肥後一揆と南関の史跡を訪ねて3 10月20日
鷹ノ原城跡
左~休憩所から南関町遠望 右~坂道を登る(御茶屋から約7分で鷹ノ原城跡へ到着。)
左~鷹ノ原城跡石垣 右~官軍墓地東側の鷹ノ原城跡指標
加藤清正が自ら縄張(なわばり)したと言われています。築城が慶長5(1600)年で廃城が元和元(1615)年であり、この城が使用された期間は15年程度の非常に短命の城でした。城の取り壊しは、いわゆる幕府からの一国一城令によるものでした。
南関町役場裏側に東西に長く伸びる標高約100mの台地を4本の堀切が分離し、東から二の丸、本丸、三の丸と配置されており、東西訳00m、南北約200m、その面積は90000平方メートルを越えています。
関町は城の南側裾部に形成された城下町といえます。
南関町説明案内より。
肥後一揆平定後、肥後の国主となった加藤清正が熊本城の史城の一つとして築城し、加藤美作守治次(正次)を城代とした。
「南関紀聞」には、慶長5(1600)年に清正が立花・鍋島合戦の検使として柳川へ来た帰りに南関の高原に立ち寄り、自ら縄張をして築城を開始したとある。
大城美知信資料で後半の説明を省く。
城(じょう)ノ原官軍墓地
明治10年の西南の役で薩軍と交戦して死亡した政府軍(官軍)将卒77柱の墓地です。主として高瀬(現玉名市)・木葉(現玉東町)での戦いで死亡した人たちです。
西南の役当時、野戦病院に当てられた関村の西宗寺(さいしゅうじ)に仮埋葬されていましたが、翌11年にこの墓地に本葬されました。墓石には階級、氏名のほか、死亡事由や所属部隊名、出身地などが刻まれています。
南関町説明案内より。
正勝寺(しょうしょうじ)西南の役本営跡
明治10(1877)年の西南の役では、本町で直接の戦闘は行われませんでしたが、交通の要衝として、官軍の駐留、後方支援、野戦病院(関村西宗寺)の設置などでにわかに喧騒となりました。
2月24日には乃木希助少佐の部隊が着陣し、翌3月22日には征討総督有栖川宮熾仁親王も来着、正勝寺に宿営しました。
南関町説明案内より。