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千寿の楽しい歴史
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2010豊前街道11(熊本市②)千寿の楽しい歴史
豊前街道11(熊本市②)

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追分石

是れより左きとめ道きちしこえたかせ道」とある。

この道は、西南の役の激戦地「吉次峠」を越えて高瀬(玉名)へ向かう往還であった。

すぐ先の馬々挟からは、菊池往還が東へ分かれていた。

一里木跡

徳王というバス停のところが一里木であるち言われている。

出町弁天堂

「出町」とは、ここから熊本の町を出るということから付けられたもので、構口があり番所が置かれていた。

弁天堂には、元禄4(1691)年寄進、天保11(1840)年補修の石塔籠や元禄6(1693)年の銘の鰐口などが残っている。

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清正のまちと街路づくり

清正は肥後の領主に着任後、茶臼山に熊本城を築き始めたが、これと並行して城下町としての町づくりにも力を入れた。

京町とは都の意味で清正が茶臼山(現在の古京町付近)にあった町家を移したものであり、南北に走る街道に沿って京町1~2丁目、2丁目筋の西に今京町、そのもう1筋西に金峰山町の町人が形成された。

この京町台地のほぼ中央部には、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れた柳川立花藩や宇土小西藩の家臣団を清正が預かり、この地に住まわせたことから、この地をそれぞれ、柳川小路、宇土小路と呼ぶようになったということである。

これらの配置は敵の襲撃を常に念頭に入れたものとなっており、これは道路づくりにも現れている。

ここの釣形状の街路も清正が自兵の動きを敵にさとられないように戦略上の意図から造られたものといわれ、今日までその姿をとどめていたが、交通渋滞が徐々に激しくなったため、その解決策として現在のように改良されたものである。   

平成5年3月
                
豊後街道との追分

京町の四ツ角が追分で、左がぶんご街道、右が豊前街道で、すぐに左へ曲り愛染院の前を通ると新堀橋である。

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新堀御門

熊本城は、南が表で大手口があり、豊前街道が入ってくる北は、裏口、つまり搦手口であった。

新堀御門は搦手口を守る楼門があったところであるが、大正12年に上熊本と藤崎宮との間をつなぐ新道を掘削し、新堀橋を架けたものである。

百間石垣

熊本城の石垣で、長さが百間(180m)もあることから、この名が付いている。

豊前街道は、この百間石垣の下を通り、三の丸の細川刑部邸前を通る道と、二の丸を通る二つがある。

札の辻(清夾園)

護国神社を右に見て、城内を通り抜けて行くと、二の丸から来た道と出会う。その角に庭園があり石造りの元標が立っている。ここを札の辻という。この元標が熊本からの起点となっている。

この庭園を清夾園と言い、乃木将軍が、西南の役の戦死者の慰霊碑を建立し、庭園を造ったことに始まっている。
昭和4年に荒廃していた庭園を整備し清夾園と名付けたものである。








by kusennjyu | 2010-09-01 18:05 | 豊前街道(熊本)
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