豊前街道10(熊本市植木町⑤) 8月31日撮影 晴れ
三池往還(高瀬通り)と
大津町通りの分岐点である。
分岐点近くの植木小学校の地は、手永役所の跡である。
細川藩では、郡にあたる範囲を統括する手永(惣庄屋)が置かれていた。
左~植木天満宮。ここから豊前街道は斜め左に下る。
右~佛厳寺(植木天満宮南側)
植木天満宮(西南の役緒戦の地)
植木では薩軍が熊本城を包囲し、さらに北上しようとした時、2月22日、まずはこの地で激戦が行なわれた。
この天満宮の由緒は、元禄8(1695)年に味取新町ができた時、この地に松の巨木があり、そこに小さな祠(ほこら)があった。
それから年を経て嘉永4(1851)年に落雷があり松の木が裂けたが祠は無事であった。人々は天神様の神威を祀ったと言う。
明徳官軍墓地
この官軍墓地は、合計123基の墓碑が存在するが、そのうち92基は明治10(1877)年の向坂(植木町)の戦いで戦死した熊本・大坂・東京の各鎮台及び近衛所属の将兵の墓碑である。
向坂は福地源一郎(桜痴)が、その従軍日記の中で「植木よりは熊本へは三里にして近く、且向ふ坂さへ取切れば、其跡は平坦の地にて、つま先下りの路」と記した様に重要拠点であった。
ために政府軍 薩軍ともにその確保に全力を尽くしたが、3月16日の戦いは薩軍有勢に展開し、乃木希典率いる歩兵第14連隊の軍記が薩軍に奪取るされている。
被葬者出身地
熊本7、長崎5、、福岡5、大分2、山口5、広島1、岡山5、島根13、愛媛4、高知3、大坂1、兵庫5、京都5、和歌山7、三重7、愛知3、岐阜3、長野4、石川11、新潟3、神奈川5、東京3、埼玉24、群馬1、栃木3、千葉1、福島3、山形3、不明1 (計123)
なお、近くの寄鶴には軍夫30名を合葬した墓があるが、氏名、出身地等は全く不明である。
熊本県教育委員会(昭和62年3月建
明徳官軍墓地は豊前街道から少し東側に入った場所にある。
この地を豊前街道に引き返してすぐに、国道3号線に出る。