八坂神社の大提灯 7月21日に練り歩きます。
18日にキャンドルナイトで飾られた大提灯の由来について
7月21日、人物や風景、鳥や花を描いた高さ2.5m、直径1mの大提灯が町内を練り歩きます。
この大提灯を製作するには、約50日以上の日数を要し、和紙、絹や魚のうろこ、虫、木の皮などを使って緻密な作業を重ねて完成します。
昔は旧暦6月1日、2日の両日夜、提灯を奉納した町内の若者により、上庄全町を見物人に披露しながら、祇園提灯廻しを行っていました。
現在では、4m余りの葉のついた青竹に吊り下げ、大提灯に大ローソクの火を灯し、前に露払い、太鼓打ち、弓張提灯、風雨よけの雨傘(和傘)を持って、各町世話方によって祇園宮に奉納祈願した後、東鳥居から出発して上庄全町を約3時間かけて一巡、西鳥居から帰社して絵馬堂に安置保存されています。
大提灯の由来
上庄地区の誇る【大提灯】。その繊細で豪華な姿は、他に類を見ない見事なものです。
しかし、いつ頃、誰の手によって工夫され製作されたものか、文献は残っていません。ただ口伝によって伝えられているだけです。
それによると、安元2(1176)年、高倉天皇の御代藤原中次が、弟重国と京都祇園より、御分神を瀬高に勧請する際、上庄の住人で日頃より信心の厚い白武三郎兵衛という貧しい武士が、兄弟が当地に来ることを知り、たまたまその日が雨の降る日であったので、敗れた提灯を下げ、敗れた傘をさして、遠来の兄弟を出迎えたと言います。
また、一説には、白武三郎兵衛が流れる御神体を追いかけ、上庄の南西の棚町で拾い上げてお守りしたとか。その御神体を、お迎えした時の提灯と傘が破れていたと言われています。
さらに、白武三郎兵衛の子孫でのちに平野姓となった平野家が、祇園祭の提灯廻しの時、最初に提灯を出さないと他の者は提灯を出すことが出来ませんでした。それは平野家の祖先が提灯を工夫し、大金を投じて製作して出していたからです。
しかし、その後、家が貧しくなったため、破れた提灯と破れ傘に飾りをつけて先頭に立ったのが、この大提灯のはじめというなど、諸説の言い伝えがあります。
いずれが正しいかは定かではありませんが、その上部の短冊は破れ傘を現したものと言われています。
せたかの祭り<県指定文化財> 福岡県瀬高町発行より。