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千寿の楽しい歴史
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三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史
三池街道(高田町渡瀬南町)

三里石   渡瀬南町福正寺参道入口(国道横)

三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4103453.jpg三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4104675.jpg


渡瀬南町福正寺の参道入口に、石の標柱がある。これが藩政時代の三池街道筋に建てられた道標である。

地上高さ140cm、巾30cm角の砂岩石柱で、正面上部に『三里』と刻まれ、下部にやや小さく『江浦通』と刻まれている。

この石は地上80cm余りの個所で折れているものの、復修されて原形を留めているのは何よりの幸である。

福正寺

三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_41136100.jpg三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4115039.jpg


三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4125862.jpg渡瀬町家並み図・渡瀬の町は『宿場町』

鎌倉、室町時代までは、隈川、楠田川の河口であり、倉永の山下市場では、当時、島原、天草方面から産物を満載した舟が、隈川を上って運んで来て市場が開かれていた。

西鉄渡瀬駅の南西部の麓の集落に市場という地名が残っている。
渡瀬は後ろに小高い山があり、有明海を隔てて多良岳が眺められ、満潮はすぐ足元までよせていた。山の根にへばりつくようにして人家が点々と並んでいた。

倉永へ行くには、干潮時を利用して隈川の浅瀬を渡ったので、後にこの辺りを『渡瀬』と呼ぶようになったと言われている。
今日でも、倉永と渡瀬を結ぶ橋名は『干渡橋』と名付けられている。

陸地化していまい、3・4百年前までは海であったとは想像もつかず、今では5km余り西へ行かないと海岸に出ない程に干拓が進んでいる。

藩政時代の町並みはどうであったろうか。明治時代の家並み図が左のものである。

商人宿、旅籠屋、木賃宿が7軒。車力屋、馬車屋、車屋が10軒。桶屋、米屋、菓子屋、呉服屋、味噌醤油屋、鍋屋、床屋等々が軒を並べて、大変な賑わいぶりである。

福正寺は寺小屋を開かれていたし、すぐ前の家は、二川小学校が開設された所である。

松尾呉服屋には、『止宿人名簿』が残されている。


渡瀬町の東の家並みに特に目を引くのは、白壁づくりの家や土蔵が永い年月の風雪に耐えて、ある家は蔦を絡ませ、ある家は壁土が落ちて、赤茶色の地肌や骨組みを無残にさらしながら、懸命に地上にとどまっている姿である。

明治の渡瀬町の様子から、遡(さかのぼ)って、藩政時代を想像すると

柳川と三池の街道筋に栄えた宿場町である。

日常生活に必要なものは何でも揃っている商業の町である。

水天宮のお祭の折には近郷近在から人が集まって『』が開かれ、三池初市と並んで農具、竹細工、日用品、菓子、飴などの出店が並び、大勢の人出で賑わった産業経済の中心町であった。
今日でも、5月5日の水天宮祭には、昔の名残をとどめる出店や人出で混雑している。

隈川の干渡橋と横の水門

三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4142695.jpg三池街道(高田町渡瀬南町)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4143947.jpg


十年一昔の言葉のとおり、過ぎ去ったものは次第に人々の記憶から遠ざかり、風化していくのが世の習いである。

高田町にはまだまだ沢山の埋もれた文化遺産があり、その発掘、保存に町民こぞって努力すべきである。

郷土を大切に守り育ててきた先祖の偉大な遺産(文化財)を受け継ぐことは、ふるさとを愛し、ふるさとの良さを再発見し、『文化の薫り高い、心豊かな町づくり』 の創造の原動力となることを信じて疑わない。

『ふるさと学習1号 ぶらり歩いた三池街道』の編集者 西山吉之助氏や高田町郷土史部会員の皆様に感謝します。

私は今、高田町郷土史部の会員ですが、これからは先輩の沢山な資料を引き継いで、郷土史を次代に引き継ぐように努めていきますので、よろしくお願いします。





by kusennjyu | 2011-05-19 05:08 | 三池街道
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