瀬高町下庄の神社仏閣巡りと新緑満喫2 5月10日午前中に雨が激しく振る中を7人で回る。
玉泉院宝聚寺 天台宗延暦寺末流。
上の写真は2枚で一本の大木です。
上の写真は左が銀杏の木で右が桜の木です。
天正天皇の養老年間(717~723年)、僧行基が諸国巡行の折に開基した。
又、勅願によって行基に命じ、諸国に談議所を建立させられた時に、この地に壮大な談議所を新設された。
維新の頃まで僧侶の御説教を御談議と言っていたので、昔は広大な談議所があった所であろう。今は地名となって残っている。
本尊の不動明王は行基の自作である。土像の弁財天は弘法大師の自作であると伝えられている。延暦2(803)年、大師入唐の折、天竺国五台の土で作られたものである。
往時、一大伽藍があったが、中古以来の度々の兵乱に遭い旧記堂宇を焼失した。
慶長9(1604)年に田中吉政より、元和7(1621)年に竹中采女(うねめ)よりのそれぞれの古文書や地下より掘り出された黄金仏などがある。
照曜山光源寺 真宗東派。慶長18(1613)年に僧祐閑開基。
日正山本浄寺尊寿寺 日蓮宗本国寺の末派。
上の写真は左が銀杏の木で右が桜の木です。
往古は金伝寺と称し真言宗であった。下庄八満宮の裏手にあった。延徳2(1490)年に興善寺と改称し法華宗改めた。後年、現地に移って日正山本浄寺と称した。
文禄3(1594)年に大友義統夫人の菊子が禅院死去の際、菊子は法華経信者で柳川領内は当時この寺だけであったので、当寺に葬った。夫人の法名は尊寿院と称した。菊子は宗茂の叔母である。
宝暦年間(1751~1763年)に今の尊寿院に改称した。
一方、文禄3(1594)年に尊寿院の霊を納めた時からとの説もある。
安養寺 真宗西派。元和年間(1615~1623年)に僧祐仙開祖。
文化5(1822)年2月、光徳寺の借庵となり、同9月に善教寺の借庵となった。
もとは禅宗で薬師堂があったが、竜造寺氏に焼かれ、その後、真宗西派となる。
二尊寺
本尊は、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊佛である。
古い由緒ある寺で戦乱の世に幾度も兵火に遭っている。
開基は、延暦3(1310)年、鉄山土安前禅師である。
往古は天台宗とあり、その後、禅宗に転じ曹洞宗に属し、肥後国川尻大慈寺の末寺となり、元禄元(1688)年に臨済宗妙心寺の末派となる。
以上の説明は瀬高町誌(昭和49年発行)より抜粋する。
瀬高町の寺院巡りを散歩コースに取り入れて新緑を満喫されたらと思います。