肥後街道(榎津・小保~柳川) 3月12日
榎津の札の辻(大川市榎津) 久留米藩領
慶長6(1601)年、筑後国主田中吉政は、重臣(寄合衆)の榎津加賀右衛門(3250石)を榎津城の城代としました。元和元(1615)年の「
一国一城令」で榎津城は廃城。
元和6(1620)年、有馬豊氏が久留米藩に入封すると、筑後国水運の拠点および肥前と筑後の国境、久留米と柳川との藩境の要所として久留米藩領の榎津町には榎津番所・遠見所、さらに札の辻・高札場が置かれました。
榎津町は、筑後川河畔にあり、若津港とともに久留米藩や天領日田の米を長崎や大坂へ回送する港として町場を形成し、早くから造船が盛んでした。
宝永3(1706)年には町数16町36間(1.8km)、竈数462、人数2141人、馬25匹、船数220艘。
嘉永7(1854)年は船大工10人、大工41人、桶師9人で、榎津町の特に庄分で木造船が盛んに造られました。
庄分の船倉には二見屋・五島屋・肥後屋・薩摩屋・岩田屋など約10軒の造船家がいました。
船大工の技術は、大川の指物に生かされて行きました。当町には別当が置かれ、浦役・船役も課せられていました。
藩境の石列(大川市小保)

この石列は、藩境石と言い伝えられています。江戸時代の小保地区は、久留米藩と柳川藩の藩境に位置し、宿場や港町として栄えていました。現在も当時を偲ばせる建物が残っています。
平成2年11月にこの石列の発掘調査を実施しました。
現在、石列は28本残っていますが、調査の結果、本来は29本であったことがわかりました。
石柱は、石質や大きさが異なっていますが、同じ間隔で、2箇所に穴があけられています。
この穴には横木が通されていたと思われます。
石列が作られた年代は、はっきりとしませんが文化8(1812)年測量のため、この地に立ち寄った伊能忠敬の測量日記に「
右八幡宮・左側久留米柳川境石」と書いてあります。
この他、宝暦9(1759)年の「小保町絵図」の中に描かれており、18世紀中頃には石列があったことがわかります。
大川市教育委員会
小保宿(大川市小保)
立花柳川藩領の小保町では、柳川城下札の辻から1里23間(約6km)で、人馬継所(馬10匹)がありました。
小保町には、海へ出入する船を改める小保番所が設けられ、大潮の時は300石船が出入できました。
また肥前国への渡場として筑後川河口域に小保津口番所がありました。肥前寺井村(現佐賀市諸富町大字寺井津)まで15町20間(約1.7km)、大潮の時には100石船が出来ましたが、干潮時には干潟に船を置きました。また、遠見番所も置かれました。
江戸時代後期の家数は150軒、人数1012人でした。
吉原家住宅(大川市小保)
玄関

廊下

御成門と家紋入り鬼瓦

吉原家雛飾り


浄福寺と山門の石柱

浄福寺の山門
寺の正門を山門という。ここ浄福寺の山号を地名をとって小保山といい、境内に略縁起を刻んだ石碑が建っている。
それによれば、天正年間(1573~)の頃までは、津村城主津村秀門の祈願寺・天台宗小保山受信寺と称していたが、二世了世のとき本願寺に帰属して小保山浄福寺と改称された。
浄福寺はお城の北の寺といわれ、この寺の山門は明治5年柳川城の天守閣が消失した後、城の辻御門を移したものと伝えられている。
30年程前に修理され、この時、棟を7寸(約20cm)高くし天保の鯱もその時に造り替えられた。
山門には、すべて仏寺特有の彫刻が飾りつけてあるが、ここ浄福寺の山門には飾りはいっさい施されてなく、城門の風格を残している。
大川市教育委員会
浄福寺山門の石柱
浄福寺山門入口に2基の石柱が立っています。
1基は「
第八次伊能忠敬測量隊御宿跡 文化9(1812)年10月12日」です。
この日、測量隊のうち、伊能忠敬は、小保町別当吉原正右衛門宅(旧吉原家住宅)に止宿し、別手組坂部貞兵衛らが浄福寺に宿泊しています。
もう1基は、「
浄福寺 諸国巡検使御目付御本陣跡 天保9(1838)年6月20日」です。
天保9年、柳川藩は、幕府巡検使の領内巡検にあたり、正使の本陣を吉原亀三郎宅(旧吉原家住宅)、副使の脇本陣を吉原茂蔵宅(吉原義朗宅)、御目付本陣を浄福寺に当てるように準備しました。
しかし、巡検使一行は6月18日に佐賀の蓮池町に止宿し、6月19日は寺井村に止宿(副使大久保勘三郎は、寺井村小林屋市兵衛宅に宿泊)しました。
そのため、6月20日10時に出立した一行は、筑後川を船で渡り、小保町波止場に上陸し、小保町で小休後、肥後街道筋の津村・幡保村・兼木村・田口村・枝光村などを巡検し、この日は柳川城下に止宿しています。
副使大久保勘三郎の宿所は大濱屋半兵衛宅でした。(「巡検使西國紀行」「西海道日記」)。
井手橋(出橋)御門と駅所(人馬継所) 柳川市
井手橋(出橋)は、柳川城下から沖端川を渡り、外町(ほかまち)に出るために架けられた橋です。
城の防衛のため見通しが効かないように、また、直線的に攻められないように、現在の橋よりもやや西寄りの、通りからずれた位置に架けられていました。
井手橋の町側には、「
出橋御門」が設けられ、人や者の出入りを管理する番所が置かれました。「出橋御門」があったところに、現在、「
井手の橋御門址」(昭和37年8月 柳川郷土史会)と刻まれた石柱が立っています。
御門の近くには、「勢溜まり(せいだまり)という、かなり広い空地がありました。軍勢が集まり控えている広場で、「武者溜(むしゃだまり)」ともいわれてました。
伊能忠敬の『測量日記』文化9(1812)年10月12日の条に、「此所(井手橋)駅所問屋場」とあります。
井手橋のところに「駅所」(人馬継所・馬問屋・会所)があったのです。
寛政3(1791)年2月改「町小路絵図」(柳川古文書館収蔵)には、沖端川に架かる出橋を出橋御門の方(町方)から渡り、右折した右側に「馬立(うまたて)」が描かれています。
柳川城下札の辻
柳川城の北東に「辻御門」があり、その外に藩領内の交通網の基点となる「札の辻」(柳川市辻町)がありました。
「柳川瀬高往還」をバスで通り、上庄宿・追分の道標などを半田隆夫先生が説明しました。
三橋公民館に到着後に解散しました。
この中の文章は今回の研修資料から抜粋してます。