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千寿の楽しい歴史
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2011島原大変・肥後迷惑・寛政七年(1795年)・千寿の楽しい歴史
島原大変・肥後迷惑・寛政七年(1795年)  

平成23年6月22日作成

渋谷敏実書写「寛永津波被害の図」(荒尾市史より)  

図の全部が荒尾市の海岸線です。
  

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図の左が長洲町で、右の川は高瀬川(現菊池川)です。

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黄色の部分は津波被害があった所です。 

岱明町地方史

「寛政津波被害図」(崇城大学図書館蔵)によると、寛政地変による玉名郡内の被害は肥後藩の中でもっとも大きく、溺死者が2221人にのぼっている。

溺死者のうち荒尾手永は1472人、坂下手永は725人、小田手永は24人です。

当時、新地の多かった玉名西岸の長洲・平原・清源寺・上沖洲村(現長洲町)・下沖洲・塩屋村(現玉名市岱明町)に集中している。

横島山の津波跡

当時、横島村の新地は横島山南麓一帯(今日の国道501号線より北側)に限られ、集落は山麓の比較的高い位置にあったため、幸いにも溺死者は一人もいなかった。 

有明沿岸の地震と津波ー 「島原大変・肥後迷惑」に学ぶー

「島原津浪の記」(一緒に取材に行った先生の資料の一部より。 先生の古文書のままの翻訳文です。)

折りしも暗夜なりしかバ、高波ともしらず沖の方のなりとよむを人みなあやしと聞ほどに、はや渚近くよせ来る音におどろきてあわてさわぎ、にげさらんとせしうちにも欲心わすれがたく濱に出て船をつなぎとめんとし、家にありて資材をとり出んとせし者ハことヾく溺死せり。

たまゝ欲にひかれず、速ににげ出し者のみ危き命たすかり後日国政のあつき御恵をかうぶり、もとのごとく舎屋たてならべ産業に復し、ふたたびにぎハへり。

されバ後代もしかゝる事あらん時ハ欲をはなれ、萬の物を顧ず、たヾ老たるをたすけ、幼をたづさへて速に、にげのべ(し)。

かねて其道をもさだめ置て急難にのぞみてまよふことなかれ。又富るは家宅の堅固なるをたのミて立さらずして上下男女残らす(ず)不覚の死をせし者すくなからず。
健なるハつねに水になれ泳をよくするにほこりてにげゆかずして溺死せしたぐひ是多し。

これらの事をもよくゝかんがへてめんゝ覚悟し、子孫をもさとしいましむべし。

寛政七年(1795年)乙卯(きのとう)十月             以上

以上は自分たちで翻訳をした後に、先生が模範解答をされたものです。

先日の東北大津波でも人口千人位の島の住民の殆んど助かった例があります。

それは先祖の言い伝えで、津波が来たら、何も持たずに、すぐにこの石(高さ25m)の上まで逃げろということを守ったから助かったのです。

上の「島原津浪の記」にも、それが書かれています。

大津波の恐ろしさは、熊本市河内町の蓮光の本堂屋根の上まで津波が来て、流されたことは、はっきりと確認できました。

私たちは現在の避難場所としてどこが良いかを山の標高と建物の高さと建物強度の点から、地図に書き入れたらと先生が構想しています。

日頃から、各自の避難場所を考えておくことです。柳川市・みやま市・大牟田地区の海岸だけでなく、内陸深くまでくることを予想しておくべきです。

東北大地震・大津波の被害に遭われた皆さん、復興に頑張って下さい。

by kusennjyu | 2011-06-25 09:33 | 歴史学習会
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