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千寿の楽しい歴史
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大江幸若舞考(鶴記一郎)・千寿の楽しい歴史
大江幸若舞考(鶴記一郎) 

鶴記一郎著   瀬高町神社と幸若舞の横顔より。

著者は亡くなりましたので、福岡市在住の娘さんの承諾を得てあげています。

「創立百周年大江小学校の歩みと郷土」の中に「筑前国の伊藤常足による大宰府管内志」には大江郷については『・・・・名義いまだ考えず、大江姓などに由有りて負せたるにてもあらむ。さて「筑後地鑑」に山門郡大江村あり』とあります。

大江という人の姓による地名と推定されています。

大江周辺はその昔、有明海がこの辺まで侵入していたか、または矢部川の本流の、岸辺であったとも考えられますが、地名発生時代と太古の地形とは関係ないと考えます。

江は土地を区画する溝の意で小地域につけた地名です。

高良大神の天慶7年(944)の古代筑後十郡における神名帳には「大江神」が見えています。このことによって、大江の地名の起こりはその時代よりさらに遡ることになるでしょう。

現在の天満宮の本来の祭神は大江の神、すなわち、大江の大地と大地を区画していた、川、すなわち水の神だと思います。

幸若舞舞人の方々が舞堂の床を力強く踏ならす所作は、大江の神に対する感謝、敬虔、恵みの希求の発露
というべきものです。だから、幸若舞の天満宮の神域において観賞するときにこそ、神味と舞が一体になって美の極致を味わえることになるのでしょう。

大江の神が、大江天満宮の名称に改められたのは「福岡県の歴史―山川出版社P62」に「天正5年(982)、太宰大弐として赴任した道真の曾孫輔正は天満天神の託宣をうけて、造塔、写経の大願を発し、天満宮(安楽寺)は一段と整えられた。かくして、道真の死後100年も経たないうちに・・・・筑後は高比荘など、九州各地に多くの荘園をもった。」とあります。したがって、10世紀末には大江天満宮に改められ、祭神は菅公になったのです。その後、有富の若宮神社と合祀されたので水波真命も並祀されています。

大江の「幸若舞―幸若舞保存会発行」の24ページに、「曲亭馬琴『烹雑の話』に記された大頭舞の紹介をふり返ってみよう。〔しかるに今も筑後山門郡大江村なる農家に、代々幸若の舞を伝えたるあり。またその近辺永田という所にも彼派わかれて大夫かかり、何かかり(この名を忘れる)などいうありて、酒宴の席、月祭・日祭などいうをりには、必ず招きて囃しつつ興ずる舞なるに伝々〕。

その時点で、幸若の舞が、大江村のみならず、下妻郡北長田村・南長田村あたりにも存在していたと伝えている記事は、まことに貴重なるものといわねばなるまい。

「大夫かかり、何かかり」の“かかり”は、他の用例からみて、“流儀”の意とでも解すべきであろうから、はっきりと“何々流” とまでは称さなくても、いくつかの分派があったことが創造される。“長田”の地名は本系図・別系図のいずれにも現れていないが、小田村・草場村・溝口村・山下町等に近接した場所である。・・・・そのような状態が、それ以後どの時期まで存在していたかは判然としない。」

註 前分に長田とあるのは北長田・南長田とあるのは現在の上長田、下長田で当時両村で行われていたであろう幸若舞の残滓とでもいうべきものが、現在続行されている、御田植祭における子供達の所作と祭文であり、先年まで演じられていた「女相撲」ではなかったでしょうか。

18世紀から19世紀初頭までは長田集落と大江村には何かと交流があったものと考えるのです。

どうして長田では幸若舞は永続しなかったのでしょうか。それは長田での幸若舞は芸能性が低俗化というか堕落をはじめたのではなでしょうか。他方では、藩政時代の末期になって経済力ある地主や商人が台頭しはじめて共同体の平和が犯されたのだと思います。

大江村では、平均した自作農民が揃っていて突出した地主・商人の出現を許さなかったのです。そうして平和な農村が保たれ、芸能を愛する優しく豊かな人間性が漂っていたからです。平和のないところには芸能は育たないでしょう。

幸若舞の発生の地、福井県では、経済優先の社会に呑み込まれ、芸能の優位性を見抜くことがなかったのです。こうした社会の側面からみても大江の幸若舞の今日あるのは高く評価されるべきです。

大江の天満宮の祭神は本来のところは大江(川、河、溝)すなわち竜神であったのが中世において、大宰府との荘園関係が成立して以来天満宮に変更されたものと考えます。

大江と神戸の長田区とは竜神で結ばれ、また神戸の宮水程ではないにしても瀬高は軟水と硬水の混じり合う地域で、良質の、酒の原料となる飲料水の湧水地。

有明海文化圏沿岸で盛んなベーロン(竜船競争)が関西では神戸だけに残っているのです。

平安時代より、瀬高の港から、摂津に向かって産米が盛んに輸出されていたことが瀬高町誌に載っております。

瀬高町、なかんずく大江と神戸の長田区とは何か深い因縁があったのではないかと考えさせられました。

神戸から程近い福井県は、日本国家の根幹に関わる、継体天皇の出身地であり竜神に因む巨大な九頭竜川〔長さ116Km(筑後川123Km)、流域2930K㎡(筑後川2860K㎡)〕が県内を貫流し、幸若舞発生の朝日町はその九頭竜川のほとりにあるのです。

筑後川にも勝る九頭竜川の水神によって守護されていた幸若舞がどうして亡びたのか、その謎が解けずにい
ました。

地名辞典を熟読すると九頭竜川の名称は崩川(崩れ川、くずれがわ)であったのを、何時かの時代か明確ではないが、土地の人々によって九頭竜川に変えられたものでした。その上、福井県には長田、竜田など、竜神や水神に因む地名が全くないことが分かりました。

そんなチャチな発想で、幸若舞の盛衰を伝々することは低俗、不見識のようです。しかし、地名が、大地(カミそれ自体)と人間の接点であり、文化の根幹であるといわれるのですから、やはり地名と幸若舞とは深い縁(えにし)あるものと信じるのです。

60歳代で大学に入学され、優秀な成績で地理関係の学科を卒業された鶴氏の大江幸若舞を紹介します。

有明文化圏は中国大陸とつながっていると大きな発想を持たれていました。

私は鶴氏が元気な頃、鶴宅に行き、1日に3時間以上もの話の中で、戦時中には中国語の通訳としての中国大陸での体験や戦後の遺骨収集のことなどをあつい気持ちで話を聞きました。

by kusennjyu | 2011-02-09 21:08 | みやま市の文化財 |Topに戻る