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千寿の楽しい歴史
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2010肥後一揆と南関の史跡を訪ねて7(千寿の楽しい歴史)
肥後一揆と南関・和水の史跡を訪ねて7

平成22年10月20日

辺春親行の墓

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「南関紀聞」には、「一説に辺春親行は本領安堵の沙汰がなく、却て誅せらるべき風聞しければ、あんたこなたさまよひありき(歩き)しが、程なく病死しけるゆへ、その子次郎(或云熊市)九歳になるを、その家老芋生攝津守といふ者伴ひて吉地村に蟄居し云々」とある。

浄満院址と大津山家稜(いえかど)の墓

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「南関紀聞」によれば、肥後一揆に際し、佐々成政は大津山家稜を策略によって吉地村の浄満院に誘い出し、家来2人を遣わしてこれを殺したという。

この墓は、江戸時代後期の文化年間に建てられているが、没年16年7月23日となっており、史実と合致しない。

福山右京・夫婦木(めのとぎ)の墓

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説明書きによれば、両人は大津山家稜の家来で、肥後一揆の時は家稜の舎弟家直に供して厳宮に参詣していたが、家稜が謀殺されたと聞き、後を追って自殺したという。

「南関紀聞」には家稜の臣に二人の名前は見えるが、自刃のことは記されていない。地元の伝承であろうか。

厳宮(かざりのみや)

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熊野権現社ではあるが、赤坂村の厳(かざり)にあるので地元では「厳宮」と呼んでいる。

「南関地誌略」には、大津山経澄、正長元(1428)年に紀伊国より熊野権現を勧請す。

天文17(1547)年、大津山掃部頭重経が家人大蔵駿河守頼種再興といへり」という社記を紹介している。

肥後一揆では、大津山家稜が浄満院で殺された時、弟の信濃守家直は厳宮に参詣していたが、兄の死を知って彼は「小勢にては叶い難し」と、諏訪の江から船で肥前の諫早に落ち行き、大嶋という所で死んだ、とある。

しかし、家直の子は母と共に母の実家である柳川の三池氏を頼り、成人の後、三池龍介と名乗って立花宗茂に仕えている(柳河藩大津山氏先祖書)。

三池史談会  大城美知信資料より

by kusennjyu | 2010-10-22 22:10 | 豊前街道(熊本)
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