豊前街道10(熊本市植木町④)

この一帯から田原坂~玉名にかけては西南戦争の折、戦場と化した所。
道筋にその跡を示す標木が多く残っている。
乃木少佐(当時)率いる政府軍は大切な軍旗を薩軍に奪われました。
旗手「河原林少佐の戦死の地」の標木が自動車学校の崖下に残り、少し先の植木水天宮には「激戦の地」が建てられています。
バイバスから少し離れた旧道は江戸末期には交通の要として栄え、今も整備された町並みが残っています。
植木町
植木町は味取まちから分かれたもので、味取新町とも植木町とも呼ばれた。
味取新町は高瀬通り(三池往還)・大津町道との分岐点として繁栄する。正院手永会所は初め岩野村・正院村などに置かれたが植木町の繁栄とともに植木町に移され、元禄(1688年~)の町立以来の発展をしていたが、幕末には零落して元の寒村に戻っている。
植木学校跡(植木小学校)
明治8年、ここには植木学校があり自由民権思想を教えていました。教科書はルソーの政理論を加え勉学に励む。その中の一人が宮崎八郎である。
リーダーの一人として宮崎滔天の兄の八郎は「戸長征伐」の指導をする。
戸長とは、昔の庄屋を一歩進めたのが戸長で、村人の代表者で政府が任命した。
戸長はこの時期、明治政府により徴税官的役割を煮の担わされており、民衆の不満が重なり明治10年1月28日、山鹿の光恵寺にて、約1万人以上の人民大集会が開かれた。
後、西南戦争に志願して薩軍に従軍して戦死する。
旧鹿本郡植木町は、
平成22(2010)年3月23日、熊本市に編入され、同時に熊本市の合併特例区となった。
植木町は
スイカの作付面積・生産量とも全国一を誇っています。