肥後一揆と南関の史跡を訪ねて6 10月20日 三池史談会史跡探訪
田中城址(和水町和仁)
左~登り口の石柱 右~親子の石像(以前は山の上にあったもの)

登り口北側の田んぼは収穫が終わりワラを干している。

お年寄りだからゆっくりと急坂を登る。

左~つげの木は昔のとりでの柱跡に植えてある。 右~三池史談会会員12名。

戦国期の在地領主(国衆)和仁氏の居城。
天正15(1587)年の国衆一揆では、和仁氏と辺春氏(坂本城主)とが一緒に立て籠もり、秀吉の命を受けた西国大名の連合軍に攻め囲まれたが、一揆の主導者隈部氏が降伏した後もなお執拗に抵抗を続け、一揆最後の拠点となった。
しかし、辺春氏の内応により12月5日に落城した。和仁親実一族は討ち死にしたと言われるが(佐々軍記ほか)、生け捕られて後日打ち首に処せられたともいう。(北肥戦誌)。
三池史談会 大城美知信資料より。
所在地 和水町和仁字古城・田中
指定日 平成14年3月19日
天正15(1587)年に起こった、いわゆる「肥後国衆一揆」の舞台となった城です。
戦いの様子は、平成元年に、山口県文化館で発見された「辺春・和仁仕寄陣取図」によりはっきりしました。
豊臣秀吉は、小早川秀包・安国寺恵瓊など毛利勢のほか立花氏や鍋島氏など九州の豪族との連合軍、約1万人で二重の柵を設け、城を取り囲み、兵糧攻めを行っています。
対する和仁軍は、和仁三兄弟(親実・親範・親宗)のほか姉婿の辺春親行など数百から千名程度と伝えられています。
このような状況の中、36日間の籠城後、辺春氏の裏切りで天正15年12月5日に落城してしまいました(「柚子留木文書」)。
今では、このような激しい戦いがあったことは、全く想像できませんが、周囲の山々には攻め手の陣地が作られ、陣旗がなびいていたことでしょう。
陣取図には、方位や城と各陣との距離が書かれていますので、おおよその配置が想像できます。
田中城の東側の水田の中を流れる小田川は、戦いの際に流された血で真っ赤に染まった水が何日間も流れていたといわれ、別名「血波川」とも呼ばれています。
また、秀吉は、この一揆を平定した翌天正16年には「刀狩令」を出し、兵農分離を進めていくことになります。
平成22年3月 和水町教育委員会