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千寿の楽しい歴史
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2010豊前街道7の1(山鹿市内②)千寿の楽しい歴史
豊前街道7の1(山鹿市内②)   

平成22年8月23日(月) 快晴   

正午から午後3時の太陽ギラギラの一番暑い時に調査する。

山鹿市立博物館周辺の史跡

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江戸時代の民家
この民家は、天保11(1840)年、山鹿郡山鹿手永鍋田村(山鹿市鍋田西)に建てられたものを昭和54年4月、移築したものである。
屋根はすべて茅ぶきで、頑丈な梁(はり)や桁(けた)、大黒柱、広い間取におおらかな昔の住まいの良さが感じられる。
座敷縁側の柱に銃弾が貫通した穴がある。明治10年の西南戦争で戦場になった名残りである。


眼鏡橋

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大坪橋の由来
この眼鏡橋は幕末の名惣庄屋福田春蔵が、慶応元(1865)年頃、宗方・中村地区の住民が水利に乏しく、干害に苦しむのを憂え、寺島井手の用水を引くため関係地区民とともに苦心惨憺して、吉田川右岸のもと熊入字大坪から山鹿字七ツ石へ架橋されたものである。

この橋は矢部町にある通潤橋につぐ全国第2位の用水橋であり、二連橋としては県下約170基のうち第11位に数えられ、すばらしい造形美を見せる石の芸術である。

築造以来昭和28年までの約百年間その恩恵は実に多大なものがあつた。
今般吉田川河川改修工事によって、やむなく撤去せざるを得なくなったが、先人の偉業を偲んぶたにぜひ保存したいとの強い要望があり、県の協力を得てここに復元移築したものである。
         山鹿市教育委員会

鍋田横穴群

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山鹿市の鍋田の岩野川岸壁に約60墓の鍋田横穴群は大昔からこの」地に人が棲んでいたことを物語ります。

景行天皇が山鹿を行幸された時、この横穴群の人たちが松明を振ってお迎えしたのでしょうか。

これが山鹿灯籠まつりのルーツとも言われています。

鍋田橋(現在)

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博物館から下りた所、岩野川に雄大な眼鏡橋が架かっていたが昭和5年、ものすごい大音響とともに崩壊した。

この碑は橋のかたわらに建っていた眼鏡橋建造当時の記念碑である。

鍋田之橋  安政戊午 興業 安政己未 初夏成功       

此川の瀬、むかし、かちにても舟にてもわたりぬれど、往来の人なやみ、くるしみぬれど、なかごろかりそめの橋を渡して行かひやすくはなれりしかど、雨ふり水まさるごとに、ともすれば、くづれ落つ、

さらでも五とせ6とせには、くちこぼれてあやふかりければ、ことさらに、

公より仰せてわたしかへさせ給ひぬれどたやすからぬわざにて、たみのしわざの時におくるる
ことも有しかば、此度山鹿昌徳おもひなげきて、なほ

公にまをしこひ、人々とはかりて、ももちの石をたたみあげ、よろづよかけて、うごきなき、橋とはなしぬ、
かかるめでたきいさをし、いかでか人にもしらせざらむ、後の世にもつたへざらむと所の人々いひ
あわせて石ぶみを たつるにつけて ここを鍋田村といへれば此橋もやがて、なべたのはしといひ
ならはしたる在よしいささか しるしつけぬ

このまま読んでみて下さい。

約400m歩き「平山」方面へ行く三叉路があります。そこを真っ直ぐ進み、山鹿天龍会館をすぎて右に進む細い道路があり、豊前街道です。

平成何年までは山鹿消防署がありましたが、消防署跡地の南側を歩き、土手に上がり直進して国道3号線の交差点へ進みます。
国道3号線の横(東側)に豊前街道の大きな案内板が立っていて、その下に未舗装の道路があり、それが豊前街道です。続きで写真をあげます。楽しみに!  017.gif

鍋田之橋 

安政戊午 興業(起工)  安政5(1858)年  戊午 「ぎび」又は 「つちのえ・うま」
安政己未  初夏成功(完成)  安政6(1859)年  己未 「ぼこ」又は 「つちのと・ひつじ」

この川の瀬、昔、徒歩にても舟にても渡れるけれど、往来の人は悩み苦しむけれど、中頃、仮橋を渡して行き易くはなったけれども、雨が降って水が増す毎に、ともすれば、崩れ落ち、

さらには5年6年経ち、崩れ落ちて怪しいければ、殊更(ことさら)
公より仰せられて立替させらることは容易であるけれども、民の仕業(農作業)の時に遅れることも有り、
このたび山鹿昌徳が思い嘆きて、尚

公に申し願い、人々と諮りて、百斤(沢山の)の石を積みあげて、万事よかけて、動きなし、橋とはなしぬ、
かかる目出度き勲し、いかがか人にも知らせるため、後の世にも伝えると、在所の人々は言い
併せて石碑を 建てるについて ここを鍋田村と言うならば、この橋もやがて、鍋田の橋と言い慣わしならば
在民は良いと些か(いささか)印を付けない。

by kusennjyu | 2010-08-24 11:33 | 豊前街道(熊本)
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