高田町開地区史跡探訪1 11月20日午前中 みやま産業祭と同じで9名の参加で車2台で回る。
①新開村旧隄記碑
②厳島神社
③ 福聚庵
④黒崎観世音塚古墳(大牟田市)
⑤黒崎玉垂宮(大牟田市)
⑥旧柳河藩干拓遺跡(黒崎堤防・永冶堤防・矩手水門・水門新築碑
①新開村旧隄記碑

有明沿岸道路の東下側にあり、道路要地内で金網がしてあり、鍵がかかって入られない。
東側に堀がありその東側道路から写真を撮る。
昭和30年 県文化財指定 天保6年(1835)建立 旧隄の功績を顕彰したもの。
延宝5年(1677)~正徳元年(1711) 隄長1里(4km)の築石隄完成
文政8年(1825)~天保5年(1834) 永治堤防に石隄の石材を移し補修工事をし、新隄(永治堤防完成)。
※ 地図の
②(竜宮島)から北側へ三開まで、堀の西側に道路があるのが、
慶長土居と呼ばれています。
【新開村旧隄記碑】
【新開村旧隄記碑】 (概略訳文)
江都佐藤担 撰文 朝散大夫 林皝篆
柳河藩今村五郎兵衛藤原長利は延宝年間(延宝5年、1677)普請役になり、新開村の海浜が塩気の土で作物が出来ないため、開拓すべきと石隄築いて、風涛を防いだ。隄長は1里。南は堀口より北は三開水門まで。そして、若干の面積の土地に作物が作れるようになる。
正徳のとき(正徳3年、1713)になって田尻惣馬維安(
惟信の間違い)が、その職を継いで、これを修築する。それで後は風涛の害はなし。
その後、村民ら、更に土隄を旧隄の外に築いて、また若干の土地を得る。しかし、風涛がひとたび来ると、跡形もないように決潰する。このようなことがしばしば起きた。文政8年(1825)役人たちは相談して、隄は石でなければ、石を遠くから運べば労費が大変である。石を旧隄から取って移すのが簡便であるとして、それを実行した。
3年後(文政11年、1828)台風高潮が襲来、有明海沿岸の被害激甚。しかし、この隄だけは被害なし。そこで役人らは更に増修し、天保5年(1834)の春に完成する。
この工事は旧隄のお陰である。この功は実に二人の力によるものである。
役人はこの功績が忘れられないよう碑にして、これを後世へ伝えんとして私に記録を求められた。すなわち、ほヾ、その顛末を記す。
天保6年(1835)10月中旬 淡海関研書 宮亀年 刻字
佐藤担(1771~1859年)
一斎と号す。幕府の儒者・漢学者。 多くの人材(吉田松陰・渡辺崋山・佐久間象山など)を遺す。
林皝篆(1784~1838年)
八世大学頭・左近将監。従五位。 安政の日米和親条約(1854)を結んだ十世大学頭の兄。
関研(1804~1863年) 近江の人。監梁と号す。能筆家。
宮亀年 江戸の人。刻字の名工。
開拓の功労者
1.田中筑後守吉政(天文17年、1548~慶長14年、1609)
有明海沿岸の本土居(
慶長本土居)、久留米柳川道路の新設(
田中道)、筑後川の改修など。
2.立花侍従鑑虎(第三代柳河藩主)寛永22年(1645)~元禄15年(1702)
延宝五年頃、黒崎開の起工を命ずる。元禄9年(1696)隠居して「
英山」と号する。
3.今村五郎兵衛長利(?~正徳3年、1713)
柳河藩士。寛文3年(1663)代官 延宝5年(1677)普請役、黒崎開の工事を主管。
宝永元年(1704)病気につき願により御役御免。 大牟田市宮部に葬る。
4・田尻惣馬惟信(新開村旧隄記には維安となっている。)
延宝6年(1678)~宝暦10年(1760) 柳河藩士。元禄6年(1693)御書院番
元禄14年(1701)病気の為、浪人。 宝永6年(1709)召し出され普請役。
正徳3年(1713)黒崎開御用掛。 瀬高町本郷の九品寺に葬る。
5・樺島斗一益親 天明2年(1782)~安政6年(1859)
柳河藩士。詩文に秀で、多数の子弟を教育。 後普請役となり永治開の工事を主管。
瀬高町松田の大祥寺に葬る。
【以上、高田町誌より】