馬を工事から外すべきだという意見を述べるものもありましたが、結局、藩主鑑虎はそれらの意見を退け、最後まで馬に工事を担当させました。

間もなく堤防が完成すると、さらに楠などを植えました。その後は大雨が降って大水が出るようなことがあっても、「千間土居」は決して決壊せず、この地方の人々の生活を守りました。従来の荒れ地は良田と化していき、ここにおいて人々は、何ものにも妥協せず工事をやり遂げた叢馬の偉業をほめたたえるようになったのでした。

現在は、堤防には青々と茂った大木が高々と天に向かってそびえています。この壮観な景色を目の当たりにするとき、惣馬の不屈の精神と彼の下で働いた農民たちの必死の労苦を思わないわけにはいきません。

3・田尻惣馬の水利・土木工事
最後に、「千間土居」築堤の大工事をなし遂げたこの田尻惣馬という人について、述べてみましょう。
惣馬は柳河藩の普請方を勤めた田尻惣助惟貞の次男として、延宝6(1678)年に生まれました。

田尻氏は戦国時代の頃までは、田尻河内守鎮春という人の代に戸次(別記)道雪に召し出されました。道雪は大友氏の有力家臣の一人で、立花宗茂の義父(養父)にあたり、柳河藩の藩祖というべき人です。鎮春以後、田尻氏は立花氏のもとにあり、惣助惟貞は鎮春から数えて6代目にあたります。

惟貞が藩の普請方を勤めたことは述べましたが、彼の長男新右衛門惟定もやはり、普請役を命ぜられています。惣馬惟信は次男で惟定の弟です。この惣馬が次男であったのに別家をたてることを許されたのは、父の惣助が藩主鑑虎の命で彼の別邸(今の「御花」の前身)を建てたその功績によるといわれています。こうしたことからも父惣助自信がかなり優れた土木・建築家であったことがわかります。

惣馬は幼いころ、雨が降ると庭にでて、雨水を曲がりくねった川のように流し、小石を積んで土を塗り、木の葉を浮かべて、その流れかたを熱心に工夫したといい、この遊びを最も好んだともいいます。後年の彼の活躍ぶりをヒントにしての話でしょうが、惣馬の才能が天賦のもので、まさに天才的であったということを伝えるエビソ-ドといえるでしょう。これに、父である惟貞の指導を受け、藩政時代随一の水利・土木家となっていったものです。

彼の業績として現在も知られているのは「千間土居」の築堤ほか、正徳3年(1713)藩内各所が大潮によって被害を受けた際、黒崎開の普請方に任ぜられて、その復旧に努めたことです。また、蒲池山溜め池の構築も難工事でした。これは享保2年(1717)のことですが、池は東西260間(約512メ-トル)、南北100間、周囲900間にもおよぶ大きなものでした。とくに水田の感慨用として利用され、旱魃時にも水のかれることはありません。これらのほかにも、本郷権現(今の瀬高町)の羽根、磯鳥(今の三橋町)の井堰、浜武崩道(今の柳川市)の瓢箪開、唐尾(今の瀬高町)の井堰などの構築をおこなっており、さらに大根川の流水をよくしたり、回水路を新しく掘ったりしたのも惣馬の偉業とされています。

こうして、藩内のさまざまな水利土木工事を完成させて、郷土の発展に尽くした惣馬でしたが、宝歴10年(1760)に亡くなりました。墓は山門郡瀬高町本郷の九品寺にあります。

「人づくり風土記(福岡)」より。

by kusennjyu | 2010-07-27 11:45 | 矢部川
|Topに戻る