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千寿の楽しい歴史
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2011武藤徳蔵家を訪ねる・千寿の楽しい歴史
武藤徳蔵   

みやま市高田町田尻の人

天保14(1842)年山川村原町(実家は郵便局)に生れ、武藤孫一氏(高田村田尻)の養子となる。

農業にありと信じ、土壌の改良、品種の選択、肥料の研究に志す。

明治32年、斎戒沐浴して丹精になる精撰米を献納した。

滅多に臣民の献納を許されぬ当時として、立花伯を通じ宮中に請い異例の御聴許を得たという。

明治39年に緑綬褒章を賜い、その篤行を表彰された。

明治44年、特別大演習の砌(みぎり)、大元帥陛下の御召米献納の光栄に浴する。

高田町誌より。(昭和33年10月発行)

現在の武藤家の土蔵

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私の家の真南300mの家です。

武藤徳蔵の顕彰碑 武藤家の手前20mの道路西側に建立されています。 

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明治三十六年八月   三池郡長正七位勲六等 十時参吉郎  撰文

               貴族院議員従三位伯爵   立花寛治  篆額

               三池郡岩田高等小学校長  安東慧   謹書

内容はかすかに判るほどで、上が最後に書かれているのが判読できます。右上の写真はクリックすると拡大します。

屋敷内に建つ弁財天(明治14年に武藤孫一が建立)

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後ろ姿は当家のご主人です。

下は弁財天堂の中に飾られている武藤徳蔵写真です。

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明治32年、斎戒沐浴して丹精になる精撰米を献納した時の写真だとご主人から聞く。

皇后陛下へ  壱俵  神力    

皇太子殿下へ  壱俵  国富

また、明治32年に皇太神宮へ大粒白玉撰米「3升5合」を献納した。

御観音堂

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左上の写真はクリックすると拡大します。

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明治19年3月15日、氏神社内において親睦会及び酒宴を行う。

下の十五人墓の処刑された人たちの追善供養のため、明治19年4月30日から5月2日まで御観音堂にて説教を行なっています。

この費用を賄うために武藤徳蔵氏が土地を田尻区に寄贈する。 左上の額に寄進したことが書かれていて、御観音堂に飾られています。クリックすると拡大します。
 
この行事が現在まで田尻区の世話で毎年4月第2日曜日(4月3日が日曜日の時は第3日曜日)に田尻研修所にて行われています。

4月3日は田尻区の森山神社にての皇太神社祭りで各組ごとに集まり花見が行われます。

現在は各家を世話人が廻り、米とお金を寄進してもらい、寺の住職から説教を聞き、終った後は、全員で、お接待を受け、楽しく会話がはずんでいます。

武藤徳蔵氏は高田町北新開に田三反を新開能を行う費用として寄進しています。

北新開の人世話する年は、10月17日の新開能がある前に、お礼参りとして酒と大鯛を持参して武藤家を訪れています。

新開能は北新開と南新開が交互に世話をしています。

有形民族文化財
十五人墓 所在 高田町大字田尻1298

 
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田尻の字山本にあり、安山岩の自然石に南無阿弥陀仏の名号と、元禄3年12月6日の年紀銘が認められる。

地元では昔から「十五人墓」と称し、村吏(そんり)某の貧虐(ひんぎゃく)を藩庁に訴えようとした百姓衆が、村吏の謀略により処刑されたその供養塔であるとか、島原一揆を落ち延びてきた切支丹宗徒の墓であるとも伝えられているが、いずれもそれを裏付ける確証はない。 

処刑者供養塔説の起こりは、明治20年に田尻の武藤徳蔵氏が建てた顕彰碑(けんしょうひ)に由来すると思われるが、徳蔵氏の子武彦氏が生前「其の冤枉(えんおう)を憐れみ、常に之を慰めんと欲し」ていたという処刑の一件については、何を根拠としたものか全く不明である。

碑面の交名は現在では判読困難であるが、顕彰碑にある名前から判断すると、彼らは在郷の柳川藩士と見られることから、真宗報恩講(ほうおんこう)の講中(こうちゅう)の人たちが、阿弥陀仏の名を賛美するため、共同で建立した信仰の記念碑だとする見方もある。

by kusennjyu | 2011-05-05 04:48 | 田尻の歴史
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