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千寿の楽しい歴史
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三池往還(植木町2)千寿の楽しい歴史
三池往還(植木町2)  田原坂資料館入場   資料2冊購入。

三池往還(植木町2)千寿の楽しい歴史_a0137997_8475315.jpgなぜ田原坂の戦いは起きたのか?

徳川幕府が倒れたことで、武士たちは特権がなくなり、明治政府に対して大いに不満を持っていた。
西郷隆盛らは武士の不満を外に向けるために征韓論を唱えますが、その意見は入れられず、西郷は政府の仕事を辞めて、郷里の鹿児島に帰ります。

鹿児島に帰った西郷は私学校を創り、人を育てることに力を入れました。
西郷らの反乱を恐れた政府は、鹿児島にあった武器を持ち出そうとしますが、これが発覚。
怒った私学校の生徒は弾薬庫を襲って、武器を手に入れます。

こうして、西郷を総大将とする薩軍が結成され、明治10年2月15日、一万二千の兵が東京の政府に向けて出発。
21日に川尻に着いたときには、各地から集った不平士族も加わり、その数は三万人にも増えていました。

22日朝、薩軍は熊本城を守る官軍に総攻撃をかけましたが、城を落とすことは出来ませんでした。
そこで薩軍は、一部の兵隊で城を囲み、残りの兵を田原坂や山鹿方面に進めて、南下する官軍を迎え撃とうと、さらに北へ進みました。

木葉や高瀬で優勢だった薩軍も兵力の差には勝てず、3月4日から17昼夜に及んだ田原坂の戦いで敗れました。田原坂の戦いの後も薩軍は御船、人吉と敗走を続け、故郷の鹿児島へと逃れて行きました。

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三池往還(植木町2)千寿の楽しい歴史_a0137997_9125595.jpgこの展示のみ、写真撮影の許可をもらう。
薩摩の泣きどころ

田原坂の戦いは、多くは冷たい雨の中で行われました。
我々薩摩隼人は天下無敵だが、一に雨、二に大砲、三に赤帽は苦手じゃ」と薩軍の兵士はこぼしたそうです。

赤帽とは白兵戦に強かった近衛兵、大砲は炸裂壇弾の大砲。

そして最も恐れたのが雨でした。
雨が降ると、薩摩兵の木綿の着物(横の写真)は水を吸い、動きがとれず、わらじは雨と泥の中でブツブツと切れ、
先込めのエンピール銃は、粉の火薬が水を吸って不発になってしまうのです。

これに対して、官軍は、水に強いラシャの軍服、皮の軍靴(下の写真)、雨の中でも発射できるスナイドル銃を使用していたのです。雨の田原坂、戦況は官軍に有利に展開していったのです。

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三池往還(植木町2)千寿の楽しい歴史_a0137997_9465010.jpg左~現在の吉次方面。
明治10年の西南戦争では吉次峠・半高山周辺で政府軍が3月4日から攻撃を開始し、4月10日まで戦いがこの地で続いた。

この戦いで薩軍の篠原国幹(薩軍一番大隊長)が戦死している。
また3月4日以降、政府軍はこの峠を「地獄峠」と呼んで恐れた。
瓜生田・田原坂方面を攻撃した政府軍の砲兵陣地跡がある。


下~西南戦争当時の田原坂(境木より)
 資料の写真から。
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弾痕の家
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by kusennjyu | 2010-09-15 09:42 | 三池街道 |Topに戻る