三池往還(玉名市2) 9月16日取材
平成22年6月8日撮影 玉名市裏川の花菖蒲

左~裏川の眼鏡橋 右~秋丸目鏡橋 8月31日撮影

高瀬町は、江戸時代米をはじめとする農産物などの集散地(港町)として繁栄した。
町並みは上町から下町に至る本通り筋があり、人工河川である裏川から直接荷物の上げ下ろしが出来るようになっていた。
また、渡し場が現在の高瀬大橋の付近にあって、この眼鏡橋は当時、町の玄関として象徴的存在であった。
橋は、アーチの径(スパン)が6.7mある二連橋で、長さは10mある。
基礎からアーチ頂上までの高さ(拱矢・ぎょうし)は3.3まる。
江戸時代後期の寛永元(1848)年、高瀬町奉行高瀬寿平らによって造られた。
右の秋丸目鏡橋は後になって移築されたものです。
どこか古都の趣が・・・・
本町筋の寺院は西南戦争の時には野戦病院としての施設になったこと、有栖川宮熾仁親王のもとに官軍の大本営が高瀬に置かれていました。
西郷隆盛の弟・小兵衛の戦死の碑はJRの鉄橋の近くに建てられています。
JR玉名駅は、玉名の郡役所や米倉が今の疋野神社近くに設けられ、そこまで一直線に道が伸び、その道はほとんどそのまま残っていたそうです。奈良時代から大宰府と同じ規模の伽藍やまちが並んでいたそうです。
玉名は菊池川の水運と外海との交通の要の地でした。
「
蓮華院誕生寺」と深く彫られた石碑から右へ、かっては田園地帯であったその一帯には住宅が立ち並び、その向こうに朱の五重塔が見えて来ます。
この一帯はかつて(鎌倉期)、浄光寺というお寺が広い築地を巡らしていました。その頃、
皇円上人(法然上人の師)がここに生まれ、修行して上人となり、「
扶桑略記」を著したことは知る人ぞ知るであまり語られていませんが、その頃の由緒が地名の「
築地」や「
南大門」に残っています。
当時、南大門の大きな門を開閉する音が吉次峠(玉東町)まで聞こえたといわれています。
五重塔のすぐ下に残る大きな五輪等は見上げるほど。男性的な、いかにも鎌倉時代のものといった風格です。
蓮華遺跡をはじめ、この築地と、東に接する山田集落(山田の藤で有名)には古くから宗教聖地として知られ由緒深い古塔や仏様が眠っています。どこか仏都奈良に、そして西の都大宰府にあい通じる雰囲気が漂っているのは、地霊のせいでしょうか。
田原坂戦を支えた兵站基地高瀬
城北高瀬は小倉街道、大宰府往還につながる陸路肥後城北の最大拠点であった。高瀬を南下すると田原坂を越え植木町を経て、熊本・熊本城に至る。
江戸時代もっとも量も多く、価値の高い菊池米は菊池川の河口であるここに舟で集められ、有明海の沖にいる大坂行きの船に積まれて移出された。
この為、この町は自主流通米や大坂に移出される商品の一大集積地であり、一大消費地でもあった。
西南戦争では確認されるだけで南関・三池を経て約90個中隊の官軍約18000人が南下している。
兵のみならず、食料・補給物資・武器・医療(病院)など、田原坂大激戦のあらゆる兵站の
一大拠点としての役割を担って官軍を支えたのだった。
しかし、田原坂の官軍の苦戦のイメージより、西南戦争後は戦いに備えた新しい補給路、新しい産業路として
明治18年に国道3号線が作られた。
これは久留米から山鹿を経て植木、熊本市、八代、水俣、鹿児島に至るタテの国道であった。
鹿児島本線は旧道沿いに植木、熊本に至り、高瀬駅(現在の玉名駅)は」設置されたが、陸路、鉄道を利用した米や物資の輸送の変化の為、
高瀬はその地位を失った。
戦前には三池・荒尾の炭鉱の発展により温泉地として栄えた。そして再び新幹線の県北唯一の駅として、その地位の奪回を図ろうと願っている。