浜田城址はどこか?
9月3日、TNKの3名で城址がどこか、歩いて現地調査を行いました。関係者などの聞き込みと明治初期の古図などによって検討して見ました。
浜田城址の説明
形態 平城
歴史
築城年代は定かではないが田尻の支城で城主は田尻大蔵と云われる。
天正9年(1581年)柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺される。
田尻氏は蒲池と同族であったが、龍造寺氏に従い蒲池氏一族を滅亡に追いやった。
しかし天正10年(1582年)田尻氏は龍造寺氏に反旗を翻し、本城の鷹尾城を中心に江浦城・浜田城・津留城・堀切城の各支城を固めた。龍造寺氏は直ちに軍を発し攻め寄せたが落とせず、一部の兵をもって支城を攻略させたが失敗し一年余りの籠城の末、有馬氏が島津氏と組み肥前侵攻する気配があった為、和議を結び引き上げた。
説明
浜田天満宮の西側にある個人宅周辺が字古城で城跡といわれる。宅地部分が微高地となっており、その周囲に濠跡とも思える水路や低地の田がある程度で遺構らしきものはない。
城主 田尻大蔵
所在地 福岡県みやま市瀬高町濱田
古城(小字名)南浜田
享保2年(1530)鷹尾城の支城(砦)として、江の浦、津留、堀切、と共に築城されたもので鷹尾の本城と共に鷹尾五城と称した浜田城跡で東西十間半(約19m)、南北二十一間半(約39m)、平地より高きこと一間半(約3m)である。
今は竹が生え墓地となっている。浜田南の天満宮の北西側(金子宅)裏の辺りになる。
・・・天満宮に六体神の御神体も合祀してある。
該当地は次の3箇所がありました。
①
古城(こじょう)
②
高頭(たかかしら)
③
六体神(ろくたいさん)
次に各項目毎に詳細をあげます。
①
古城(こじょう)
古城の北側から見た内堀。外堀は現在はありません。
地元の人々が2軒の家に対し古城の手前と先との呼び方をしている。
三方が掘りに囲まれ、東側が開けています。
昭和の地図に、堀の内側に番人が見回りの道がある。
②
高頭(たかかしら)
南側と西側の内堀(コンクリト橋は最近のもので、当時は橋はなかった。)
平高神社の付近であるとのいわれがある。
三方が掘りに囲まれ、東側が開けています。
先祖は庄屋で参勤交代についていける身分であった。
平高(へいたか)神社 北浜田(公民館)
浜田北の氏神として信仰されてきた。浜田北公民館・平高神社会館に祀られている。
浜田の若宮さん・六体神と同様、平家の落人伝説にまつわる神社とされているが詳細な由来は不明である。
③
六体神(ろくたいさん)
さらに、地元の方たちは「ろくせさん」と呼んでいます。
六体神碑と六体神之墓
家の横を裏側に廻ると空地になって手入れがしていない。しかし、道路境界の杭は打ってある。
今は竹が生え墓地となっている。浜田南の天満宮の北西側(金子宅)裏の辺りになる。
天満宮に六体神の御神体も合祀してある。鳥居は天保3(1832)年建立。
六体神(ろくたいさん) 浜田南
浜田南の氏神として旧暦の11月15日(現在12月15日)に赤旗を立てる習わしであった。
白鶏、赤旗というと平家の落人でもあろうか昔(年月不詳)ここで老婆の手で養育されていた6人の姉妹がある時、白鶏から井戸に追い込まれて死んだという。その6人の霊を祀ったのが六体神といわれている。
現在は六体神の御神像は、天満宮に合祀されてあり、石碑だけが建てられているが、その像は緋(あか)の袴(はかま)を着け
平家の落人か落城の悲哀を思わせる。
また一説には浜田部落の南の方向に小高いところに六体屋敷という付近に天正年間、浜田城があり、田尻氏の家臣、田中大蔵が城番として住んでいたが鷹尾城の田尻氏が没落、その落城のおり、城に6人の姫が井戸に身投げされ6人の霊を祀ったのが六体神とも言われている。
④その他
左~天満宮(南浜田) 右~平高天満神社(北浜田)
平高天満神社 北浜田
北浜田・西浜田(野田)・沖田の産土神である。鳥居は天明元年(1781)建立。
境内に社日さん(穀物の神)の石祀があり西方に観音堂がある。
現在の浜田保育園の南側付近は字江越である。
江越(えごし)(小字名)浜田
江は水路の意で越は水があふれる状態です。矢部川の水が満潮時には逆流する湿地帯の意です。
東側は田尻氏の領土で、南側は矢部川の湿地帯により防御されていました。
北側と西側を水路で囲み防御していました。
浜田城址がどこにあったか興味ありませんか。