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千寿の楽しい歴史
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2011梅野家歴史1(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史
梅野家の歴史1(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)

この本を当主の梅野泰生氏のご協力でお借りすることが出来たことを感謝します。

梅野茂芳氏のー公私に亘る80年の歩みーを記されていますが、みやま市の歴史のために残しておくべき点が多く、梅野家の歴史の中からみやま市の歴史を繙(ひもと)いていきます。

私的足跡

梅野家のルーツ(梅野家の家系)

家系図によれば、梅野家は菅原道真公の末裔である。
梅野家22代の長男が筑前黒田家に仕え、弟の梅野孫兵衛菅原信利が寛永2(1625)年、柳川領大塚郷女山千手尊の下に分家する。

これからは分家になってからの代で表記します。

5代目の梅野六之平菅原信勝の功績

女山に居住してから5代目の梅野六之平菅原信勝は享保17(1732)年と14年後の延享3(1746)年、さらに2度にわたる九州一円の大飢饉に際し「全財産を投じ長崎まで出かけて、金策などして飢民の救助に尽し、玄米、雑穀を出すこと千二百余俵、金銀を施すこと千数百両、作馬を与えること八十九頭とあり、藩主もその義挙に感動し、身分、格式を進め、長田山を賜る。

清水観音のある本吉に、二十軒の商家を新設し地方繁昌を図る。
元大塚の宮前に架かっていた眼鏡橋は灌漑排水事業のため返済川改良工事の際に清水谷下流に移設された。
さらに公共事業や慈善事業に私財を投じた。

2011梅野家歴史1(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4303571.jpg10代の梅野六之平菅原信周の功績

腸チフスにかかり、36歳で亡くなる。
六之平菅原信周銘入りの道標が、今も黒岩と藤尾などに残っている。
幕末に柳川藩士として奥州征伐に従軍した時の日本刀をさした記念写真が残っている。

梅野家歴史資料館に奥州征伐に従軍した時の記念写真と刀・火縄銃が展示さえています。


11代の梅野鐵太郎の功績

慶応4(1668)年に生まれる。
駒場の農学校(今の東大農学部の前身)の養蚕科に入学。
卒業後に農林省に勤め、養蚕検査員として各地を廻る。

26歳で帰り家を継ぐ。
桑の植栽を奨励し桑の葉や繭は自分が責任を持って買い取ると約束し、桑苗を無償で配布し、自ら養繭をするかたわら、絹糸を取る製糸工場も経営した。

日露戦争勃発により輸出できなくなり工場を閉鎖する。工場は女工30名余、事務職数名。

清水寺所有の山林に柑橘栽培を始める。(10ヘクタールの半分を茶園、半分を温州みかんやネーブルオレンジを明治末期頃に植栽する。
蜜柑で三千俵の小作米取りと同じ収入をあげてみせると、農業技術員の協力を得て育成する。

大正7年の九州沖縄物産共進会に出品したネーブルオレンジでは、1等賞を授与され、福岡県知事からの賞状が残っている。
大正10年頃には梅野蜜柑として有名になり、大牟田の青果市場に出荷する。

県知事から任命されて東山村長臨時代理を務めている。(清水村と水上村が合併した頃。)

東山村議を長く勤めて、灌漑用水路の改良や本吉・唐尾間の道路、女山・大塚間の道路、本吉・瀬高間の道路の改良などに尽し用地を寄付している。

永年学務委員を務め、教育の振興に尽している。

2011梅野家歴史1(傘寿を迎えて・梅野茂芳著者)・千寿の楽しい歴史_a0137997_4391520.jpg清水寺のために奉仕する。

大正12年、狂人の放火で、清水寺の本堂が全焼した。

門徒でない梅野鐵太郎氏が清水寺本堂の再建会長に推挙され、晩年は清水復興のために心血を注いだ。

自ら最高の寄進をするとともに、京阪神や東京方面まで出張して郷土出身も成功者などを尋ね、8年の歳月をかけて資金が集まり、昭和5年に再建した。


車が登る道路を造らねば清水寺はもとより、地域の発展はないと参道の改良に着手した。

常雇の人夫の他、地域青年団の奉仕作業により、営々工事を進め、自らも1日も欠かさず工事個所に登り、監督指図し、数年後に清水寺階段の下まで車道を完成させた。

次は12代目の梅野茂芳氏(傘寿を迎えての著者)へ続きます。

by kusennjyu | 2011-06-10 11:28 | みやま市の歴史 |Topに戻る