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千寿の楽しい歴史
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2010豊前街道6の1(西南の役古戦場跡)千寿の楽しい歴史
豊前街道6の1(西南の役古戦場跡)

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永ノ原古戦場跡

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西南の役古戦場跡 三加和町大字岩字永野原

明治10(1877)年2月14日、別府晋介率いる薩軍の先発隊は満を持して鹿児島を出陣し、翌日から本隊及び後続部隊の約1万3千の大軍がこれに続いた。

これに対し、薩摩鎮圧のため政府軍は熊本鎮台小倉分営のほか東京・大阪・広島鎮台などから兵を派遣し、24日には山鹿市津留の正円寺に本陣を構えた。 (地図の右上部)

一方、薩軍は25日に桐野利秋の4番大隊・熊本協同隊・宮崎飫肥(おび)隊が山鹿に進み、本陣を設けた。
翌26日には、官軍が山鹿の薩軍を攻撃したが大敗して鍋田に後退し、さらに薩軍が三方から攻撃を加えたため、平野まで後退した。

3月3日になると、桐野利秋率いる薩軍本隊は、一気に南関の本営を衝かんと梅迫から永野原に進出し、支隊は平山の官軍を撃破して板楠まで歩を進めた。

官軍は南関街道を掌握して本営を岩村に置き、砲台を永野原に築いて薩軍本隊を迎え撃った。

この後、田原坂敗退の誤報により薩軍は一旦山鹿まで引き上げたが、戦いは薩軍有利のうちに進んで行った。
しかし、3月13日、三浦悟楼少将が3箇大隊を率いて岩村に入ると兵力は薩軍を上回るようになった。

12日、官軍は進撃を開始したが、薩軍の激しい抵抗で一旦兵を引き上げ、15日から再び鍋田を攻撃した。
この日の戦いも一進一退を繰り返すばかりだったが、20日には田原坂が陥落すると、官軍の勢いは増し、21日には、右は菊池川を渡って小原・志々岐に進み、中央は本道から、左は平山・城村から総攻撃を加えて火を放ちながら前進して、ついに山鹿に達し、敗れた薩軍は、山鹿より後退して行った。 
                   
(「山鹿市史」参考)

官軍の墓(森の奥に)。

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by kusennjyu | 2010-08-20 16:03 | 豊前街道(熊本)
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